秋の空は高いところにある。 夏場には その強烈な陽射しにうんざりして、太陽のある位置など確かめる気にもならないが、秋の太陽は違う。 星矢たちが城戸邸を出た時、太陽は中天から20度ほど傾いたところにあり、それは暖かく優しく穏やかだった。 そんな昼下がり太陽の下を歩く青銅聖闘士たちの耳に 最初に聞こえてきたのは『サンタ・ルチア』。 途端に、氷河は、その顔を心底嫌そうに歪めることになったのである。 「問題のイタリア男の家は、城戸邸から4ブロック奥と言っていなかったか」 「うん、そう言った」 「俺たちはまだ2ブロック分も歩いていないと思うが、それは俺の気のせいか」 「おまえの気のせいじゃないだろうなー」 「……」 では、この歌声は、やはり これでは近隣の家の住人も“にーちゃん”に念書を書かせないわけにはいかないだろう。 それでなくても乗り気でなかった氷河は、確固たる意思をもって、突然その場で足を止めた。 「俺は、あんな恥知らずな真似をしている男のところには行きたくない」 氷河の明白な拒絶の意思表示にもかかわらず、星矢は 容赦なく目的地に向かう足を進める。 そして、星矢の手は、氷河は逃がしても瞬だけは逃がさないと言わんばかりに、瞬の左手首を がっしりと掴んでいた。 おかげで、瞬は、氷河が歩くのをやめても、彼と一緒に立ち止まることができなかったのである。 「あ、マンマの歌に変わった」 「ベニアミーノ・ジーニが歌ったやつだな」 問題のイタリア男の家はまだ見えないというのに、その歌声は明瞭の極み。 氷河は嫌だったのである。 本当に嫌だった。 だが、瞬を人質にとられているだけに、氷河は星矢たちの――正しくは瞬の――あとを追わないわけにはいかなかった。 とはいえ、その瞬も、目的地に近付くにつれて、いよいよ大きく いよいよクリアになってくるテノールの声には不安を覚えないわけにはいかなかったらしいが。 「星矢、その人、鬱になってるって言ってなかった?」 「え? 俺、そんなこと言ったか? 躁鬱の聞き間違いだろ。今、ちょうど躁のピーク時みたいだな」 「……」 星矢は白々しいほど堂々と嘘を糊塗してみせる。 星矢はいったいどういうつもりなのかと、瞬の疑念は更に深まることになったようだったが、もちろん星矢はそんなことは気にしない。 星矢は『目的が正しければ、手段は選ばない』を是とする男だった。 であればこそ、彼は、聖闘士の戦いに 瞬のような迷いを感じたりはしないのだ。 「あの家だ」 3ブロック目の角を曲がったところで、星矢が指差したのは、ルネサンス様式もどきとネオゴシック様式もどきの入り混じった建築物である城戸邸とは比べようもないほど小さく可愛らしい住宅。 ただ、庭だけは広かった。 塀で囲まれておらず、1メートルに満たない高さの柘植の垣根しかないせいで、実際より広く見えている部分もあったかもしれないが、ともかく それは非常に開放的な造りの家だった。 花壇等はなく、庭のほとんどが緑の芝生。 庭の東の端に一本だけ、背の高い楡の木があって、長く枝を伸ばした木の下には、屋外用のテーブルと椅子が何脚か置かれていた。 ヨーロピアンというよりはアメリカン。 庭で犬でも飼われていたら、アメリカの地方都市の郊外にありそうな雰囲気の家だった。 そして、問題の男は、その庭のほぼ中央で、手に持ったホースで芝生に水撒きをしていた。 もちろん、大きな声で歌を歌いながら、である。 星矢たちが庭の垣根に辿り着いた時、彼の歌はちょうど ナポリ民謡定番中の定番『オー・ソレ・ミオ』に変わったところだった。 「にーちゃーん!」 すっかり顔馴染みになっているらしい星矢が手を振ると、彼は星矢とその友人たちに大袈裟な身振りで手を振り返してきた。 もちろん、それで歌をやめることはしない。 決して細くはないが、背が高いので あまり肉付きのよさが気にならない体格、20代半ば、濃褐色の髪、おそらく瞳の色は黒だろう。 見た目だけなら、蟹座の黄金聖闘士より、むしろ獅子座の黄金聖闘士に似ていると、星矢の仲間たちは思うことになった。 いずれにしても、庭先での大声での熱唱など、常識的な日本人なら まずしない行為である。 だが、あまりに堂々とした彼の態度に、氷河を除く青銅聖闘士たちは、彼に対して さほど非常識な印象を受けることがなかった。 彼があまりに堂々としているので、これを非常識と感じる方が非常識であるような錯覚に囚われてしまったせいだったかもしれない。 「気持ちよさそうに歌ってるな」 「ほんとだね」 紫龍の呟きに、瞬が賛同する。 実際、彼は実に気持ちよさそうに見えた。 圧倒的な声量で――晴れた空を仰ぎ、彼は、この日にふさわしい故国の歌を故国の言葉で、歌いあげる。 上手いとは言えないのかもしれなかったが――少なくとも技巧的ではなかったが――聞いている者の気分を爽快にするような歌と歌い方だった。 嵐が去り、青空に太陽輝く素晴らしい日。 だが、それより更に美しい私の太陽は君の瞳の中で輝いている――。 ギリシャ語に比べれば比較的平易なイタリア語は、正式に習ったことのない星矢たちにも さほど理解が難しい言語ではない。 歌の歌詞くらいは、瞬たちにも理解できた。 「要するに、自分の恋人は太陽より美しいと歌っているわけだ」 「イタリア人って大袈裟だよなー。氷河、負けんなよ」 「あんなモノに勝っても自慢にはならん」 氷河は、見事なまでの仏頂面で、イタリア男をすっかりモノ扱い。 『オー・ソレ・ミオ』と『ヴォルガの舟歌』との間には、天と地ほどの距離があるようだと、氷河の仲間たちは思ったのである。 氷河当人は、それこそ会う前から、そのモノとは肌もそりも合わないに決まっていると確信していたのだが、定番ナポリ民謡を歌い終え、瞬の姿を認めるなり、柘植の垣根に走って寄ってきた そのモノが、 「カワイコチャーン! カワイイ、キレイ、ビジーン、サイコー!」 と歌顔負けのボリュームでわめきながら、瞬の両手を握りしめて ぶんぶん振り回し始めた時、イタリア男に対する氷河の嫌悪は決定的なものになった。 瞬は、突然 掴みあげられた手を振りほどくことも思いつかない様子で、その勢いに ただただあっけにとられている。 女の子に間違われたことは幾度もあるが、ここまで大々的に絶賛されるのは、瞬もこれが初めてだったに違いない。 「この野郎……!」 氷河が今にも一般人であるイタリア男にオーロラ・エクスキューションを食らわせようとしていることに気付いた星矢が、慌てて瞬とイタリア男の間に割って入る。 瞬の手を掴んでいるイタリア男の手を さりげなく引っ張り、引き剥がし、星矢は少々不自然な作り声でイリタア男に忠告を垂れた。 「にーちゃん。ちゃんと日本語喋れるくせに、そのわざとらしいガイジンぶりっこはやめろよ」 たった今 自分が九死に一生を得た事実に全く気付いていないらしい 陽気なイタリア男は、星矢にそう言われると、実に悪気のなさそうな笑みを その顔に浮かべた。 「ああ、失礼。しかし、本当に可愛らしい。日本に来てよかった。こんなに綺麗な女の子に会えるとは! もちろん世界一は私のマンマだが、君は世界で二番目に美しい」 「瞬を母親と比較するとは、氷河にもできない芸当だな」 イタリア人の言動に、紫龍は深い感銘(?)を受けたらしい。 “カワイコチャーン”を堂々と母親と比べるだけでも 立派な一芸だというのに、彼は、その“カワイコチャーン”が『母の次に美しい(=母ほどには美しくない)』と言い切り、しかも、それを最高の褒め言葉を信じているようなのである。 紫龍には、彼の言動は、それだけで十分に感嘆に値するものに思われた。 「瞬をマンマと比べるのかぁ。にーちゃんのマンマって何歳だよ」 「51歳だ。来月、52になる」 「瞬の3倍強じゃん。大胆な比較をするもんだなー」 「完全に氷河は負けている」 勝手なことを言う仲間たちを、氷河はぎろりと睨みつけたのだが、陽気なイタリア男は、氷河の仲間たちに輪をかけて勝手かつ自由闊達な男だった。 彼は、 「では、この感動を早速」 と言うなり、再び庭の中央に戻ると、またしても尋常でない音量と声量で歌を歌い出したのである。 「これは、俺も知ってる。えーと」 「『ボラーレ』だな。何が嬉しいのかは知らないが、嬉しさのあまり、空にぶっ飛んだ男の歌だ」 「ぶっ飛んでるよなー。あれで、酒入ってないってのが、とてもじゃないけど信じられねー」 ドメニコ・モドゥーニョが初めてカンツォーネで全米No.1ヒットを獲得した歌を朗々と歌いあげると、息つく間もなく 彼は次の歌に突入。 彼の歌には大袈裟な身振りが伴い、彼の手足は彼の歌声同様 実に奔放な動きを見せていた。 「ワンマンショーか何かと勘違いしてないか」 「俺たち、にーちゃんの歌を聞きにきた観客だと思われてんだろ。なにしろ 夕方6時以降は歌えないことになってるから、こうして歌ってられるのも今のうちだもんな」 「まだ2時を少し過ぎたばかりだぞ」 彼は彼の聴衆にレパートリーをすべて披露するつもりでいるのかもしれなかった。 陽気なイタリア男が 星矢に教えられた『ラジオ体操の歌』を歌い出す頃には、氷河の憤りは ほとんど諦観を伴った倦怠に変化していた。 「本気で自国の安全を考えるなら、日本国は、こんな低い垣根ではなく、最低でも2メートルの高さのあるコンクリート塀でこの家を囲って、奴を隔離すべきだ」 「んなことしても無駄無駄。歌は世界の言葉、地球は にーちゃんのワンマンショーのステージだぜ!」 げらげら笑いながら そう言って、星矢は彼の隣りに立つ瞬の横顔をそっと盗み見た。 途端に、星矢の笑い声は、ひどく空しい響きを帯びることになったのである。 瞬は笑っていなかった――少なくとも、星矢が望むようには笑っていなかった――のだ。 唇は確かに微笑の形を作っているし、決して不機嫌なわけでも悲しんでいるわけでも怒っているわけでもないようなのだが、それでも瞬は笑っていなかった。 一見 優しげな作りものの微笑には、笑いの最も重要な要素であるところの明るさがない。 「やっぱ、駄目か……」 星矢は小さく呟いて、落胆のために その両肩を がくりと落とすことになったのだった。 それはイタリアの陽気なマザコン男も同様だったらしい。 というより、彼のワンマンショーの第一の目的は瞬の気を引くことだったらしく、彼の落胆は星矢以上だった。 彼らしくない重い足取りで客席の前に戻ってきた彼は、 「暗い顔ですね」 と、形だけは笑っている瞬の顔を見て言った。 「まー……そのな」 イタリア男に勝るとも劣らない陽気さを身上にしている星矢も、今ばかりは適当なフォローが思いつかなかったらしい。 なにしろ、無理な笑顔を作っている瞬当人は、イタリア男の言う『暗い顔』をしているのは氷河だと思っているのだから、さすがの星矢にも処置の仕様がなかったのだ。 |