そんな ある日のこと。
教会の司祭様から、子供たちを預かっている施設に人手を増やす相談を受けていて帰りが遅くなった氷河は、彼より先に帰宅していた瞬が、まるで死んだように寝台に横になっているのを見付けて、心臓が止まりそうになってしまったのです。
否、氷河を驚かせたものは、身動みじろぎ一つしない瞬ではなく、死んだように眠っている瞬の両脇に立っている金色の神と銀色の神の姿でした。

「これはどういうことだっ! なぜ貴様等が瞬の側にいるっ」
氷河が金銀の神に話しかけた――怒鳴りつけた――のは、それが初めてでした。
人の死に投げつける嘲笑以外には声も言葉も心や意思すら持っていないのだろうと思っていた双子の神。
その一人が、初めてその口を開きます。
「この子は、ハーデス様が望む通り、幼い子供のように清らかな心を損なうことなく大人になった。そろそろ冥界に連れてくるようにと、ハーデス様からのご命令があったのだ」

「ハーデス?」
どうやら、それは、氷河に人の生死を見ることのできる力を与えた漆黒の神の名前のようでした。
最初に出会ったのは、既に8年も前。
8年の時を経て初めて知ることになった その名に、けれど氷河は何の感慨も覚えませんでした。
そんなことよりも、氷河には、あの黒い神が瞬を知っていたこと、瞬に関心を抱いていたことの方が、はるかに重大な問題だったのです。
関心を抱いていたどころか、あの黒い神の本当の目的は、もしかしたら瞬の方だった――ということが。

銀色の死の神が、氷河の目の前で瞬の額に触れようとします。
氷河はぞっとして、瞬が横たわっている寝台に駆け寄り、意識のない瞬の身体を、死の陰から庇うように強く抱きしめました。
「やめろ! 瞬に触るなっ」
「……人間が死の国の王に逆らうことは無意味。そして、不可能だ」
「瞬は渡さない!」
「無意味と言ったろう。ハーデス様がおまえにその力を与えたのは、この子の清らかさを守るため。その目的は果たされた。もう、おまえの役目は終わったのだ」
「役目が終わった……?」

氷河の独り言のような反問に、金銀の双神は、まるで氷河を嘲笑っているような答えを返してきました。
「まさか、冥界の王が ただの酔狂で、おまえに俺たちを見る力を与えたと本気で思っていたわけではないだろうな? すべては、ハーデス様の魂の器を間違いなく育てるため。瞬のために為されたことだ」
「人間を清らかなままにしておくのは、その者を心から信じ愛する者、その者が心から信じられ愛せる者の存在が必要だ。そういう存在が、人の心の清らかさを保つ。この子は、おまえという存在を得て、ハーデス様の望む通りに成長した。この子に上質の愛を与え、この子の清らかさを守ることが、おまえの役目。その役目が終わったと言っているのだ」
「文句はあるまい? おまえは、その代価を十分に与えられたはずだ。ハーデス様に与えられた力によって、おまえは、その若さで この町の有力者ということになっているそうではないか」

「あんな力がなくても、俺は……!」
瞬を愛し守る力が“あんな力”によって与えられたものだと断じられることは、氷河には心外でした。
“あんな力”を与えられる前から、氷河は瞬の友だちで、瞬もまた氷河の友だちだったのです。
その友情と愛情に、打算はひとかけらも 混じっていなかったのです。

「余がそなたに与えた力がなければ、そなたの心は貧困のために捻じ曲がり、瞬にこの世の無情を知らしめ、瞬を傷付け、瞬の瞳を曇らせてしまっていただろう。あるいは、貧困と意地のせいで、己れの役目を果たす前に死んでしまっていたかもしれぬ」
ふいに金銀の神の前に漆黒の神の姿が現われ、彼の登場は、氷河を大層驚かせることになりました。
ハーデスの背後に金銀二柱の神の姿が透けて見えるところをみると、冥府の支配者を名乗る この男は、実際に この場にいるのではないようでしたけれど。

「余が与えた力だけでは不足だというのなら、死の神と眠りの神を入れ替える力をくれてやろう。死んでほしい者を殺し、生きていてほしい者の命を救うことができるようになる力を。瞬をここまで美しく育ててくれたのだ。人の生死を見る力だけというのは、確かに 少なすぎる代償かもしれぬ」
「俺は、これ以上、人の生き死にに関わるつもりはない!」
「今より多くの金を手に入れることができるぞ」
「金などいらん!」
「そう言えるのは、そなたが今 金に不自由していないからだ。人の世で負け犬にならぬためには、金か武力のいずれかが必要なのだろう?」
「だとしても……!」

だとしても、瞬を金で売り渡すような真似ができるはずがないではありませんか。
これまで、氷河の心が捻じ曲がったり、いっそ死んでしまおうなどという考えを実行に移さずにいられたのは、冥府の王に与えられた力によって得られたお金のためなんかではなく、氷河の側にいつも瞬がいてくれたからでした。
氷河はそう思っていましたし、事実もそうだったでしょう。

どうやら、それは、ハーデスも承知しているようでした。
氷河の抵抗に合った彼は、今度は、別の代価を氷河の前に指し示してきたのです。
その代価は、普通の人間には見えないものを見慣れていた氷河でも驚かずにはいられないようなものでした。
漆黒の神は、
「ではどうだ。大人しく瞬を余に渡すなら、そなたに そなたの母親を返してやろう」
と言ってきたのです。

「……なに !? 」
「不自由のない生活を手に入れ、瞬を手に入れ、それでも満たされなかった そなたの心が、それで満たされることになるかもしれぬぞ」
「マーマを……」
ハーデスが提示してきた“代価”に、氷河の心が揺れなかったわけではありません。
けれど、それは、瞬と母の間で揺れたのではなく――氷河の心を揺さぶったのは、
「氷河のマーマを、氷河に返してくれるの?」
という、瞬の小さな声でした。

氷河の腕の中で いつのまにか目覚めていた瞬が――おそらくハーデスが目覚めさせたのでしょう――まるで、この世にたった一つだけある希望を見い出した人間のような声で、ハーデスにそう尋ねたことが氷河の心を揺さぶったのです。
ハーデスの首肯を確認した瞬が、迷う様子も見せずに、
「僕、冥界に行く。それで氷河のお母さんが帰ってきたら、氷河は元の幸せな氷河に戻ってくれるね」
と言い切ったことに、氷河の心は揺れた――もしかしたら凍りついた――のでした。
なぜ瞬は、そんなことを、こんなにも簡単に決めてしまえるのでしょう。
氷河には、瞬の決意が信じられなかったのです。
瞬は自分と引き離されることに苦痛も覚えないのだろうか――と。

氷河と引き離されることに、瞬は苦痛を覚えていないようでした。
瞬は、むしろ、そうなることを喜んでさえいるようでした。
瞬の瞳は涙でいっぱいでしたけれど。
「瞬……」
「マーマが死んでから、氷河はいつも悲しそうで、寂しそうで――僕はいつも、何の力も持っていない自分が悲しかった。氷河は僕を助けてくれたのに、僕は氷河のために何をしてあげることもできなくて……。でも、やっと僕にも氷河のためにできることができた」
瞳を涙でいっぱいにして、微笑みながら、瞬はそう言いました。

「ば……馬鹿なことを言うなっ。そのために、おまえは死んでもいいというのか! こいつは死の国の王なんだぞ。こいつの許に行くというのは そういうこと――死ぬってことなんだ!」
「大切な人を幸せにする力を持たない者が生きてたって何にもならない。そんなの、悲しいだけだよ」
「その理屈でいったら、俺こそが死ぬべきだ」
「どうして? 氷河は生きていてくれるだけで、僕を幸せにしてくれるよ」
「俺はおまえを悲しませ、不幸にしている。俺が不幸なことで」
そうだったのです。
氷河は、今になってやっと、自分が完全に幸福な人間でいられなかった本当の理由がわかったような気がしました。

心優しく善良な人間にも公平に訪れる死の不公平。
持てる者だけが執着する生。持たざる者には価値のない生。
生きていることにも死ぬことにも懐疑をしか抱くことのできない自分。
様々な迷いを迷っているせいで幸福になれない自分が、そのせいで瞬を悲しませていることが、氷河の不幸でした。
自分が幸福になれないことで、瞬の幸福までを完全なものにしてやることのできない罪悪感。
氷河を満たすことがなかったのは、幸福になれない罪悪感だったのです。
氷河は、どうすれば自分が幸福になれるのかが わかりませんでした。

苦悶に顔を歪めている氷河に、瞬が微笑を向けてきます。
それは少し寂しそうな笑みでした。
「でも、僕は、氷河に生きててほしいの。生きていればいつか、氷河が心から幸せだと思える日がくるかもしれないでしょう? 氷河が死んでしまったら、氷河に幸せになってほしいっていう僕の願いは永遠に叶わなくなるけど、生きていたら、もしかしたらいつか……」

『もしかしたら いつか』
人は、その希望にすがって生きている生き物なのでしょうか。
その希望こそが幸福の本質で、その希望を持てるかどうかということが 人の幸不幸を分けるもので、完全な幸福などというものは、本当は この世界のどこにも存在しないものなのでしょうか。

『もしかしたら いつか』
微笑んでそう告げる瞬の瞳は涙でいっぱいで、その姿は、幸福な者のそれのようであり、不幸な人間のそれのようでもありました。
確かに言えることは、『もしかしたら いつか』と氷河の幸福を望んでくれる瞬の姿が とても美しいということだけ。

「同じ希望を、俺も持てるだろうか。いつかおまえを幸福にできるかもしれないという希望を、俺が持てるようになれば――持ち続けてさえいれば、おまえはいつか幸福になってくれるだろうか」
「僕はもう氷河からいっぱい幸せをもらったから、いいの。もういいんだよ」
瞬は 優しくいたわるような声で そう言いますが、氷河は瞬に何かを与えたことはありませんでした――少なくとも、そうと意識して与えたことはありませんでした。
瞬を自分の許に引き取ったのも、瞬のためではなく自分のためでした。
瞬を自分以外の誰かに奪われたくなかったからでした。

そんな氷河の我儘を、瞬がそういうふうに受けとめていたのだとしたら。
そんな他人の単なる我儘を自分の幸せと捉える人間もいるのだとしたら、もしかしたら――。






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