もう 何もかも瞬の言う通りにするしかないような気がして、氷河は瞬に促されるまま、赤ん坊が眠っているベッドの枕元に腰をおろした。 瞬が、その隣りに並んで座って、言いにくそうに口を開く。 「氷河。あの……沙織さんがね、警察に連絡を入れたの――」 「そうか……」 嘘をつかれた人間が、嘘をついた人間を気遣っている。 そういう目をして、ためらいながら、瞬は氷河に沙織の決定を知らせてきた。 自分は瞬に気遣われる価値のない人間だと、瞬に気遣われている当人が思っているというのに。 「理性も忍耐も愛情も――そのどれも持っていないから、俺はこの子を取りあげられるのか」 あんな母親の許に返したら、この子供はまた命の危険にさらされかねない。 この子供の身の安全ということなら、あの感情と欲望だけでできているような母親より赤の他人の方が余程 確実にこの子供の身を守ることができる。 そう思って――そう感じて――氷河はこの子供を その母親から奪ってきたのである。 それを短慮と後悔はしても、この子を母親から引き離したこと自体は、氷河は今でも後悔してはいなかった。 「そうじゃないよ」 「なら、なぜ」 「実の親が理性と忍耐と愛情を備えているのなら、それがいちばんだけど、そうでない場合でも、子供には両親が揃っている方が望ましいでしょう? ……僕が女の子だったら、この子を引き取ることもできたかもしれないけど」 「瞬……」 泣きもせず、不実な男を責めもせず、瞬が何を考えていたのか。 瞬はもちろん、不実な恋人の幸福を考えていた。 愚かな男が連れてきた子供の幸福を考えていた。 彼等が何を望み、彼等を幸福に至らせるためにはどうするのが最善の策なのかを考えていた。 そして、おそらく、その幸福に自分が寄与できないことを、瞬は悲しんでいた。 裏切られた恋人としての悲しみや苦しみ以上に――自分が考えていた以上に――瞬は傷付いていたのだと、今になって氷河は気付いたのである。 それは氷河が最も避けたい事態で、その事態を避けるために、氷河はこのとんでもない嘘をついたつもりだったのだが。 「瞬、俺は、そんなつもりでは――」 「わかってる。氷河は僕のためにあんな嘘をついた。わかってるから安心して」 「……」 その言葉通りに、瞬はすべてを見通しているのだろう。 安堵すると同時に、氷河はひどく いたたまれない気持ちになった。 「理性と忍耐と愛情か。あんな馬鹿女より、おまえの方がずっと揃っているのに、俺が男だったばっかりに」 せめて赤の他人の二人が子供を引き取ることのできない原因は自分にあることにしたくて、氷河は瞬にそう言った。 瞬が氷河のその言葉に切なげに首を横に振ってみせる。 「僕たちより その素養を備えてて、経済力もあって、人間としての経験も積んでいて――それでも子供に恵まれないご夫婦はたくさんいるよ。世の中は不公平にできているんだ。こればっかりは仕方がないの」 そういう不条理も この世の中にはあるのだということを、瞬が知らせてくる。 だとしたら、赤の他人にすぎない氷河が 小さな子供のためにできることは、そんな不条理な世界の中で少しでも この子に幸せになってほしいと願うことだけだった。 「あんな馬鹿な女に返すくらいなら、この子は せめて そういう夫婦に引き取ってもらいたい。俺みたいに平気で他人を傷付けるような男では駄目なのなら、せめて――」 「氷河は素直で優しい いい子だよ」 「……子供を褒めているみたいだな」 「そんなことはないけど……でも、義憤だけでは子供は育てられないと思うよ。多分」 「……」 瞬の指摘は的確で――厳しいほど的確で――氷河は瞬の前で項垂れることしかできなかった。 氷河の心を この子供に向かわせたのは、瞬の言う通り、義憤以外の何ものでもなく、床に打ちつけられそうになった子供を受け止め、そのまま城戸邸に帰ってきた氷河の胸中に、子供への愛情や 子供の幸福を願う心はなかった。 その一事だけをとっても、自分に子供を育てる資格はないのだと思わざるを得ない――認めないわけにはいかない。 だから、氷河は、瞬と小さな子供の前で項垂れることしかできなかったのである。 そんなふうに すっかり落ち込んでしまった母親失格の男の心を鼓舞するように、瞬が突然くすくすと笑いだす。 「氷河、もし敵が攻めてきたら、この子をおんぶして戦うつもりだったの」 「それは……情操教育上、問題がありそうだな」 「戦っている時に雨が降ったりしたら、傘もさせないから風邪をひかせちゃうし」 「戦闘中は保育所かどこかに預けて――」 「そしたら氷河は、持ち歩くのが大嫌いな携帯電話をいつも身につけていなきゃならなくなるよ。そうして、氷河が敵と命がけのバトルをしている時に、氷河の携帯電話に、『お子さんが熱を出したので、すぐにお迎えにきてください』って連絡が入るの」 「……子育てというのは大変なんだな」 具体例を出されると、一人の子供を育てることの困難さが現実味を帯びて迫ってくる。 それは自分には到底 達成不可能な難事業だと悟り、氷河は低い呻き声を漏らすことになった。 「それだけじゃないよ。戦いのない日は戦いのない日で、氷河は この子の世話に時間をとられて、僕と二人でいる時間も全然なくなるの」 「それは嫌だ。俺の生き甲斐は、おまえが楽しそうにしているのを見ることだぞ」 「僕もだよ」 ふいに目許に浮かべていた微笑を消し去って、瞬が 到底 人の親にはなれそうにない男の顔を見詰めてくる。 それは、瞬が初めて見せる、恋人を責める眼差しだった。 その眼差しがたたえている悲しさと苦しさと切なさに、氷河の呼吸は一瞬 止まってしまったのである。 瞬にこんな目をさせるようなことをした馬鹿な男を、氷河は この世から消し去ってしまいたかった。 「すまん。俺は――本気でこの子を俺の手で育てるつもりでいたんだ。俺が正直にその決意をおまえに告げたら、おまえはきっと俺以上に この子の面倒を見てくれて、この子に責任を感じることになるだろう。俺が勝手にそうすると決めたことで、おまえにまで迷惑をかけるわけにはいかない。だから、俺は、最低の男になって、おまえに見捨てられるしかないと思ったんだ。俺は……俺は おまえを傷付けたか」 改めて問うまでもないことを問うた氷河に、瞬は微かに首を横に振ってみせた。 「氷河は意地悪な気持ちで人を傷付けるようなことはしない……ってわかってるから」 だから瞬は、愚かな男の愚かな行為を許す――許さざるを得ない――と言うのだろうか。 だとしたら、そんなふうに他者に“許し”を強要する傷付け方は、あまりに質が悪く、卑劣である。 「瞬……」 氷河は瞬に『おまえはこんな男を許さなくていいのだ』と言おうとした。 瞬が微かな笑みを浮かべて、氷河が言いかけた言葉を遮る。 「世の中のお母さんたちって、こんな気持ちで子供を育ててるのかな」 「……期待通りに育たない出来の悪い我が子を、それでも許さずにはいられない?」 出来の悪い子である氷河は、瞬の否定を期待したのだが、瞬は微笑するばかりで、彼の言葉を否定してはくれなかった。 代わりに瞬は、出来の悪い子供を愛しそうに見詰めてくる。 「みんなが許すし、みんなが許されるんだよ。氷河だけが特別に甘やかされているわけじゃない。だから、氷河も、いい子になろうっていう努力はしなきゃならないよ。でないと、星矢の脳の血管が興奮しすぎで切れちゃうから」 「……」 星矢の脳の血管は 切れかけているのが常態で、それが奴の活力源だろう――と言いかけた氷河は、だが、すんでのところで その反論を思いとどまった。 “いい子”はそんなことを言わない。 そして、自分という出来の悪い子供が、瞬のみならず星矢たちにまで心配をかけたのは事実なのだ。 その事実を、“いい子になろうと努力する氷河”は素直に認め受け入れることにした。 「俺はおまえを傷付けるつもりはなかったんだ。ただ俺は――」 子は親に愛されていてほしかった――ただ、それだけだったのだ。 そして、そうでない現実に憤らずにはいられなかった。 「うん。わかってる。氷河は優しい いい子だからね」 瞬が、子供をあやすような口調で、図体ばかりが大きい男の身体を抱きしめてくる。 子供扱いするなと腹を立てる気にならない程度には自分は大人なのだと、自分に言い訳をして、氷河は瞬の温もりに甘えることにしたのだった。 |