「自分が倒した敵を無感動に見おろしている瞬は、ぞっとするほど……こういう言い方は何だが、美しかった」
その時には、あまりに意外な展開に驚き、言葉もなかった青銅聖闘士たちが、瞬の戦い方の奇異を冷静に評することができるようになったのは、彼等が日本に帰ってから。
懐かしささえ感じられる城戸邸のラウンジのソファに ゆったりと腰を落ち着けることができるようになってからだった。

紫龍の言葉に、氷河が眉を吊り上げて反論してくる。
「何が美しいものかっ。あんなのは瞬じゃない!」
氷河の激昂もわかるし、紫龍の見方にも同感できる部分がある。
龍座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の間で、天馬座の聖闘士は短い吐息を洩らすことになったのだった。
「意見が真っ二つだな。ま、今の瞬が綺麗かどうかは別として、俺、最近、瞬が笑わないのがいやなんだよなー。つーか、あの無理して笑ってる感じが、息苦しくて仕方がない」
星矢の意見には氷河も紫龍も異論がなかったらしく、二人は無言で星矢の意見への賛意を示した。

冥界でハーデスに利用されたのは自分に隙があったからだと考えて、瞬は懸命に気を張り、無理に冷徹になろうとしているのだろう――というのが、瞬の仲間たちの一致した現状分析で、共通認識。
そして、彼等は、そんな瞬をどうにかして 以前のように素直な笑顔を作ることのできる仲間に戻したいと考えていた。
敵に容赦がない現在の瞬の戦い方は、地上の平和と安寧を守ることが至上義務であるアテナの聖闘士の戦う姿勢としては正しいものなのかもしれない。
だが、瞬の・・戦い方としては正しくない――間違ってすらいる。
星矢たちはそう思っていた――そう感じずにはいられなかった――のだ。

「清らか好きのハーデスはパスするかもしれないけど、あれじゃ、他のカミサマに目をつけられかねないぜ。正義でも、悪事でも、冷酷すぎるんでも、同情心が強すぎるんでもさ、極端に走る奴って、色々危険だと思うんだよな、俺」
「瞬らしくないのは事実だな。瞬は、俺たちの中では最も中庸の美徳を備えている人間だったんだが……」
「無理をしているんだ。元の瞬に戻った方が瞬のためだ。その方が瞬も楽でいられる。表に出さない分 余計に、瞬は自分の冷徹さに傷付いているに決まっている」
だから瞬は以前のように素直に笑うことができなくなったのだ――というのが、氷河の考えらしい。

それは その通りなのだろうと、星矢も思う。
だが、どちらの戦い方の方が瞬に楽か――精神的負担が少ないか――ということに関しては、星矢は安易に判断することができなかった。
「でも、元の瞬は元の瞬で、人を傷付けることがつらそうで、敵を倒しては後悔して、それも しんどそうだったけどな……」

結局、瞬を本当に“楽”にしてやる最善の方法は、瞬が戦わずに済むようにしてやること――瞬に聖闘士であることをやめさせること――なのである。
だが、瞬は、その道を選ぶことだけはしないだろう。
聖闘士としての責任を仲間たちに負わせ、自分だけが楽になることもまた、瞬にとっては苦痛だろうから。
それがわかっているから、瞬の仲間たちは、瞬のために何をしてやることもできないのだった。
せいぜい、
「なんかこう、ぱーっと景気のいいことないかな。瞬を思いきり笑わせられるようなこと」
などという ぼやきをぼやくことしか。

「笑わせてどうなるというんだ。それは根本解決からは程遠い――」
「人間は楽しいから笑うんじゃなくて、笑うから楽しいんだとか言うじゃん。一度笑っちまったら、瞬だって シリアス気取ってられなくなるだろ。それで、瞬に 深刻ぶってることの愚を教えてやるんだよ」
瞬の苦悩を取り除く根本的解決は、この地上からすべての争い事を消し去ることでしか成し遂げられない。
そして、それは、一朝一夕で成し遂げることのできない難事業である。
となれば、星矢の解決策は ある意味では非常に現実的で、一時的には有効なものであると言えないこともなかった。

「景気のいいことと言っても……体育の日に ちなんで、運動会でも開いてみるか?」
紫龍が口にした一案を、
「聖闘士の100メートルダッシュを見て楽しいと思うか?」
氷河が即座に却下する。
「む……」
紫龍は、自分が提示した案に固執することはしなかった。
提案者である紫龍でさえ、一瞬で終わることがわかりきっているそれを楽しめる自信を持てなかったのだろう。
それは、10秒弱の長き・・に渡って為される勝負事だからこそ楽しめる競技なのだ。

「ああ、運動会はやっても無駄だと思うぜ。先週、星の子学園で運動会があったから、俺、瞬を引っ張っていったんだけどさ。瞬の奴、ガキ共がどんな馬鹿やらかしても、作り笑い浮かべてるだけだった」
沈んでいる仲間の心を浮上させるべく、星矢は既に様々な試みを試みたあとだったらしい。
星矢の徒労の報告を聞いて、氷河と紫龍は その顔に、聖闘士による100メートルダッシュの空しさよりも空しい表情を浮かべることになった。
そうしてから、三人揃って長い溜め息を洩らす。

「瞬はさ、生真面目すぎるんだよ。俺たちなら受け流すようなことでも、深刻に受けとめちまってさ。いっそ どっかのイタリア男みたいに年がら年中 浮かれててくれりゃいいのに」
突然 脈絡もなくイタリア男を引き合いに出してきた星矢に、紫龍は、それでなくても憂鬱そうだった顔を更に露骨に歪めることになった。
彼は、某イタリア人のせいで、イタリア人にあまり良い印象を抱いていなかったのだ。

「確かに、イタリア人というのは、瞬とは真逆で、深く考えなさすぎるきらいがあるようだな。悪事も浮かれた調子でやってのける。傍迷惑極まりない」
イタリア人に対する紫龍の偏見が誰によって培われたものなのかを察した星矢は、紫龍のイタリア人評に両の肩をすくめ、それから大きく横に首を振った。
「カニ道楽のおっさんのことじゃなくてさー。なんだ、紫龍、知らないのか? ここから4ブロックほど行ったとこにある一軒家にイタリア人が引っ越してきたの」

「俺は町内会長でも噂好きのお喋りスズメでもないんだ。そんなことを知っているわけがない」
カニ道楽のおっさんとは別人でも 同国人なら同じ気質を持っているに違いない――と、おそらく紫龍は考えたのだろう。
別人の話と言われても、紫龍はその顔の歪みを元に戻そうとはしなかった。
星矢が、そんな仲間を見て、困ったように苦笑する。

「いや、それがさ、本業はインテリア・デザイナーだか何だかで、日本の家具屋に招かれて こっちに来て――最初は都心のマンションにいたそうなんだ。けど、朝から晩まで大声で歌を歌ってるせいで、いー加減にしろって住人に文句つけられて、そのマンション追ん出されちまったんだと」
「歌? 防音設備のないところだったのか?」
「ちゃちな防音設備なんかあっても無意味だっただろーなー。ベランダの戸を開けて、空に向かって歌ってたっていうから。で、ここいらなら、家と家の間に距離があるから大丈夫だろうって、引っ越してきたらしい」

そこまで言ってから、ついに耐え切れなくなったのか、星矢はげらげらと声に出して笑い始めた。
「噂聞いて、見物に行ったら、ほんとに昼間っからボリューム全開だった。上手いんだか下手なんだかもわかんねーくらい すごい大声で、庭の木の枝切りしながら、ほんとにずっと歌いっぱなし。面白いから、日本の名曲だって言って、『ラジオ体操の歌』を教えてきてやったぜ」
「おい……」
星矢の選曲に渋面を作った氷河に、
「まあ、名曲といえば名曲といえないこともない……かもしれない」
紫龍は、今ひとつ力の感じられないフォローを入れることになった。

脱力している二人とは対照的に、星矢が俄然元気を取り戻す。
否、星矢が取り戻したのは“元気”ではなく、一般に“希望”と呼ばれるものだったかもしれない。
星矢は、イタリア人の陽気さによる瞬再生を試みることを考えた――ようだった。

「よし、あのイタリア男のとこに、瞬を連れてってみることにしよう。あのにーちゃんの能天気ぶりを見たら、瞬もシリアスぶって落ち込んでんのが馬鹿らしくなってくれるかもしれない」
「にーちゃん? おっさんじゃないのか?」
星矢の聞き捨てならない一言に、氷河がぴくりと こめかみを引きつらせる。
氷河は、噂のイタリア人に、太った中年のカンツォーネ歌手のイメージを重ねて、星矢の話を聞いていたのだ。
しかし、そうではなかったらしい。

「いや、にーちゃんの部類だろ。まだ20代みたいだったし。家の前を女の子が通ると、もうイタリア男の本領発揮でさ、キレーイ、カワイー、ビジンサンデスーを連発してた。日本の女の子はみんな可愛いって、滅茶苦茶 喜んでたぜ」
「アメリカに行っても中国に行っても、同じことを言うんだろう。そんな男のところに瞬を連れていけるか!」
極めて個人的な理由で不機嫌になってしまった氷河に、星矢が呆れたような視線を投げる。
これは、地上の平和と安寧を守る義務を負った一人のアテナの聖闘士の未来がかかった重大事。
今 瞬の仲間が模索しているのは、下世話な色恋絡みの嫉妬などという瑣事とは次元の違う大問題の解決方法なのだ。

「おまえとも気が合いそうだったけどなー」
「そういう軽薄な輩は、俺とは違う人種だ」
「すげーマザコンでさ。ラジオ体操の間も マンマ、マンマ言ってた。しまいにゃ、マンマの歌を歌いだしてさ。マンマは私の命ー とか」
「イタリアはマザコン男産出量世界一を誇る国だからな。ロシアのマザコンとイタリアのマザコン対決か。面白そうだな」

氷河同様 それまであまり気乗りしていないようだった紫龍までが、軽薄・能天気に続くイタリア男の第二の気質に思い至り、にわかに乗り気になったらしい。
紫龍が乗り気になった理由は、氷河を大いに不快にした。
「おまえが面白がってどうする! 俺たちが笑わせなければならないのは瞬だろう!」
いつから、彼等の目的が『瞬を笑わせること』になったのかという問題はさておくとして、氷河のその怒声は ある人物を非常に驚かせることになったのである。

ある人物というのは他でもない、ちょうどそのタイミングでラウンジに入ってきたアンドロメダ座の聖闘士 その人である。
「僕がどうかしたの?」
瞬に尋ねられた氷河は、咄嗟に返答に窮することになった。
まさか、『今のおまえの戦い方が気に入らないから、元に戻すための算段をしていた』と本当のことを言うわけにはいかない。
瞬は瞬なりに思い悩み、その上でよかれと思って辿り着いた、あの 瞬らしからぬ冷酷であるに違いないのだ。
それを頭から否定することは、瞬の仲間にもできることではない。
それは、瞬に恋している男にもできることではなかったのだ。

問われたことに答えられずにいる氷河を脇に押しやって――あるいは、助け舟を出すつもりだったのかもしれないが――星矢が瞬に話しかけていく。
氷河が渋っていた瞬再生計画を、星矢は本気で実行に移すつもりのようだった。
「瞬、あのさー。外国から仕事で日本に来てさ、ホームシックで鬱になりかけてるイタリア人の にーちゃんがいるんだけど、一緒に慰めに行かないか」
「え?」
「おい、星矢!」

氷河は、星矢の計画に、どうしても賛成する気になることができなかった。
相手が “おっさん”でなく“にーちゃん”だからというのではなく――それも賛成できない理由のひとつではあったが――彼には、星矢の企みが無効どころか有害であるような気がしてならなかったのである。

にぎやかな場所に孤独な人間を連れていけば、その人間の孤独が癒されることになるとは限らない。
それで 更に孤独を募らせる人間もいるだろう。
むしろ、世の中には そういう人間の方が多いかもしれない。
同様に、陽気な人間、幸福な人間に接することで、人が 自らも陽気な気持ちになれるとは限らない。
かえって 憂愁を深める人間もいれば、己れの不幸不運を嘆く心を深める者もいるだろう。
瞬を陽気なイタリア人のところに連れていくことが、藪をつついて蛇を出すことになる事態を、氷河は懸念していたのである。
瞬の苦悩が 笑って癒されるようなものでないことは明白なのだから。

が、そんな氷河の慎重と懸念を無視して、星矢はどんどん話を進めていった。
「マンマが恋しいって、毎日泣いてんだよ。おまえ、そういうのの扱いは氷河で慣れてるだろ? 日本の可愛子チャンに慰められれば、あのにーちゃんも少しは浮上するかもしれないし、人助けだと思ってさ」
「それは……お気の毒だと思うけど……」
「だろだろ。じゃ行こう!」
「今から?」
「あまり大声で泣くもんだから、にーちゃん、向こう三軒両隣りの家から、午後6時までしか泣かないって念書書かされたんだ。泣いてるところに行かなきゃ、慰めにくいじゃん」
「……」
いったい星矢は自分をどういう人物のところに連れていこうとしているのかと、瞬もさすがに不安を覚えたらしい。
星矢の説明を聞いて、瞬は かすかに眉根を寄せることになった。

が、瞬の意思がどうあっても、星矢は彼の計画を断行するつもりのようだった。
それほどに――瞬の作り笑いを見ていたくないという星矢の思いは強いものだったのだろう。
星矢は、試せることは何でも試してみずにはいられない――それこそ、藁にもすがる思いでいたに違いない。
星矢のその気持ちがわからないではなかったから、結局、氷河は――紫龍も――瞬を陽気なイタリア人の許に連れて行くべく立ち上がった星矢を 無理に押しとどめることができなかったのである。






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