夢遊病患者のような足取りで ふらふらとラウンジに入ってくるなり、熱中病患者のようにぐったりした様子でソファに倒れ込んだ氷河を、星矢は怪訝に思ったらしい。 どうかしたのかと尋ねてくる星矢に、だが、氷河はすぐに事情を説明するだけの気力が湧いてこなかった。 2分ほど星矢を待たせてから、氷河はなんとか、 「妬いてもらえなかった」 という、極端に短い状況説明をすることができたのだった。 「妬いてもらえなかった? おまえ、なに言ってんだ?」 それは、今日の不始末を反省している“振り”をして 瞬に許しを乞いに行ったはずの氷河の発言としては、あまりに脈絡がなく前後関係が不明瞭。 当然のことながら、星矢は、それはいったいどうことだと氷河に尋ね返すことになったのである。 「瞬より好きな相手ができたと嘘をついてみたんだ。そうしたら、瞬は――」 性格、行動様式、価値観。そして、賢愚のほど。 それらすべてを正確に把握してくれている仲間というものは、実にありがたい存在である。 氷河が短い補足説明を加えただけで、彼の仲間たちはすぐに すべてを察してくれた。 おかげで氷河は、彼が最も詳細に説明したくない部分を言葉にせずに済んだのである。 「おい、そんな嘘ついて何の得があるんだよ! おまえは馬鹿か!」 得難い仲間の一人であるところの星矢が、非常に的確な評価を下し、 「瞬は、おまえのように、自分こそがおまえを幸せにできる唯一の人間だなんて うぬぼれることのできる自信家じゃないから、おまえにそんなことを言われたら すぐに信じて、そして諦めてしまうぞ。瞬がおまえに焼きもちを焼いてみせないのは、自分に自信がないからだろう。おまえに自分よりふさわしい人間がいると知ったら、瞬はおまえのために身を引いてしまうに決まっている。瞬はおまえとは違うんだ。少し考えればわかることじゃないか」 もう一人の得難い仲間であるところの紫龍が、瞬の言動の内実までを解説してくれる。 できれば、その評価と解説を、あと10分ほど早く語ってほしかったと、氷河は思うことになったのだった。 そして、“少し考えればわかること”がわからなかった10分前の自分自身を、氷河は地獄の底より深く恨み悔やむことになったのである。 「早く、嘘だったって言ってこいよ!」 星矢が苛立ったように急き立ててくる。 そうしなければならないことは、氷河にもわかっていた。 だが、身体が動かない――頭がまわらないのだ。 こうなると、瞬に妬いてもらえないなどということは大した問題ではなかった。 問題は、恋人の心が他の人間に移ったという事実(嘘)を知らされたにもかかわらず、全く取り乱す気配を見せない瞬の態度の方である。 「瞬は本当に俺が好きなのか――」 「好きでなかったら、瞬が、おまえみたいな馬鹿の相手してくれるはずないだろ。なに 今更なこと言ってんだよ!」 「馬鹿だから……瞬は俺に同情していただけなのかもしれない」 「だったらどうだっていうんだよ! そんなら、おまえを馬鹿に産んでくれたマーマに感謝すればいいだけのことだろ!」 星矢の言うことは、おそらく正しい。 だが、同時に間違ってもいる。 氷河という男が もう少し賢明な人間であったなら、そもそも今のこの事態は生じることがなかったのだ。 「夏場のシロクマみたいにぐったりしてないで、早く瞬のとこに行けってばよ!」 繰り返し 星矢にけしかけられても、氷河はどうしても立ち上がる気になれなかった。 『あれは嘘だった』と瞬に事実を告げて、それでどうなるというのだろう。 瞬が馬鹿な男の馬鹿な嘘を許し、二人が元の“仲間内では公認の恋人同士”という関係に戻ることができたとしても、それは形式上のことにすぎない。 否、二人の関係は、最初から形式的なものだったのだ。 恋人の心変わりを知らされても ほんの僅かの動揺も見せない程度にしか、瞬は瞬の恋人ということになっていた男を好きではなかったのだから。 あるいは、瞬は、最初から馬鹿な男を全く好きではなかったのかもしれない。 瞬は、『おまえが好きだ』と告白してきた仲間に、『僕は特に好きじゃないよ』と答えることができなかっただけなのかもしれない――。 様々なこと、様々な可能性を、悪い方向に思い巡らすほどに、氷河は瞬の顔を見るのが恐くなり、とてもではないが瞬の許に行く勇気が湧いてこなかったのである。 一刻も早く瞬の許に行けと 星矢にけしかけられても、迅速な対処が賢明だと 紫龍に忠告されても、氷河は動かなかった――動けなかった。 そんなふうに氷河がぐずぐずしている間にも時は過ぎ、星矢と紫龍は、カノン島の噴火口に投げ込まれたトドのごとき氷河の情けないありさまに 呆れ焦れることになったのである。 頼みの綱は、瞬の方が氷河の許にやってきてくれることだったのだが、その日、夕食の時刻になっても、瞬は自室に閉じこもったまま階下に下りてきてはくれなかったのだ。 「ほら、瞬はおまえの嘘がショックで、メシ食う力もないんだよ。おまえが何とかしてやんなきゃ、瞬は飢え死にしちまうぞ」 「しかし……」 つい先刻までの自信家振りはどこへやら、氷河はすっかり逃げ腰になっている。 白鳥座の聖闘士らしからぬ その弱気に、さすがの星矢も苛立ってきたらしく、事ここに至って彼は実力行使に出たのだった。 「瞬が平気でいるわけないだろ! おまえのために取り乱すまいとしてるだけに決まってる。早く謝ってこいって!」 そう言って、氷河を廊下に押しやった星矢は、 「殴られても蹴られても、大人しく頭を下げたままでいるんだぞ! 悪いのは嘘をついたおまえの方なんだからな!」 と、ぐずる男を大声で怒鳴りつけてきた。 瞬が、馬鹿な嘘をついた馬鹿な男を殴ったり蹴ったりしてくれたなら、まだ希望はある――と、氷河は思ったのである。 しかし、瞬はそういうこともしてくれないだろう。 瞬にとって“氷河”はそんなことをしてやるほどの価値も意味もない存在だったのだ。 だから瞬は、その心変わりを知らされても、怒声ひとつ、涙ひとつ、彼の元恋人に与えてはくれなかったのだ――。 そんな事実を再び確かめるために、なぜ自分は瞬の許に赴かなければならないのか。 そうすることに何の意味も意義も見い出せないというのに、それでも氷河が瞬の部屋に向かったのは、彼が、何かをしなければならないことはわかっているのに 自分では何も考えることができない状況にあったからだった。 何も考えることができないから、氷河は星矢の指示に従うことしかできなかったのである。 |