氷河は震える声で、瞬に尋ねてみたのです。 「マーマもそうだったんだろうか。マーマは不幸じゃなかったんだろうか」 ――と。 氷河を産んだせいで、氷河の母は つらい生を生きることになりました。 そして、氷河のせいで彼女は死んでしまいました。 彼女を不幸にしたのは自分なのだという負い目と悔いが、氷河の中にはいつも――彼女が死んでしまってからもずっと――消えることなく くすぶっていたのです。 瞬はやっぱり微笑んで、そして、はっきりと氷河に頷いてくれました。 「氷河のマーマが不幸だったはずはないよ。いつも氷河と一緒だったんだから」 そう言ってから、慌てて言葉をつけたします。 「でも、生き返ってもう一度氷河と暮らすことができるようになったら、もっと幸せになれるかもしれない。氷河も、僕といるより もっと幸せになれるかもしれない」 「……」 瞬のその言葉を聞いた時に、氷河の心は決まりました。 『生きていれば、もしかしたら いつか』 その可能性、その希望を、今 現に生きている瞬から奪うわけにはいかないと、氷河は思ったのです。 氷河は、瞬を欲しがっている漆黒の神に言いました。 「俺のマーマは死んだ。俺のために生き、俺のために死んでいったあの人が俺の母だ。他に俺の母はいない。そして、瞬は生きている。瞬をおまえに渡すことはできない」 『俺のマーマは死んだ』 そう はっきりと言葉にすることで、氷河はやっと その事実を認めることができたような気がしたのです。 そして、あの人は不幸な人だったと決めつけることを、氷河は やっと やめることができたのでした。 ハーデスが、彼の思い通りにならない“生きている人間”に苛立ったように怒鳴り声を響かせます。 「そなたの都合など知らぬ! 瞬を渡せ。でないと、そなたもたった今ここで死ぬことになるぞ!」 「死んでも渡せないな。生きていれば、瞬はいつか幸せになれるかもしれない。その可能性を、瞬でない俺が瞬から奪うことはできないし、俺にはその権利もない。代わりに俺の命を持っていけ。それで貴様の気が済むのなら」 人の生死を見る力は、氷河が望んで得たものではありませんでしたが、その力のおかげで氷河が貧しさに苦しまずに済んだのは紛れもない事実でした。 その代価が必要だというのなら、氷河はそれを、瞬ではなく自分の命で支払おうと思ったのです。 ハーデスは やたらと代価代償にこだわっているようでしたし、氷河は瞬に生きていてもらうためになら、他の何も――自分の命だって――惜しいとは思いませんでしたから。 けれど、それは、瞬には耐え難いことだったのです。 「だめっ! 僕が生きていたいのは、氷河が生きているからだよ! 氷河が死んじゃったら、僕、悲しくて死んじゃうよっ」 涙の混じった悲鳴のように叫ぶ瞬の声。 氷河の口許には、なぜか苦笑のようなものが浮かんできてしまったのです。 人はどうして こんなにも、自分ひとりだけでは幸福にも不幸にもなれないものなのでしょう。 氷河は、それが本当に不思議で、そして、とても幸せなことのように思えたのです。 「それは俺も同じだ」 「氷河……」 涙でいっぱいだった瞬の瞳から、ついに こらえきれなくなった雫がひとつぶ零れ落ちます。 瞬は、その涙を隠すように、顔を俯かせてしまいました。 「氷河は僕に幸せしかくれない。僕はもらいすぎた。いいんだよ、もう」 「マーマがおまえの命の代償に生き返ることを望むとは思えない。もし望んだら、それは俺のマーマじゃない」 氷河の母は、彼女の息子が『この人のために生きていたい』と思える人に巡り会えたことを知ったなら、必ずその幸運を喜んでくれるはずでした。 それは考えるまでもないこと。 彼女は 彼女の息子の幸福をいつも望んでいてくれた人でしたから。 「氷河……」 本当にそれでいいのかと不安そうな目をする瞬に、氷河ははっきりと言いました。 「俺は、死んだ人より、生きているおまえを選ぶ。俺が生きていくために。瞬、俺のために生きていてくれ」 「あ……」 「瞬。おまえは俺が幸せになることを望んでいるんだろう? 俺から希望を奪わないでくれ」 「僕……」 不安の色が薄れ、涙もまた消えかけて、瞬の瞳は 以前のような希望の輝きを取り戻しかけていました。 それは氷河には嬉しい変化でしたが、ハーデスには全く好ましくない変化だったのでしょう。 彼は、生きている人間には最も恐ろしい言葉で、氷河を脅してきました。 「それがそなたの答えか? それでいいのか。人は必ず死ぬのだぞ。束の間の生の充足のために、永劫の死を支配する余に逆らう愚を犯すか!」 それは恐ろしい言葉でした。 大抵の人は、死後の永劫の苦しみを免れるために善良な人間であろうと努めるもの。 それは、氷河に限らず すべての生きている人間に有効な脅し文句だったでしょう。 けれど、氷河は、死の国の王の脅しに屈しませんでした。 「死後に永劫の苦しみを受けることになっても、俺は後悔しない。瞬の幸福の可能性を 俺が奪ってしまわないためなら」 「そなたの母は、親不幸な息子を持ってしまったと、さぞ嘆くことだろう」 「俺のマーマは、自分が瞬の命と引き換えに生き返ることを望んだりしない。俺のマーマは、俺が 生きている瞬を選んだことを きっと喜んでくれる」 もはや氷河の決意を変えることはできないと悟ったらしいハーデスは、その端正な顔を恐ろしいほど醜く歪めました。 永劫の死の国を支配する神は、瞬の意思なくして、瞬を彼の国に連れて行くことはできないようでした。 そして、瞬の心は既に、生きている氷河の心に固く結びつけられていたのです。 ですから、彼は消えていくことしかできなかったのでしょう。 瞬がそれを望んでいないのですから、彼にはどうすることもできなかったのです。 |