瞬に こんな乱暴をしたのは、氷河はこれが初めてだった。
暴行者に解放された時の 瞬の安堵の長い吐息から察するに、この交合の間、瞬は その身に痛みをしか感じていなかったに違いない。
にもかかわらず、瞬に暴行を加えた男の身体は いつもと変わらぬ――もしかしたら、いつも以上に――強い快楽と深い満足を得ているのだから、これほど皮肉な話もなかった。

もっとも、終わったものを瞬の中から引き抜く際に ちらりと見えてしまった瞬のこめかみの涙のあとが、肉体の快楽や満足より強く深い後悔を氷河の許に運んできて、氷河がこの乱暴で得た快楽の類は すぐに彼の中から消え去ることになってしまったのだが。
氷河は慌てて瞬の上から視線を逸らした。
何ということをしてしまったのかという後悔と、今度こそ本当に自分は瞬に愛想をつかされてしまいかねないという不安が、氷河の心身に重くのしかかってきて、氷河は瞬の顔をまともに見ることができなかったのである。

「う……」
低く小さな呻き声を洩らして、瞬が身体の向きを変える。
暴行者は後悔と恐れのあまり、瞬の姿を視界に入れることさえできずにいるというのに、氷河の乱暴の被害者は、いつものように その身体を暴行者の方に向き直らせてきた。

瞬はその瞳に、憎悪か軽蔑の色をたたえているに違いない――。
そう思うほどに、瞬の顔を見るのが恐ろしくて、氷河は目を閉じようとした。
だが、彼は、懸命の努力にもかかわらず、そうしてしまうことができなかったのである。
微動するのも恐ろしくて、氷河はただ全身を強張らせることしかできなかった。

瞬が、そんな氷河の顔を覗き込んでくる。
憎悪か軽蔑の色がたたえられているに違いないと思っていた瞬の瞳は、氷河の想像とは全く違う様相を呈していた。
少し悲しげではあったし、非常に切なげでもあったのだが、そこに暴行者への憎しみはたたえられていなかった。
これほど無体なことをされたというのに、瞬は氷河を責めるようなこともしなかった。
そうする代わりに、瞬は、意外なほど穏やかな声で、
「氷河は、いちばん好きな人とじゃないと、こういうことはできないんだと思ってた」
と小さく呟くことだけをしたのである。

「……」
瞬の考えと判断は正しい。
“氷河”は、瞬の言う通りの男だった。
“氷河”は複数の相手に同時に好意を持ち、同時に相手をするなどという器用な真似ができる男ではない。
そんなことは少し考えればわかりそうなもの――“氷河”の性格や不器用を知る者になら、それは考えるまでもなく、すぐにわかるはずのことだった。
だというのに、なぜ瞬は、他に好きな相手ができたなどという、あり得ない嘘をすんなり信じ 受け入れてしまうのか。
恋人を信じていないのは、瞬の方ではないか――。

悪いのは瞬の方、恋人を最初に裏切ったのは瞬の方――そう思おうとして、だが、氷河は、結局そう思ってしまうことはできなかった。
瞬は、馬鹿な男の告げた馬鹿な嘘を信じただけなのだ。
だから――氷河は瞬に謝りたかったのである。
瞬の前に土下座でも何でもして 謝りたかった。
悪いのは自分なのだから、瞬からどんな罵倒を受けることになっても、それは仕方のないことだと思ったし、それこそ 殴られても蹴られても構わないと思った。
それで瞬の気が済んで、瞬が、愚かな男の嘘と暴力を許してくれるのなら。

にもかかわらず、氷河が瞬に許しを乞うことができなかったのは、そうやって瞬に謝っても瞬に許してもらえないことが恐ろしくてならないから――だった。
それは、氷河には死刑宣告も同じこと。
その罰に値する罪を犯したことはわかっているのに、氷河はそれでも生きていたかったのである。
氷河にとって“生きていること”とは つまり、瞬を愛し瞬に愛されている状態のことだった。

謝る代わりに、かすれた声で瞬に尋ねてみる。
「紫龍が……おまえが焼きもちを焼かないのは、おまえが自分に自信を持てていないからだと言っていた。だから、自分より俺にふさわしい人間がいると知ったら、おまえは簡単に俺から身を引こうとするだろうと。……そうなのか」
「氷河に、僕より好きな人いるっていうのなら、僕はもちろん氷河を諦めるよ。でも、それは僕が自分に自信を持てていないからじゃなく――むしろ、僕は度を越した自信家なんだと思うよ」
「なに?」

瞬を見る勇気を持てるようになったというより、瞬の意外な言葉への驚きに揺り動かされて、氷河は瞬の顔を覗いてみたのである。
そこには、見詰める人間が悲しさを感じずにはいられないほど静かな瞬の瞳があった。
その瞳は、確かに自信のようなものを宿している――ように見えないこともない。

「僕は氷河を好きだよ。氷河はね、これまでたくさんの人に愛されてきたでしょ。もちろん、愛してもきた。この先、僕なんかよりずっと深く愛する人に出会うかもしれない。もっと熱烈な恋をするかもしれない」
「そんなことは――」
「でも、氷河は、僕に愛されるより愛されることはないよ。氷河が、僕以外の誰かに、僕より愛されることはない。誰も、僕より氷河を愛せない。僕が誰よりいちばん氷河を愛してるよ」
「……」

瞬はいったい何を言っているのか――と、氷河は疑うことになったのである。
瞬が告げる言葉は、まるで ほんの数時間前まで白鳥座の聖闘士が確たる根拠もなく抱いていた自信と全く同じものだったのだ。
「――と、僕は思っている。氷河のために命を投げ出した人たちより、僕の方が氷河を愛してるって思ってる。そういう考えって傲慢でしょ。氷河も不快に思うでしょ。腹の底では そんなこと考えてるなんて、僕が氷河に言えるわけがない」
「瞬……」

では、瞬はなぜ“言えるわけがない”ことを、今になって言うつもりになったのか。
言葉にはせず、その瞳を見詰めることで、氷河は瞬に尋ねたのである。
瞬は、氷河の胸に頬を押しつけ、その指に氷河の髪を絡めながら、少し苦しげに微笑した。
「初めて 氷河とこういうことをした時、僕は、氷河のために自分はこんなことまでできてしまうんだって驚いたの。ねえ、こう見えても、僕は歴とした男なんだよ。僕が氷河のために僕の身体を提供するってことは、僕が人間としての尊厳と男としての尊厳を捨てることだと思わない?」
「なに……?」

瞬の言葉は、氷河には衝撃的なものだった――尋常ではない驚愕を氷河にもたらした。
氷河は、これまで ただの一度も、そんなことを考えたことがなかったのである。
これは愛を交わす行為で、氷河にとっては、愛しているからできる行為以外の何ものでもなかった。
その行為によって多大な快楽と満足は得られるが、それも愛しているなら当然のこと。
それが瞬の人としての尊厳を踏みにじる行為だなどということは、氷河はこれまで ただの一度も、ただの一瞬も、考えたことがなかったのである。

だが、それは改めて考えるまでもない自明の理だった。
驚くほど強く深い快楽を氷河に提供してくれる瞬の身体は、本来はそういうことをするようにできていない。
瞬に恋した男は、それを無理に押し開き、乱暴に貫き、あまつさえ その身の内に 浅ましい欲望を吐き出して、瞬を汚しているのだ。
そんなことに、なぜこれまで思い至らずにいたのか。
氷河は全身から血の気が引いていくような気がしたのである。
真っ青になった氷河を見て、瞬が、どう見ても楽しくて笑っているのではない笑みを、その目許に刻む。

「あ、今は氷河とこういうことするの気持ちいいって思ってるから、安心して。でも、あの時は――初めて氷河を受け入れた時は そう思った。氷河のために、こんなことまでできてしまう自分に驚いて、氷河のためにできないことが 僕にあるんだろうかって考えたの」
「瞬……俺は――」
「どんなことでもできる。できないことなんかないって思った」
「俺は……瞬……俺は……」
「だから、氷河。氷河は、僕に対してそういう力を持っているんだから、僕に、アテナや仲間を裏切れなんてことだけは言わないでね。氷河のためになら、僕はきっと そうすることもできてしまう。だから、それだけは言わないで。それ以外のことなら、僕はどんなことでも、笑って許すから。どんなことでも、氷河の望み通りにするから。氷河が僕以外の人を好きになって、僕の顔なんか もう見たくもないっていうのなら、僕、どこかに消えることだってするよ。だから……」

瞬の身体を汚し、瞬の心を踏みにじった男への軽蔑と憎悪に満ちていていいはずの瞬の瞳は、なぜか涙でいっぱいだった。
なぜ瞬が泣かなければならないのだろうと、氷河は思ったのである。
こんなに“氷河”に愛されている瞬が、なぜ泣かなければならないのかと。
それはもちろん、瞬を愛し、瞬に愛されている男が極めつけの馬鹿だからだった。

瞬に許してもらえないかもしれないという恐怖が薄れたからではなく、ただただ瞬に泣いてほしくなくて、氷河は瞬の身体を抱きしめたのである。
自分が許されたいからではなく、瞬の心を少しでも軽くしたくて、氷河は瞬の細い身体を力いっぱい抱きしめた。

「嘘に決まってるだろう! 俺におまえより好きな奴がいるなんて嘘に決まっている! 俺はただ、いつも俺ばかりが焼きもちを焼いているから、おまえは本当に俺を好きでいてくれるのかと不安になって、おまえに妬いてもらえたら、その不安が解消するかもしれないと思って、だからあんな嘘をついたんだ! 嘘に決まっているだろう! おまえ以外の奴なんて、俺にはどれもイモかカボチャにしか見えない!」

「う……そ……?」
「嘘だ。嘘に決まっている。おまえは、俺にイモやカボチャ相手に恋を語らう趣味があると思っているのか! イモやカボチャはイモ畑やカボチャ畑に転がっていればいいんだ!」
「あ……」
やたらとイモとカボチャの比喩を繰り返してみせる男に、瞬は少々困ったような顔を向けてきた。
氷河の言うイモやカボチャを守るために、アテナの聖闘士たちは命をかけて戦っているのである。
さすがにここで安易に笑ってしまうことは、瞬にはできなかったらしい。
「いくら何でも、それは失礼だよ、氷河」
瞬は、アテナの聖闘士の一人として、(一応) 氷河をたしなめてきた。

が、そうしている間にも、それまで青白かった瞬の頬と瞼は薔薇色に変化していく。
その変化は、氷河の心のみならず身体までを、歓喜に震わせた。
人の心の中から絶望が消え去る瞬間というものを、氷河は身をもって味わっていた。
生まれて初めて“夜明け”を見た赤ん坊がこんな感覚に襲われるのではないかと、氷河は思ったのである。
そして、瞬はまだ 瞬に馬鹿な嘘をついてしまった男を愛してくれているのだと思えることが、氷河に 気負いと謙虚という、相反する二つの情動を運んできた。
「すまん。俺はただ、おまえに近付く奴等に俺が焼きもちを焼いてみせれば、俺がおまえを好きでいることの証明になると思っていたんだ。そうしたら、おまえがもっと俺を愛してくれるようになると思った。確かに、おまえに近付く身の程知らず共が気に入らなかったこともあるが、俺はただ 俺がおまえを好きでいることを、おまえに信じてもらいたくて――本当にただそれだけだったんだ……」

それが愛情の証になると思っていたから、瞬にも同じものを求めた――同じものを瞬から与えられたいと思って、あんな嘘をついた。
本当に、ただそれだけだったのだ。
その嘘が 瞬を傷付けることになるかもしれない、瞬を悲しませることになるかもしれないというようなことを、氷河は全く考えていなかった。
嘘は嘘にすぎないと、氷河は安直に決めつけていたのだ。

悪意や害意はなかったとはいえ、それは著しく思い遣りと分別を欠いた行為である。
最後には許してもらえるにしても 瞬が怒らないはずがないと、氷河は思ったのだが、瞬は憤った様子は全く見せず、ただ その目許に悲しげな苦笑を浮かべただけだった。
そして、
「僕が今以上に自信を持ってしまったら大変なことになるよ」
と、控えめな声で呟くように言った。
「だから、僕を試すようなことはしないで。僕は氷河が好きだから。氷河のためになら、どんなことでもしてあげるから。ね」
「瞬……」

『本当にどんなことでもしてくれるのか』と念を押す必要はなかった。
瞬が馬鹿な男の恋と欲望を受け入れるために捨てたものを思えば、念を押すこと自体が、瞬の健気と誠意への侮辱になる。
それは人によっては――おそらく瞬にとっても――命より大切なものである。
それを、瞬は、愚かな男のために放棄したのだ。
瞬の払った大きな犠牲の上に、氷河の恋は成り立っている。

「おまえのためになら、何でもする。どんなことでもする。神にかけて誓う。だから、俺を嫌いにならないでくれ」
瞬の額に自身の額を重ねて、氷河は瞬に誓言を捧げたのだが、瞬は 氷河の唇に自身の唇を押しつけることで、その誓いを破棄してしまった。
「神様なんか知らない。そんなこと誓わなくていい。僕は氷河が大好きだから。あの……いいよ」

瞬が何を『いい』と言っているのかを理解した途端、本音を言えば氷河は自分を殴り倒したくなってしまったのである。
瞬の犠牲と健気に心打たれた思いは真実のものなのに、どうして よりにもよってこんな時に、こんな浅ましい変化を自分の身体は示すのか。

瞬を信じているし、他の何より瞬を大切に思い、他の誰よりも瞬を愛している。
それを証明するためにできることが、瞬から人としての尊厳を奪いとることだという この不条理。
だが、それでも、氷河にとってそれは 瞬を愛しているからこそできることだった。
瞬以外の人間といる時、自分がこれほどまでに――ここまで情けないほど 自分は男なのだと自覚する羽目に陥ったことはない。
「明日からまた、これまで通り、ちゃんと優しくする。今日だけ許してくれ。今すぐおまえの中に入りたい。許してくれ」

浅ましく見苦しいことだと思うのに止められない。
そして、瞬は今夜も、故国を守るために その命を捧げたエチオピアの王女の百倍も優しく寛大だった。
「氷河が僕を傷付けたいと思って そうするのでない限り、僕は傷付かないよ」
その寛大と優しさが、一人の男から理性を奪い、人間とは程遠い生き物に変えてしまうこともまた 皮肉なことだと、氷河は思ったのである。
思いながら、氷河は自分を抑えることができなかった。

「ああああっ!」
身体を大きくのけぞらせ、交合の痛みに瞬が顔を歪める。
これが不自然で無理な行為だという認識はあった。
瞬がいつも痛みに耐えていることも知っていた。
だが、氷河は、これが、瞬にとって、人としての尊厳を放棄するような行為であること、瞬にとって屈辱的な行為であるなどということに考えを及ばせたことはなかった。
まして、自分が瞬にそんなことを強いているのだと意識したこともない。

瞬の中はいつも温かく、やわらかく、優しく刺激的で、瞬を求める男を迎え入れることに怯えているようには思えなかったのだ。
むしろ、瞬はいつも、氷河にまとわりつき、絡みつき、侵入者を その身の内に溶かしてしまおうとしているように動く。
瞬の身体は いつも惑わすような笑みをたたえて、一つのものになろうと氷河に誘いかけてくるのだ。
みっともないほど早く果ててしまわないために、氷河は、いつも目が眩むようなその誘惑に耐え抜かなければならなかった。
そんな瞬の身体の反応を、瞬の心の反応だと思ってしまったのが、おそらく間違いだったのだ。
事実はそうではなかった。
そして、そうではなかったことが わかってしまった今も、瞬に無理を強いることを、氷河はやめてしまうことができなかったのである。

「すまん、瞬。だが、俺はおまえが欲しいんだ。おまえしか欲しくない」
「あっ……ああ……ああ……っ!」
瞬は、細い身体で、無理な力に犯され痛めつけられることに耐えている。
瞬は苦しんでいるのに、それによって氷河の肉体は、芯から溶けていってしまいそうな 強烈な快楽を得ているのだ。
瞬が、愚かな恋人のために人間としての尊厳を捨てたというのなら、瞬にそれを捨てさせた男は、瞬のためにどんなことでもしなければならないだろう。
どんなことでもすると、神ではなく瞬に誓って、氷河は瞬の中に更に深く 我が身を沈み込ませていった。






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