愛のゆくえ






瞬は、外出から帰ってくるなり自室に直行し、そのままドアに鍵をかけて部屋に閉じこもってしまった。
5秒ほど遅れて 瞬を追いかけていった氷河は締め出しをくらい、部屋に入れてもらうことができなかったらしい。
瞬の部屋のドアの前で 室内にいる人に何やら必死に大声で訴えていた氷河は、結局 その人の意思を変えることはできなかったらしく、まもなく一人でラウンジに戻ってきた。

そこに星矢と紫龍の姿を認めた氷河が、どうにも得心できないというような顔で、
「俺はどこかおかしいか」
と、実におかしな質問を仲間たちに投げかけてくる。
「へ」
そんな疑念が、いったいどういう経緯で氷河の内に生じることになったのか。
氷河のおかしさよりも彼の質問のおかしさにこそ、星矢は顔を歪めることになったのである。

とはいえ、聞けば、事情は極めて単純かつ明快なものだった。
要するに、たった今、氷河は瞬に、
「氷河はおかしいよ! 反省して!」
と怒鳴りつけられ、すごすご引き下がってきたところだったのだ。

『氷河は今更 何を言っているのか』とか、『この男は今まで自分が“おかしい”ことの自覚がなかったのか』とか、思うところは多々あったのだが、今は何より、瞬が『おかしい』と感じ、氷河が『おかしいのかどうか わからない』と思っている事柄の内容確認が先決。
星矢は、瞬説得が徒労に終わって疲労が倍増しになっているらしい氷河に、そのあたりの事情を尋ねてみたのである。
氷河の説明を聞く前から、悪いのも おかしいのも どうせ氷河の方に決まっていると、星矢は決めつけていたのだが。

「今日は何をしでかしたんだよ? 確か、おまえら、今日は なんとかかんとかって画家の回顧展に行ったんじゃなかったっけ?」
「ロバート・ハインデル展だ。現代絵画が苦手な瞬が珍しく――いや、それはどうでもいい。とにかく、二人で絵を見ていたんだ。そしたら、瞬に近寄ってきて、絵の解説を始めた男がいて――。最初のうちはイベント関係者かと思っていたんだが、あの野郎、実のところは知ったかぶりのただの客にすぎなかったんだな。散々 瞬に信用ならない薀蓄を垂れたあと、『趣味が合いそうですね、お茶でも一緒にいかがですか』ときた。すぐ横に俺がいるのを無視してだぞ!」

事の次第を仲間たちに説明しているうちに、氷河は、その無礼な男の無礼な振舞いをまざまざと思い出すことになってしまったらしい。
薄れていたはずの怒りまでが蘇ったのか、氷河は思いきり その眉を吊り上げた。
そして、肘掛け椅子のアームに投げ出していた手を、拳の形に変化させる。
以前、似たような経緯でできあがった拳をアームに叩きつけ、セットになっている椅子を一つ駄目にして沙織に大目玉をくらったことがあったので、氷河もさすがに その拳を ものに向かって振り下ろすようなことはしなかったが。

「また、いつもの勘違い男か。瞬は男だって言ってやれば済む話じゃないか」
「言ってやったさ。何か誤解しているようだが、俺の連れは男だと」
「うん、それで」
「そうしたら、一瞬 驚きはしたようだったが、あの助平野郎、それでも構わないと食い下がってきやがった」
「へえ、珍しい。大抵は引き下がるだろ。おまえの迫力に恐れをなして」
「恐れをなすどころか! あの知ったかぶり野郎、『ボクは芸術家だから、美しければ男でも女でも構わない』とか何とかほざいて、馴れ馴れしく瞬の肩に手をのばしてきやがった! だから、俺は瞬の身を守るために、あの馬鹿野郎の足元を凍りつかせてやったんだ。そうやって馬鹿の動きを封じたところで、俺は瞬を連れて次のフロアに移動しようとした――んだが……」

氷河の言葉がそこで途切れたのは、瞬に近寄ってきた男への怒りのためというより、その男の振舞いに呆れ果てたからのようだった。
そういう人間の口調で、氷河が言葉を継ぐ。
「ゲイジュツカというのは馬鹿なのか? 靴が床に貼りついているのを無視して、あの阿呆、瞬を掴まえるために歩こうとしやがった」
「そりゃまた愉快な御仁だな――」
執念なのか、はたまた 瞬以外のものが目に入っていなかったのか。
ゲイジュツカのゲイジュツ的な思考回路は星矢にも理解しかねるものだったが、そういう話を聞かされると、星矢としても、ゲイジュツカなる生き物があまり利口な生き物ではないという 氷河の見解に賛同しないわけにはいかなかった。

「当然、奴は、その場で すっ転ぶことになったんだが、その転び方がまずかったらしくて、ゲイジュツカ先生は右の肩の骨を折ってしまったんだ。多分、カルシウム不足と運動不足で、骨がやわになっていたんだろう」
「……」
氷河はゲイジュツカ先生の骨折の原因をカルシウム不足と運動不足によるものと決めつけているようだが、はたしてそうだろうか。
星矢は、ゲイジュツカ先生の骨折には もう一つ重大な要因があるような気がしてならなかった。
そんなことを氷河に指摘しても無駄だということがわかっていたので、星矢はあえて自分の考えを口にすることはしなかったが。

「病院にまで連れていってやったし、あの馬鹿野郎の自業自得の骨折の治療費もこっちで出すと話をつけてきた。なのに、瞬はすっかりおかんむりで――。悪いのは、身の程をわきまえずに俺の瞬に手を出そうとした、あの馬鹿野郎の方だろう。なのに、瞬ときたら、俺が瞬に近付く野郎をいちいち撃退しようとするのは 俺が瞬を信じていないからだなんて、妙な理屈を持ち出して 俺を責め始めたんだ。悪いのは俺だと? あの馬鹿野郎のカルシウム摂取量不足が、なんで俺のせいになるんだ。冗談じゃないぞ!」

憤懣やるかたなしと言わんばかりの氷河の様子は、4、5歳のいたずら盛りの子供が母親に『悪いのはボクじゃないもん!』と言い張っている図を、星矢に連想させた。
いい歳をして、この男は何をわめいているのかと、星矢は大いに呆れることになったのである。
が、それはそれ、これはこれ。
子供が母親に叱られることを恐れて そう言い募る時、悪いのは十中八九 子供の方なのだろうが、今回ばかりは星矢も瞬の理屈の方がおかしいと認めざるを得なかったのである。
もちろん、星矢は、だからと言って『氷河は全く悪くない』と言うつもりもなかったが。

「ああ、そりゃ、瞬の方が間違ってるよな。焼きもちってのは、自分に自信のない奴が焼くもんだろ。おまえの焼きもちは、おまえが瞬を信じてるとか信じてないとか以前の問題だよな」
と 一般論を言ってから、星矢は、それはおかしな話だと思い直すことになったのである。
氷河はどちらかといえば自信過剰気味の男だった。
瞬に近付く男たちを身の程知らずと断じ、自分だけが瞬にふさわしいと信じきっていることからしても、氷河の自信家振りは明白である。
だというのに、氷河の嫉妬深さは尋常のものではない。
考えてみると、これは実に奇妙なことだ――と、星矢は思ったのである。

星矢のその疑念に気付き、“氷河の焼きもち”の解説をしてくれたのは、それまで ほとんど沈黙を守り、傍観者を決め込んでいた紫龍その人だった。
軽く顎をしゃくってから、横目で氷河に一瞥をくれながら、龍座の聖闘士が言う。
「ああ、氷河の場合は、むしろ逆なんだ。こいつは、自分がいちばん瞬を好きで、自分がいちばん瞬を幸せにできる男だという自信と自負心があるから焼きもちを焼くんだ」

「なんでだよ? 自分に自信があるなら、泰然自若してればいいじゃん。なのに、氷河は、あっちの男が俺の瞬を見ただの、そっちの男が俺の瞬に気のある素振りを見せただのって、いちいち牙を剥いてさ。鬱陶しいったらないぜ」
しかも、氷河が牙を剥く相手は そのほとんどが、腕力でも立場的にも 氷河より格段に“弱い”人間なのである。
俗に『獅子は兎を狩るにも全力をもってす』と言うが、そんな獅子とて、ハエやノミを相手に全力をもって戦いを挑むことはしないだろう。
だが、氷河は、飽きもせず懲りもせず、毎日毎回、ハエやノミを追い払うために死力を尽くして戦ってみせるのだ。

「自分に正義があると信じているからこそ、氷河は他人を攻撃するのに躊躇がないんだ。自分こそが瞬を最も幸せにできる男で、他の男には自分ほどの力はない。なのに、その身の程知らず共が図々しく瞬に近付いてくる。だから氷河はそういう輩に腹が立つというわけだな」
「……傍迷惑な奴だな。他の男なんて放っときゃいいじゃん。おまえのどこがいいんだか 俺にはさっぱりわかんねーけど、瞬がおまえのことを好きなのは紛う方なき事実みたいだし、瞬に力づくで何かできる男なんて いるはずもねーんだから、おまえは何の心配する必要もないだろ。でんと構えてればいいんだよ」

星矢の言うことは事実であり、正論でもあるだろうと、氷河も思わないわけではなかったのである。
そして、紫龍の言う通り、氷河には自信があった。
誰より瞬を愛しているのも、誰より瞬を必要としているのも自分。
だから当然、瞬を最も幸せにできるのも自分。
その点に関しては、氷河は、自分は他のどんな人間にも負けないと信じていたし、また そうであってほしいと願ってもいた。
だが、自分が瞬に誰よりも愛されているかどうかということについては、氷河は全く自信を持っていなかったのである。
瞬は、なにしろ誰にでも親切で優しく、博愛主義の気すらある人間である。
瞬はむしろ、誰よりも瞬を愛している男にこそ 最も優しくないのではないかと、氷河は疑っていた。

「俺の焼きもちが自信の表われだとして、じゃあ、瞬はなぜ妬いたりすることがないんだ? 瞬は自分の気持ちに自信がないのか?」
「妬く相手がいないってだけだろ。妬きたくても、おまえに女が寄ってこねーんじゃ話になんねーじゃん」
「俺は、瞬が目をとめるものなら、庭に咲いている花にだって焼きもちを焼くぞ」
「おまえは、瞬にまで 人間としての尊厳を捨てることを要求すんのかよ!」
「しかし、少しくらいは――」
少しくらいは妬いてみせてくれてもいいのではないか。
そうすれば、瞬を恋する哀れな男は、自分は僅かでも瞬に愛されているのだと信じることができるようになるに違いないのだ。

「それこそ、おまえを信じてるからなんじゃねーの?」
「ならいいんだが……」
曖昧に星矢に頷き返しながら、氷河は内心では『それだけはない』と思っていたのである。
もちろん氷河には、自分が瞬を好きでいること、その思いの強さ深さは誰にも負けることはないという自信と自負があった。
が、同時に、氷河は、自分が瞬に固い信頼を抱いてもらえるほど立派な男ではないという点に関しても、かなりの自信を抱いていたのである。

いずれにしても、瞬が氷河という男を信じているかどうかということは 瞬の心が決めることで、その件に関しては氷河の自信の有無は ほとんど何の意味も持たないことである。
こればかりは、氷河がじたばた騒いでも、あれこれ考えても、どうなるものでもない。
それだけは、氷河にも わかっていた。

「それより、当座の問題は、天岩戸に閉じこもった瞬に出てきてもらうことだろ」
「あ? ああ、そうだった」
すっかり失念していたことを、星矢に言われて思い出す。
思い出したところで、氷河は、この窮状を打開する どんな有効な手立ても持っていなかったのだが。
「『ごめんなさい、もうしません』で許してもらえると思うか?」
「どうかなあ……。いつもと違って、今回は負傷者が出てるわけだろ。瞬はそういうの嫌いだからなあ」
「……」

その事実を指摘されて、氷河は思いきり暗澹かつ憂鬱な気分になってしまったのである。
瞬に許してもらうには、瞬の前で今日の不始末を深く反省してみせなければならないのだろう。
だが、氷河は、そういうやり方で この事態を解決することを、できれば避けたかったのである。
何といっても氷河は、正義は自分にこそあると信じていた。
自分の内にある正義を曲げてまで瞬におもねることは不本意であるし、反省してもいないのに反省した振りをすることは、瞬に対する不誠実である。

どちらに転んでも快い結果を得ることができないのであれば、氷河はむしろ、『自分だけが、瞬に近付いてくる者たちに嫉妬しているという事実』『瞬は何に対しても全く妬くことがないという事実』の解明にこそ、貴重な時間を費やしたかった。
そして、できることなら、瞬は本当に自分を好きでいてくれるのかという 拭い去れない不安と疑いを消し去ってしまいたかったのである。






【next】