氷河の肉親は母ひとりだけでしたが、氷河にはもう一人親しい友だちがいました。
氷河より一つ年下の、瞬という名前の小さな男の子です。
瞬はみなしごで、氷河の母を自分の母のように慕い、時々氷河たちの家にも遊びにきていました。
氷河の母が亡くなった時、その衝撃が大きすぎて泣くこともできずにいた氷河の代わりに、瞬はたくさんの涙を流してくれました。
瞬がいなかったら、氷河は、母を亡くした喪失感に打ちのめされ、人の心をなくしてしまっていたかもしれません。
ただ一人の肉親を失った氷河が、自分も死んでしまいたいと願うことがなかったのは、瞬がいたからでした。
瞬に これ以上 涙を流させるわけにはいかないと思ったから。
それくらい――瞬は、氷河にとって大切な友だちでした。
瞬は親だけでなく家もなかったので、氷河の家の近所にある教会に引き取られ、そこで暮らしていました。

氷河の母が亡くなったのは、冬が終わりかけた頃。
氷河たちが暮らしている町は、北の国の片隅にある小さな町でした。
冬場には完全に凍りついて、橋や船がなくても歩いて渡れるようになる大きな河が町の中央を貫いている町です。
河に張っていた氷が解け始めて徒歩で渡ることができなくなると、その河には渡し舟が出ます。
春先には、向こう岸に渡るためではなく、河の両岸を覆い始めた緑を眺め、長い冬のあとに ついにやってきた春を楽しむために、町の住人たちは舟遊びをするのでした。

もちろん、その舟に ただで乗ることはできません。
氷河の家は貧しく、瞬は更に貧しかったので、二人は春の舟遊びに興じたことはありませんでした。
春を楽しんでいる人たちを、二人はいつも岸から眺めていたのです。
瞬が氷河を その舟遊びに誘ってきたのは、その年最後の舟が出る日のこと。
ある慈善家から舟に乗るための券を ちょうど2枚もらった教会の司祭様が、それを瞬にくれたのです。
「お母さんをなくして沈んでいる友だちを誘って、慰めてやりなさい」と言って。

氷河は本音を言えば まだまだ春を楽しむ気分にはなれなかったのですが、誘ってくれたのが他ならぬ瞬だったので――瞬を喜ばせるために――氷河は瞬と二人で船着場に向かったのでした。
そして、その時初めて氷河は、彼が望みもしなかった力を あの漆黒の神が母を失った子供に与えてしまっていたことを知ったのです。
氷河と瞬が乗ることになっている舟の上に銀色の目をした男の姿を認めた、その時に。

「瞬。乗るのはやめよう。あの舟は危ない」
漆黒の神の言うことを そのまま信じるつもりはありませんでしたが、もしかしたら死の可能性がある場所に瞬を近付けるわけにはいきません。
氷河は、瞬と繋いでいた手を離さずに、その場でぴたりと立ち止まりました。

「え?」
瞬は当然 ふいにそんなことを言い出した氷河に驚いて、母を失ったばかりの友だちの顔を覗き込むことになったのです。
そうして、氷河のただならぬ表情と 険しいその瞳を見て、氷河の意思を変えることはできないと悟った瞬は、大人しく舟に乗ることを諦めたのでした。

やがて、川岸に佇む二人の目の前で、今年最初の舟が川下に向かってゆっくりと水の上をすべり出します。
名残り惜しげに舟を見送っている瞬に、
「せっかく誘ってくれたのに悪かったな。代わりに、今年最初のスミレの花を見付けてやるから」
と氷河が言った時でした。
岸を離れ、小さな氷片しか浮かんでいなかった河の中央に差しかかった舟が、突然何かに乗り上げて、そのまま横倒しになってしまったのは。
そして、春に向かって漕ぎ出した舟に乗っていた30人ほどの乗客が皆、河の中に放り出されてしまったのは。

春になりかけているとはいえ まだまだ冷たい水の中に投げ出されてしまった客たちの悲鳴と、岸で今年最初の舟の船出を見守っていた者たちがあげたどよめきのどちらが より大きなものだったのか――。
溺れかけている者たちを助けに行こうにも、この町には、舟は、今沈みかけているその一艘しかなかったのです。
向こう岸に渡るためには、隣り町にある橋まで行かねばなりません。
いずれにしても、舟が沈みかけているのは、小さな湖ほどの幅がある河のちょうど真ん中。
その上、春になりかけたばかりの河の水は、元気な若者の心臓をも止めてしまいかねないほど冷たいのです。
そんな状況では、冷たい水に沈みかけている人たちに、『なんとか岸まで泳ぎつけ』と声を張り上げること以外には、誰にも何もできませんでした。
まして、まだ幼い氷河にできることは、小さな悲鳴をあげた瞬が その悲惨な事故を見ずに済むように、瞬の目を自分の胸で覆ってやることくらいのものだったのです。

氷河に抱きしめられた瞬はその事故を見ずに済みましたが、氷河には見えていました。
宙に浮かんだ銀色の死を司る神が、冷たい水に沈んでいく人間たちを楽しそうに見おろしている様が。
そして、氷河は聞くこともできました。
河の中央と岸辺で湧き起こった人間たちの阿鼻叫喚に混じっている、銀色の神の高らかな笑い声を。

「子供はあっちに行っていろ! 見るんじゃない!」
その場から動けずにいた二人の前に突然 見知らぬ男が立ちふさがって、大声で怒鳴りつけてきます。
粗末ななりをしていましたが、彼が子供への思い遣りから そう言ってくれていることは、氷河にもわかりました。
ですから、氷河は、彼の忠告に従って、瞬の肩を抱き その場を離れようとしたのです。

その時、氷河の目に、瞬を預かっている教会の司祭様の姿が飛び込んできました。
彼はひどく慌てた様子で、辺りにいる者たちの腕を掴まえては、
「子供が二人乗っていたはずなんです。無事ですか !? 瞬! 瞬、氷河、どこだっ !? 」
と悲痛な声で叫んでいました。
「司祭様! 俺たちはここだ、瞬は無事だ」
自分の厚意が子供たちの命を奪うようなことになったのではないかと、司祭様はすっかり動転していたのでしょう。
氷河の声に気付くと、彼は顔をくしゃくしゃにして、親のない子供たちの許に駆けてきました。

「ああ……!」
冷たい水の中では たった今もその命の火が消えそうになっている人がいます。
あからさまに子供たちの無事を喜ぶこともできなかった司祭様は、悶え呻くような感嘆の声をあげ、震える両腕で二人の子供を抱きしめることになりました。
「乗らなかったのだな? 乗らなかったのだな! ああ、神様……!」
その目に涙さえ浮かべて苦悶に似た声を洩らしている司祭様が、氷河と瞬の無事を心から喜んでいるのは明白でした。
氷河は、震える彼の腕の中で、とても複雑な気持ちになったのです。

氷河は瞬の友だちですから、瞬を死なせずに済んだことに安堵していました。
それは普通のことで、当然のことです。
けれど、司祭様は万人の幸福を願い祈る務めに就いている人。
そんな彼にでも、見知らぬ人の死より、彼に近しいところにいる子供の無事の方が、その心をより強く占める出来事なのだということが、氷河にはなぜか素直に受け入れてしまえないことだったのです。
突き詰めて言えば、それは、司祭様も一人の人間にすぎず、万人を公平に愛する神ではないのだということなのでしょうけれど。

「あの舟は危ないって氷河が引き止めてくれたから、乗らなかったの」
いつもは冷静で穏やかな司祭様の取り乱しように、瞬は責任を感じたのでしょう。
おそらく司祭様を少しでも落ち着かせようとして、瞬は消えそうに小さな声で 自分たちが無事だった理由を司祭様に知らせたのです。
「そ……そうか……。氷河が引きとめてくれたのか……そうか」
瞬と司祭様のやりとりを洩れ聞いて不思議そうな顔をした者が、無力な人々でごったがえす船着場に幾人かありました。






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