氷河は、『1年は大丈夫だ』と言った相手からしか謝礼を受け取りませんでしたが、それでも氷河の手許には たくさんのお金が転がり込むことになりました。 氷河の命の保障は1年限りのものでしたので、毎年氷河の許にやってくるお金持ちもいたのです。 おかげで氷河は、母と暮らしていた家を買い取ることもできました。 それは小さな家でしたが、いくらお金があっても、氷河は、母の思い出のある家以外の家は欲しくなかったのです。 最初のうちは、氷河のことを悪く言う人たちもいました。 それは多分にやっかみから出たものだったでしょう。 子供が訳のわからないことで法外のお金を得ているのですから、それを快く思わない人がいるのは当然のこと。 氷河自身、自分が努力や自分自身の才覚でお金を得ているのではないことはわかっていましたから、そういう人たちがいても仕方がないと思っていました。 でも、そういう人たちも、氷河が町に立派な舟を5艘も寄贈し、誰でも無料で乗れるようにしてやると、氷河を非難することはなくなりました。 氷河の中には、贅沢をしたいという気持ちはありませんでした。 衣食住に困らない程度のお金だけを手許に残すと、氷河は次から次に降ってくるお金はすべて、町と瞬のいる教会に寄付してしまいました。 教会ではこれまでより多くの恵まれない子供たちを引き取ることができるようになったので、氷河はそこで 瞬と一緒に子供たちの世話(というより教会の施設の世話)をするようになりました。 そうして数年。 瞬が16になった時、氷河は瞬を自分の家に引き取りました。 瞬は その優しい心の通りに美しく成長し、いつでも側におかないと、氷河が不安を感じるようになってしまっていたのです。 「おまえが好きで、一緒に暮らしたい」 と氷河が言うと、瞬は嬉しそうに頷いてくれました。 瞬は、氷河の家から教会の子供たちの世話に通うようになり、客が来る予定のない日には、氷河も瞬と一緒に教会に出掛ける――というのが二人の習慣になったのです。 氷河と瞬の生活は質素なものでしたが、氷河はそれで特に不満を感じたことはありませんでした。 氷河より貧しい暮らしに慣れている瞬はなおさらで、氷河がたまに瞬に何か ちょっとだけ贅沢なものを買ってやろうとすると、瞬は尻込みしてしまうのでした。 不満はなかったのです。 不満がないというより、氷河には欲しいものがなかったのです。 瞬が側にいてくれさえすれば、氷河には他に望むものはありませんでしたから。 けれど、なぜでしょう。 氷河の胸の内には、時折どうしようもない寂寥感が生まれてきて、氷河はその感情を完全に消し去ってしまうことができませんでした。 衣食住に困ることはなく、瞬は優しく美しく、いつでも望んだ時に抱きしめることができますし、その時には必ず瞬も氷河を抱きしめ返してくれるというのに。 それは、もしかしたら、自分の生に一喜一憂するお金持ちたちのせいだったかもしれません。 貧しい者や虐げられた者たちは、生きていることを楽しんでいないから、自分がどれほど生きていられるのかということを知りたがりもしないのだろうという思いのせいだったかもしれません。 はっきりした理由は、氷河自身にもわからないのですが、自分は恵まれていると思うほどに、氷河の わだかまりと憂鬱は深まっていくのでした。 「命の終わる時なんて、どうしてそんなものを、あんなに気にするのか、俺にはわからん。人は遅かれ早かれ、いずれ死ぬ存在だ。金なんか払って、そんなことを知って、それで何になるんだ?」 そんな わだかまりが募っていたせいだったのでしょう。 ある夜、氷河は、瞬に愚痴のようにそんなことを言ってしまったのです。 「うん、そうだね」 そう答える瞬は、まだ交合の余韻を残して胸を小さく上下させています。 こんなに細い瞬に無理をさせすぎたかと後悔する一方で、氷河は、癖のように、瞬の側に銀色の神がいないことを確かめて安心するのでした。 そして、確かに 安心というものは大金を払ってでも手に入れたいものなのかもしれないと思ったのです。 少し乱れていた瞬の髪を整えてやりながら、氷河は、幼い頃から見慣れている瞬の瞳を見詰めて、目を細めました。 瞬の瞳は幼い頃から少しも変わらず、澄みきったまま。 その瞳の美しさが、氷河には奇跡にも思えました。 瞬以外の人間はそうではないことを、氷河は今ではよく知っていたのです。 特に、氷河の許にやってくる『お金持ち』と呼ばれる人種は。 そして、そういう者たちとは真逆の、貧しすぎる者たちもまた。 瞬の瞳のそれに匹敵する清澄を持っているのは、物心つかない幼児だけ。 けれど、そういう幼児たちの瞳は、瞬の瞳が持つ優しさは有していないのでした。 いったい どんな力が、これほど澄んだ瞳のまま 瞬を大人にすることになったのか。 それが、氷河はいつも不思議でなりませんでした。 「おまえは、長生きがしたいか?」 そんな不思議な瞳の持ち主は何と答えるのか。 ふいに その答えが知りたくなった氷河は、瞬に尋ねてみたのです。 「氷河が生きているなら、僕も生きていたいよ」 首筋に触れていた氷河の指がくすぐったかったのか、瞬は少し首を傾けるようにして、そう答えました。 「俺が死んだら」 「そんな例え話はやめて」 「俺が死んだら、おまえはどうする」 瞬は そんな不吉なたとえ話を それ以上聞きたくないようでしたが、氷河はあえて食い下がりました。 少し考え込む素振りを見せてから、瞬は、 「悲しくて寂しくて、一人でも生きていこうとするとは思うけど、生きていけるかなぁ……」 と、独り言を呟くように言いました。 「……」 瞬にそんなことを言わせたのは他ならぬ氷河自身だったというのに、瞬があまり自信がなさそうに そんなことを言うので、氷河は少し慌てることになったのです。 「俺でも誰でもいつかは死ぬ。人は生きていても無意味なんだ。どうせ死ぬんだから。――だから、人の死を嘆くのも無意味で無駄だ」 母の死をあれほど深く嘆いた氷河がそんなことを言ったのは、自分が死ねば瞬が嘆くことがわかっていたからでした。 氷河は、瞬に、自分のせいで あんな苦しい思いをしてほしくなかったのです。 「生きてることは無意味だなんて言わないで。僕たちは実際に今こうして生きてるんだし、この世に生まれてこなかったら、僕は こうして氷河に会うこともできなかったんだよ」 「……」 そう思う気持ちは、氷河も瞬と同じでした。 生まれてこなかったら、生きていられなかったら、氷河は、こうして瞬を抱きしめることもできなかったのです。 命と生きている身体があるからできることを毎夜楽しんでいるくせに、そんなことを考えるのは、確かにおかしな話だと、氷河は思うことになりました。 瞬をこうして抱きしめていられるのに、なぜ自分の中からは『生きていることは無意味。死を恐れることも無意味』という考えが消えてくれないのかと。 「そうだな……」 低く呟いて、氷河は瞬の隣りに仰向けに横になりました。 そんな氷河を、瞬が切なげな目をして見詰めます。 瞬の、やわらかく気遣わしげな眼差しを、氷河は痛いほどに感じていました。 瞬の誠意と愛情深さは疑いようもありません。 自分は確実に幸福な人間であるはずなのに、なぜ満ち足りてしまえないのか。 氷河は、そんな自分に腹立ちを覚えてさえいました。 |