「瞬」
恐る恐る部屋の主の名を呼ぶと、そのドアはすぐに開けられた。
「どうかしたの?」
と、瞬が落ち着いた声で尋ねてくる。
昨日と今日とで世界は何も変わっていない、悲しいことも 腹立たしさを覚えるようなことも何ひとつ起こらなかった――と言わんばかりの様子をした瞬に、いったい何を言えばいいのか、何を言うことができるのか。
それが、氷河にはわからなかったのである。
恋人の心変わりを知らされたにもかかわらず、ここまで平然としていられるということは、馬鹿な男との恋人関係が解消されることは、瞬にとって大した苦痛ではないということなのだろう。
それは、瞬には、むしろ喜ばしいことですらあるのかもしれなかった。

だが、氷河にはそうではなかったのである。
瞬を失うこと、二度と瞬を抱きしめられなくなること、瞬が自分以外の誰かを愛するようになるかもしれないという可能性、それらのすべてが、氷河には耐え難いことであり、許せないことだった。

「何かあったの?」
何もなかったように そう尋ねてくる瞬は、もう自分の恋人ではないのか。
瞬にとって自分はもう特別な人間ではないのか。
おそらくそうなのだろうと思おうとした氷河の上に、その考えを押しのけて突然、『そんなことがあっていいはずがない』という怒りにも似た感情が降ってくる。

そんなことがあっていいはずがない。
そんなことがあるはずがない。
これ・・は俺のものだと、世界のすべてを敵にまわしても、瞬自身を敵にまわしても、俺はこれを自分だけのものにしておくのだと、氷河は その時その瞬間に固く決意したのである。
そうしなければ、氷河という男は死んでしまうだろうと、氷河は思った。
そして、氷河は死にたくはなかった。
瞬が生きている限りは。

「……何も。おまえが俺の部屋に来ないから、俺が来ただけだ」
言うなり、氷河は、瞬の腕を掴み上げた。
そのまま引きずるようにして、瞬の身体をベッドに運び、シーツの上に押し倒し、両の腕を使って瞬の手の自由を奪う。

「氷河 !? 」
元恋人の乱暴な振舞いに 瞬が戸惑ったような声をあげ、氷河はその声を無視した。
「俺を好きでいるのなら、大人しくしろ」
“俺”を好きではない瞬に そう命じることの無意味。
それが無意味な命令であることは、氷河にもわかっていた。
氷河の胸中には自虐の思いが生まれ、それは さほどの時を置かずに、氷河の中で 瞬に対する冷酷に変化していった。

本音を言えば、氷河は瞬にネビュラストームで吹き飛ばされるくらいのことは覚悟していたのである。
瞬がその素振りを見せたなら すぐに、瞬の手を凍りつかせるくらいのことをするつもりでもいた。
だが、氷河の無意味な命令を聞くと、それまで氷河の腕から逃れようとしてもがいていた瞬は すぐに大人しくなった。
瞬が“俺”を好きでいるはずがないのだから、瞬が静かになったのは、馬鹿な元恋人に抵抗するのも面倒と思ったからに違いない。
そう思うと、氷河の中には、また抑えようのない怒りがこみあげてきてしまったのである。

むしゃぶりつくようなキスをしながら、氷河は、瞬が身に着けているものを引き剥いだ。
そうして氷河が始めた性急な愛撫は、瞬を快くするためのものではなく、瞬に加えられることになる交合の負担を軽くするためのものでもなく――ひたすら『これは自分のものだ』という主張を主張するためのものだった。
昨日までの瞬が、昨日までの恋人に見られることにも羞恥を示していた場所ばかりを、氷河は執拗に触れ、撫で、舐めまわした。

「んっ……ん」
やがて、低く くぐもった声が、瞬の唇から洩れ始める。
少しも優しくない、むしろ瞬の身体を揶揄するような愛撫を、瞬は苦しげに眉根を寄せて受け止めていた。
優しくない男だと瞬に思われても、そんなことはもうどうでもいい――と、氷河は思ったのである。
氷河はとにかく、瞬という人間の身体は 氷河という男のものだという事実を、瞬に思い知らせてやりたかったのだ。
だから氷河は、瞬が昨日までの恋人の愛撫に屈して 甘い喘ぎを洩らし始める前に、その身体を必要以上に大きく開かせ、瞬の呼吸の様子も確かめずに瞬の中に押し入っていったのである。

声にならない悲鳴をあげ、一瞬 身体を硬直させた瞬は、すぐにその唇を噛みしめた。
いつもなら、その状態で、侵入してきた異物の大きさや硬さを 瞬の身体の内側が知覚し認められるようになるのを待つのだが、氷河は今日はその時間を瞬に与えることもしなかった。
一度も止まることなく、すぐに大きな律動を始める。
瞬の身体は、そのたび 硬く強張っていった。

「あっ……ああ……いや……痛い……氷河、やめてっ」
苦痛にも、苦痛に耐えることにも慣れているはずの瞬が、悲鳴じみた声で氷河に哀願してくる。
前戯が足りなかったことはわかっていたが、氷河には もはやどうすることもできなかった。
瞬の心が自分のものでないことへの苛立ちが止められない。
そして、瞬が自分のものだという事実を瞬に知らしめ、自分自身もそうだと信じられるようになるための術を、氷河は他に思いつかなかった。






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