いのちの贈り物






氷河がその力を手に入れたのは、彼の母親が病を得て亡くなった時でした。
最初にその病にかかったのは氷河だったのですが、氷河が元気になってベッドから起き上がれるようになると、入れ違いのように氷河の母が倒れ、そのまま彼女は はかなくなってしまったのです。
我が子の快癒のために我が身を顧みずに寝ずの看病を続けたことが、もともと線の細い女性だった氷河の母から 命の火を燃やす力を奪うことになってしまったのでした。
母ひとり子ひとりで、互いに肩を寄せ合うようにして生きてきた二人。
母親を失った時、氷河はまだ10歳にもなっていませんでした。

親しい人の突然の死に出合った時の反応は、人それぞれでしょう。
最初に、その人を失ったことに呆然とし、喪失感に打ちのめされることになるのは誰も同じかもしれません。
けれど、感情をどこかに置き忘れてきてしまったような その時間が過ぎると、人は各々 違う反応を示し始めます。

その死を悲しむ者。あるいは、憤りを覚える者。
その人なしで どうやって生きていこうかと途方に暮れる者。あるいは、いっそ自分も死んでしまいたいと願う者。
死に接することで生の大切さを自覚する者。あるいは、生の儚さに気付く者。

それは人によって様々に異なるとしても、大抵の者はいずれ 親しい人の死を受け入れ、諦め、その人のいない日々に少しずつ少しずつ慣れていくもの。
ですが、ただ一人の肉親を失った氷河の悲しみと憤りは、いつまで経っても一向に薄らぐ気配を見せませんでした。
それはむしろ、時を経るごとに大きく深いものになっていったのです。

“死”は公平なものだと、人は言います。
死だけが、公平で平等なものだと。
金持ちにも貧しい者にも、権力者にも奴隷にも、死は訪れます。
国も人種も性別も超えて、それは万人がいつかは必ず経験すること、誰にも例外はありません。
けれど、氷河はそれこそ不公平なことだと思ったのです。

氷河の母は、心優しく、美しく、氷河を深く愛してくれていました。
社会的には虐げられていましたし、貧しくもあったのですが、そんな境遇を恨むでもなく、誰にでも親切で善良な人でした。
そんな人間にまで“公平に”死が訪れるのは不公平なことなのではないかと、氷河は思ったのです――思わずにはいられませんでした。
こんな不公平がまかり通るのなら、人が真面目に勤勉に善良に生きることは無意味です。
どうせ死んでしまうのなら、悪魔に魂を売り渡して好き勝手に生きた方が利口だとすら、氷河は思いました。

氷河はもちろん、本気で そんなことを願ったわけではありません。
大切な人を失って自暴自棄になった心に、ふと そんな考えが浮かびあがってきただけ。
悪魔に魂を売り渡すなんて、そんな考えを抱くことは、優しく善良だった母を悲しませることだと、氷河にはちゃんとわかっていました。
もし、その時、氷河の前に悪魔がやってきて『魂と引き換えに、どんな願いでも叶えてやろう』と、誘惑してきたら、氷河はその悪魔を即座に追い払ってしまっていたことでしょう。
けれど、その時、氷河の嘆きを聞きつけて、氷河の前に姿を現わしたのは、悪魔ではなく死神だったのです。

髪も瞳も身に着けている長衣も黒。
氷河が母と二人で暮らしていた小さな家に ふいにどこからともなく現われた 漆黒の若い男は、氷河に、自分は死の国の王だと名乗ったのです。
「俺は死を憎んでいるんだ。死神なんか、お呼びじゃない。魂もくれてなんかやらないぞ!」
氷河は、彼の名乗りを聞くなり、すぐに漆黒の男に そっぽを向いてしまったのですが、漆黒の男は、そんな氷河の態度に腹を立てたような様子は見せませんでした。
代わりに、彼は、ひどく無感動な目をして氷河に言ったのです。
「死は、天が すべての人間たちに与える祝福だ。永遠の生など、永遠の苦しみを負うだけのこと。死は、神から人間たちに与えられる深い哀れみ、あるいは 思い遣りと言ってもいい」

「思い遣り?」
氷河は、彼の言うことを真面目に聞く気にもなりませんでした。
死が人間への祝福や思い遣りだなんて。
祝福や思い遣りが、こんなふうに人を悲しませることがあるものでしょうか。
彼の言うことを、どうして氷河に信じることができたでしょう。
もし、それが事実なのであれば――死神が本気でそのつもりでいるというのなら――それは彼の勝手な思い込みというものです。
現に、氷河は今、彼の言う“祝福”のせいで、とても悲しく不幸だったのですから。

「ふん。勝手に ほざいてろ」
幼い子供にしては ふてぶてしい氷河の態度を見て、彼は氷河に興味を覚えたようでした。
「そなたは余が恐ろしくはないのか」
「おまえの言う祝福とやらのせいで、俺は何も恐いものがなくなった。マーマを失うこと以上に恐いことなど、俺にはない」
そして、氷河は、既に その“もっとも恐ろしいこと”を経験してしまったのです。
『だから、俺にはもう恐いものはない』というのが、氷河の理屈でした。

「そなたは面白い子供だな。普通の人間は、己れの死こそを何より恐れるのに」
それまで ほとんど無感動無表情だった男の目に初めて、何かの感情のようなもの――不思議な印象の輝きが浮かんできました。
それが、喜びによって生まれた輝きだったのか、悲しみによって生まれた輝きだったのか、それとも、怒りによるものだったのか、侮りによるものだったのかは、氷河にはわかりませんでした。
あるいは、それは、人間の理解を超えたものだったのかもしれません。
死を祝福だと言うような者に、人間と同じ感情が備わっているとは限りませんから。
ただ一つの確かな事実は、死の国の王だという その男が、氷河に、
「おまえに、人の死を見る力を与えてやろう」
と言ったことだけ。
漆黒の男は、確かに氷河にそう言いました。

「人の死を見る力?」
「そうだ。病や怪我のせいで生死の境にいる者たちの側に銀色の目をした神がいたら、それは死を司る神だから、その者は その日のうちに死ぬ。金色の目の神だったなら、それは眠りを司る神だから、その者はいずれ目覚め、1年間は死ぬことはない。死を司る神と眠りを死を司る神の二神を見ることのできる力を、余はそなたに与えよう」
「……」
死の国の王とやらが何を考えて そんなことを言い出したのか、氷河には全く理解できませんでした。
母を生き返らせてくれるとでもいうのならともかく、他人の生死など知って、いったい何になるというのでしょう。

「そんな力をもらって何になるんだ」
漆黒の男の提案が ちっとも嬉しくなかったので、氷河は、ちっとも嬉しくなさそうな顔をして、妙なことを言い出した黒い男に尋ねたのです。
男は、薄く笑って答えました。
「何でもできる。大抵の人間には、自分がいつまで生きていられるのかということは人生最大の関心事、喉から手が出るほど欲しい情報だ。その力を使えば、人を苦しめることや喜ばせることができるだろう。人に的確な忠告を与えることもできるし、金を儲けることもできるぞ」
「金?」

男のその言葉を聞いて、氷河はやっと男の魂胆がわかったような気がしたのです。
人の生死をどうやって金に変えるのかは わかりませんでしたが、つまりこの漆黒の男は、現世の富貴を氷河に与え、その代償として氷河から何かを手に入れようとしているのでしょう。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、氷河は、自分よりずっと年上の男を嘲笑うことになったのです。
「で、俺が死んだら、魂を渡せというんだろう? さっさとどこかに消えちまえ! 俺はそんな話に乗る気はない。おまえみたいな胡散臭い奴に自分の魂を渡すなんてことをしたら、マーマを悲しませるだけだ」

人間の寿命など、たかだか数十年。
その数十年を贅沢三昧に生きることの代償に、地獄での永劫の苦しみを味わうことになるなんて、これほど割の合わない取り引きもありません。
悪魔に魂を売り渡した者の末路は悲惨――と、氷河は、母と共に通っていた教会の司祭様の説教で何度も聞いていました。
この漆黒の男は、自分を子供と侮って魂を騙し取ろうとしているに違いないと、氷河は考えたのです。

ですが、漆黒の男の答えは氷河の想像とは違っていました。
彼は、
「魂などいらぬ」
と、あっさり言ってきたのです。
「余は 人間の魂を欲する悪魔などではない。余は、そなたたちが信じている神や悪魔などより もっと古い神、人間がこの地上に現われた頃から存在する原初の神だ。そのように姑息な取り引きなどしなくても、人間は皆、いずれは余の国の住人になる。余は、人の生死を見極める力を得たそなたが、その力をどう使うのかを見てみたいだけだ。余興だ。暇潰しのようなものだな」
「なんだと?」
ただ一人の肉親を失って悲嘆に暮れている子供を使って、暇潰しとは。
真顔でそんなことを言う男に、氷河は、だんだん腹が立ってきてしまったのです。
氷河は、死の国の王と名乗る男を――おそらくは強大な力を持つ神であろう男を――大声で怒鳴りつけました。

「俺で暇潰しなんかするな!」
氷河の怒声を、漆黒の男は涼しい顔で受け流します。
「代償を求めずに、特別な力を与えてやろうと言っているのだ。もらっておいて損になるものでもあるまい。母を失った そなたは、これから一人で生きていかなければならない。どんなものでも、力はあった方がいいだろう」
気味が悪いほど整った顔に 含むような笑みをたたえてそう言うと、死の国の王と名乗った男は、いつのまにか氷河の前から消えてしまっていました。
氷河の返事を待つこともなく。






【next】