瞬が何かに妬く素振りを見せてくれたなら、それで自分は 少しは瞬に愛されているのだという自信を持ち、心を安んじることができるようになるだろうか――。
瞬の部屋に向かって足を動かしている間、氷河はそればかりを考えていた。
某ゲイジュツカのことなど、かけらほどにも思い浮かべることをしなかった。
だから、瞬の部屋のドアの前で瞬の名を呼び、やっとドアを開けてくれた瞬に開口一番、
「反省した?」
と問われた時、氷河は、瞬がいったい何を言っているのか、咄嗟に理解することができなかったのである。
当然のことながら、氷河は、瞬に反省している“振り”をしてみせることもできなかった。
そんな氷河の様子を見た瞬が、
「反省したのでなかったら、入ってこないで」
と言って、ドアを閉じようとする。

「……」
恋をしている人間が、その恋人に対して こんなにも つれない態度をとることができるものだろうか。
瞬は実は 瞬の恋人ということになっている男を さほど好きなわけではなく、だから、瞬の恋人ということになっている男が自分の言葉によって傷付くことになっても構わないと考えているのではないだろうか――と、氷河は思った。
そして、もし瞬が その恋人を大して好きなわけではないのだとしたら、なぜ自分だけがこんなに瞬を好きなのかと、二人の恋のあり様を疑うことになった。
この不公平、この不条理、この理不尽。
氷河はどうしても合点がいかなかったのである。
自分はこんなに瞬が好きなのに、瞬はそうではない(らしい)ということに。

だからなのかもしれなかった。
その時ふいに、『妬く相手がいないってだけだろ。妬きたくても、おまえに女が寄ってこねーんじゃ話になんねーじゃん』という星矢の言葉が頭をよぎったのは。
そして、星矢が言っていたように、妬く対象を瞬に提供したら、瞬も少しは嫉妬の感情を抱いてくれたりするのだろうか――などという考えが、氷河の中に生まれてきたのは。
そして、その考えが、今の自分にとって唯一の希望であるように思えたのは。

目の前に希望の影が見えると、それを掴んでしまうのがアテナの聖闘士の習性である。
次の瞬間、氷河は、瞬が閉じようとしたドアを左の手で掴み、ほとんど反射的に、
「おまえの他に好きな奴ができた」
と、瞬に言ってしまっていた。

「え……」
瞬が瞳を見開いたのは、氷河の衝撃的な告白に驚いたからというより、そんな告白が なぜ今このタイミングで為されるのかを理解しかねたからだったろう。
瞬は、氷河の度の過ぎた焼きもちのせいで負傷者が出てしまったことを憂えていたのに、氷河は(瞬にしてみれば)あさっての方を向いた話を突然持ち出してきてみせたのだから。
だが、氷河にしてみれば、カルシウム不足で骨折するような阿呆は、それこそ おおとい出直してきてほしい存在だったのだ。
「おまえはいつも俺を怒ってばかりで、だから、いい加減 俺も嫌気がさしてしまったんだ」
だから――瞬に“今”を見詰めてもらうために――あさってでもなく、おとといでもない“今”を見詰めてもらうために――氷河は言葉を重ねた。

「……」
氷河の唐突な告白に、瞬はすぐには反応を示してこなかった。
瞳を見開いたまま、何も言わずに沈黙を守っている。
氷河にそう告白されても、瞬は何も言わず、沈黙を保っていた。
思ってもいなかった告白に驚きすぎたのか、あるいは瞬は その告白を冗談だと思ったのか。
ともかく瞬に何らかの反応を示してもらわないことには、話が進展しない。
瞬の反応を引き出すために、氷河はもう一押しを試みた。

「本当はもっとずっと前から、俺は おまえより その子の方がいいと思ってたんだ。だが、おまえを傷付けてしまうことになるんじゃないかと思って、なかなか言い出せなかった」
ここまで言えば、瞬も、少なくとも自分が告げられた言葉の意味くらいは理解してくれるだろう。
そう考えて、氷河は、その反応を探るように下目使いに瞬の顔を窺ってみたのである。
瞬が、そんな氷河の顔を見上げ、見詰め返してくる。
嘘を見透かされてしまうような気がして、氷河は思いきり ひやひやすることになった。
と同時に、氷河は、もし瞬が泣くようなことがあったなら すぐにも『冗談だ』と答えるための心の準備をしたのである。

やがて、瞬が、ゆっくりと一度 瞬きをする。
それから、瞬は、浅く首肯し、おもむろに口を開いた。
「氷河が僕にそんな遠慮をする必要はないんだよ。氷河に僕より好きな人ができたって、氷河を責める権利は僕にはないでしょう? 人の心は自由なんだから」
「なに?」

何か奇妙な言葉を聞いた――ような気がする。
氷河は、自分が何を言われたのかを、咄嗟に理解することができなかったのである。
理解できるはずがないではないか。
『そんなこと、嘘でしょう?』
『そんなの いやだよ』
『どうしてそんなことになるの』
『お願い。嘘だって言って』
それは、氷河が想定していた瞬の様々な反応のどれとも違っていたのだ。
話は、氷河が期待していたのとは違う方向に進み始めていた――。

数秒後、瞬が恋人の心変わりを容認しているらしいことを何とか理解するや、氷河は焦慮とも困惑とも言い難い不安に囚われることになったのである。
誰の心が自由だと、瞬は言っているのだろう。
白鳥座の聖闘士の心が これほど強く瞬に縛りつけられているのが、瞬には見えていないというのだろうか――。
自分が引き起こしたこの事態の意味するところ、瞬の言葉、瞬の気持ち――それらすべてが理解しきれずにいる氷河に向かって、瞬は、
「そう……氷河に好きな人ができたの……。できれば、いつか僕にも紹介してね」
と言って、氷河に にこりと笑いかけてきさえした。

瞬にそこまで言われて初めて、氷河は、自分の軽率がどういう事態を招いてしまったのかを理解し慌てることができるようになったのである。
「瞬っ、おまえはそれで平気なのかっ。俺は、おまえ以外に好きな奴ができたと言ってるんだぞ!」
「氷河がその人を僕より好きで、その人が僕より氷河を幸せにしてくれるのなら、僕は、その人にこそ氷河の側にいてほしいと思うよ。当然でしょう?」
「……」

取り乱しもせず、落ち着いた声で、真夏の太陽の狂気のように真っ当な理屈を言い募る瞬に、氷河は呆然とすることになったのである。
確か、自分は、瞬に妬いてもらうべく、その対象を瞬に提供するつもりで、ありえない嘘を瞬に告げた。
もし、それでも瞬が“妬く”という行為に及ぶことがなかったとしたら、それは、瞬が恋人の嘘を見破った時、もしくは、恋人の告白を信じなかった時だけだろうと、氷河は思っていた。
だというのに、瞬は、ありえない嘘を素直に信じ、妬くことも泣くことも怒ることさえせず、いつも通りの微笑を浮かべて『いつか僕にも紹介してね』などと馬鹿げたことを言っている。

自分は、瞬にとってそんなにも軽い、そんなにも簡単に諦めてしまえる存在だったのだ――。
そう思わざるを得ない瞬の落ち着きが、氷河から思考力と気力を奪った。
あれは嘘だったと弁明する力さえ、今の氷河には持ち得ないものだった。
ぐらりと身体が揺れる。
このままだと自分はこの場に卒倒してしまいかねない――と、氷河は本気で思ったのである。

少しずつ後ずさるようにして、瞬との間に距離を置く。
そうして何とか自分の身体を廊下に運ぶことができた氷河は、ともすれば その場にへたり込んでしまいそうになる己が身を 壁に手をついて支えながら、階下に下りる階段へと向かったのだった。






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