華やかな催し物がない代わりに、滅多に大きな事故や事件もない平和な町で起こった大惨事は、春が訪れたばかりの小さな町を大きく揺るがしましたが、生きている人間は、自分が生きていくことを何より優先させなければなりません。
1週間もすると、町は元の平凡な静けさを取り戻し、それは氷河と瞬も同じでした。
瞬は、教会での勉強や仕事がない時には、ひとりぽっちになってしまった氷河の家を訪ねたり、とあるお金持ちのお屋敷で雑用をさせてもらったりしていたのですが、そういう生活が戻ってきたのです。

瞬が雑用をして お駄賃をもらっているお屋敷の主人は、町いちばんのお金持ちと言われている老人でした。
ですが、気の毒なことに足が不自由で、滅多に家の外には出られません。
それで、彼は月に一度ほど 自邸に司祭様を呼んで奉神礼を行なってもらっていたのです。
その奉神礼に瞬が司祭様と同行したことがあったのですが、その際に彼は 素直な目をした瞬がとても気に入ったらしく、ちょっとした使いを瞬に頼んでは 瞬にお駄賃をくれるようになったのでした。
この冬には その老人の具合いが大層悪くなって、瞬はほとんど毎日の午後いっぱいを老人の看病で過ごしていました。

金持ちはみんな悪者だと決めつけて氷河は、瞬がその老人の世話をしていることを、最初は あまり快く思っていなかったのです。
けれど、ある日、司祭様から老人の生い立ちを聞いた氷河は、その考えを改めることになりました。

司祭様の話では、その老人は元々 司祭様の教会で育った、瞬と同じ みなしごだったというのです。
大人になって教会を出てから、彼は、この町よりずっと北の方にある炭鉱で身を粉にして働いていたのだそうでした。
30年以上過酷な仕事に従事し、もう若い頃のように働くことはできないと悟った時、それまでに貯めていたお金で、彼は小さな山を買いました。
それは、どんなに若くたくましい鉱夫でも足を踏み入れることを躊躇するような険しい山で、彼はその山を自分の墓にするつもりで買ったのだそうでした。
ところが、彼が彼の墓を手に入れてまもなく、その山に大層大きなダイヤの鉱脈があることがわかったのです。
50を過ぎ、身体も不自由になってから、彼は大変なお金持ちになりました。

そうして大金を持って生まれ育った町に戻ってきた彼は、そこに大きなお屋敷を建てて、残された時間を過ごすことにしたのですが、自分を育ててくれた教会への感謝を忘れず、毎年多額の喜捨をしてくれているのだそうでした。
瞬に親切なのも、自分と同じ境遇の孤児を哀れんでのことで、彼は決して悪い人間ではないよ――と、司祭様は、ひどく気の毒そうな顔をして氷河に教えてくれたのです。

司祭様が気の毒そうな顔をしたのには理由がありました。
老人が金持ちになって町に帰ってきた途端、老人の家には、どこからともなく彼の血縁を名乗る者が数多く名乗り出てきて、彼は少々人間不信に陥ってしまっていたのです。
血縁と名乗り出た者たちが本当に彼の血縁者なら、彼等は老人が貧しい孤児として生きていた時に手を差しのべてくれなかった者たちということになりますし、本当に血縁者でも何でもないのなら、彼等は、おそらくは財産目当てで嘘をついていることになりますから。
そんなことがあって、すっかり人間不信になってしまった彼が、瞬だけは心から信じているようだと、司祭様は氷河に教えてくれました。
その老人が この冬の寒さで身体を壊し、春になっても回復する様子を見せないので、司祭様は瞬に老人の看病を頼んだのです。

瞬は、思い通りにならない身体のせいで気難しさが増した老人の看病はちっとも苦ではないようでしたが、彼の屋敷に 引きも切らずにやってくる、偽者なのか本物なのかわからない彼の血縁者たちは とても苦手なようでした。
彼等は老人の看病は瞬に任せきりで、自分たちは何をするでもなく老人の様子を眺めては、『もう そろそろだよ』だの『この春は乗り切れても、夏までは無理だろう』だのと囁き合っているのだとか。
瞬はもちろん彼等をあからさまに非難するようなことはしませんでしたが、瞬が彼等の態度を悲しく思っているのは、氷河にはわかりすぎるほどにわかったのです。

それで――瞬からその話を聞いた氷河は、ある日、瞬と共に老人の屋敷に行くことにしたのです。
彼の側にいるのは、銀色の死の神か 金色の眠りの神なのかを確かめるために。
幸いなことに、長い苦労が その顔に深い皺を刻んでいる老人の枕元に立っているのは、金色の眠りの神でした。
老人が当分は死なないことがわかって、氷河は ほっと安堵したのです。
これで瞬は悲しまずに済みますし、老人の亡骸に貪りつこうとしているハイエナたちは、待ちぼうけを食わされることになりますから。

「ああ、これなら大丈夫だ。瞬、おまえの看病は無駄にならない。諦めずに世話してやれ」
「え……? あ……うん!」
なぜ氷河は お医者様でもないのに そんなふうに断言できるのだろうと、瞬は不思議に思ったのですが、それは瞬にとっても そうだと信じたいことでした。
それに、春先の舟の事故を 氷河の忠告で免れることができたという記憶が 瞬の中には残っていましたから、瞬は氷河の言葉を信じて大きく頷いたのです。
氷河の断言が何の根拠もない言葉だったとしても、それは氷河の優しさ・思い遣りから出たことであるに決まっていましたから。

ところが、瞬が氷河に首肯すると、氷河は突然 到底優しさや思い遣りから出たこととは思えないようなことを言い出したのです。
氷河は、病気の老人を遠巻きに眺めている(だけの)ある人物を視線で示し、
「むしろ、あの小太りの若い男の方が危ないぞ」
と言い出したのです。
「えっ」
氷河がそう言って示したのは、老人の母親の姉の孫と名乗っている、まだ20代の元気そうな男性でした。
まさかそんなことがと瞬は思いましたし、病人や『危ない』と言われた当人の前で それはどういうことなのかと確かめるわけにもいかず、瞬はその場では何も言わなかったのですけれど。
あるいはそれは空耳だったのかもしれないと思って、瞬はまもなく氷河のその呟きを忘れてしまったのですけれど。

けれど、その日の夜、氷河が『危ない』と言った男性が乗っていた馬車の暴走で本当に死んでしまったのです。
そして、その代わりというのでもないでしょうが、氷河が老人の許を訪ねた その日から、瀕死の老人は徐々に回復し始め、やがて元のように 杖をついてなら一人で歩くこともできるようになったのでした。

老人は、なにぶん 若い頃に 気の荒い鉱夫たちの間で働き続けてきた人で、彼自身も多分に粗野なところがあったのですが、長い苦労を味わってきたせいで人の親切の価値をよく知っている人でもありました。
老人は、瞬の優しい心にも敏感で、元気になると、瞬に何度も『ありがとう』と言ってくれました。
瞬は、老人が元気になったことが嬉しくて、そして、彼が 小さな子供にすぎない自分をあまりに褒めてくれるのが気恥ずかしくて、つい彼に氷河のことを話してしまったのです。
「氷河が、僕の看病は無駄にならないから諦めるなって言ってくれたんです。氷河は、先日 馬車で亡くなった人のことも言い当てたの。その氷河が、おじいさんは大丈夫って言ってたから、おじいさんはきっと以前よりずっと元気になるはずです」
――と。

瞬は、『だから、大丈夫』と老人を励ますために、深い考えもなく そう言っただけだったのですが、その話が、老人の屋敷の召使いか老人の(自称)親戚から外に洩れてしまったから、さあ大変。
船着場での瞬と司祭様のやりとりを聞いていた者が その話を聞き、『そういえば、前にも――』と語り出したことで、話は一気に信憑性を持ち、町中に広まることになりました。
つまり、氷河は人の生死がわかるのだという噂がたったのです。
それからでした。
自分の生死や肉親の生死を見極めてほしいという者たちが、氷河の家にひっきりなしに押しかけてくるようになったのは。

氷河は、そういう人たちを最初は追い返していたのです。
人の死を知ること、それを人に教えることは、少しも楽しいことではありませんでしたから。
でも、ある日――その日、氷河は、彼が暮らしている家の大家さんから、借り賃が払えないなら、母と暮らしていた家を出ていけと言われていました――多額の謝礼を払うからと言ってきた病人に、氷河は彼にわかることを教えてしまったのです。
幸い、その人の側にいたのは金色の眠りの神でしたので。
立派な馬車に乗ってやってきた客人の高価そうな服を見て、彼の望みを叶えてやったなら、その代価で瞬に綺麗な服を買ってやれるかもしれないと思ったせいもあったかもしれません。
高価な服を着た客人は大喜びで氷河に多額の謝礼を払い、自分が病人だったことを忘れたように元気な足取りで氷河の家を出ていきました。
おかげで氷河は母と暮らしていた家から追い出されずに済んだのですが、氷河の家を訪ねてくる客は更に更に増えることになってしまったのです。

氷河は、それから時々、あの黒い死神からもらった力で知ったことを人に教えてやるようになりました。
氷河は、金色の神の時だけ『1年は大丈夫』と教え、銀色の神の時には何も言いませんでした。
氷河が『大丈夫』といえば、明日にも死にそうな病人でも必ず回復するというので、お金持ちたちは いそいそと氷河の許に通ってくるようになったのです。

最初の一回以外、氷河は自分から謝礼を求めたことはありませんでした。
にもかかわらず、氷河の許を貧しい人や虐げられている人が訪ねてくることはありませんでした。
不思議なことに、自分や肉親の命がいつまで続くのか、寿命がどれほどなのかを気にするのは、病を得て身体の弱ったお金持ちと、その周辺の欲深そうな親戚たちばかりだったのです。






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