しかし、それでめげるようではイタリア男という商売は成り立たないらしい。
彼はしばし考え込む素振りを見せ、やがて何事かを思いついたように勢いよく、その顔をあげた。
「日本人なら、やはりナニワブシですか」
「浪花節? にーちゃん、そんなのまで歌えるのかよ?」
「任せてください。ギリとニンジョー、ワビとサビ。日本人は、泣ける歌で笑うんでしょう?」
「へ?」
いったい この陽気なイタリア男は、浪花節をどういうものだと思っているのか――。
訝る星矢たちの前で 彼が歌い始めたのは、日本語による日本の浪花節ではなかった。
それまでの開放感にあふれた明るいものではなく、少々哀愁の勝った歌ではあったが、浪花節ではない。

イタリア人の勘違いに せめて苦笑だけでも見せてくれないものかと 空しい期待を抱いて、星矢が瞬の上に視線を巡らせた時だった。
それまで 作りものとはいえ微笑らしきもので その顔を覆っていた瞬の瞳から、突然 大粒の涙が零れ出したのは。
「瞬 !? 」
「瞬、どうしたんだ!」
瞬の涙の原因は、どうやら陽気なイタリア男の自称ナニワブシらしかった。
瞬に心から笑ってほしくて、そのためにこんなところまで瞬を引っ張ってきたというのに、得られたものは瞬の笑顔ではなく涙。
星矢は、自分の方が泣きたい気分になってしまったのである。

「この歌、なんだよ! イタリア語じゃないな」
「『ラ・ノヴィア』。スペイン語だな。恋人が他の男と結婚するのを嘆いている未練がましい男の――いや」
瞬の前でそういう解説はすべきではないと考えたのか、紫龍は言葉を選び直してから、星矢に その歌の内容を説明することをした。
「花嫁には他に好きな男がいる。だが、まあ、何かの事情があって、彼女は他の男と結婚しなければならなくなるんだ。自分を愛している恋人が 白いドレスを着て、神の前で偽りの愛を誓い、泣きながら神の許しを乞うのを、花嫁に愛されている男は ただ見詰めていることしかできない――そういう歌だ」
「偽りの愛だあ? 瞬の落ち込みの原因は氷河の浮気か何かかよっ!」

星矢の決めつけに慌て立腹することになったのは、某白鳥座の聖闘士である。
星矢の決めつけは濡れ衣以前。氷河はそもそも浮気をする権利をすら、まだ瞬に与えてもらっていなかったのだ。
「浮気も何も、俺は瞬に好きだと告白はしたが、その返事はまだもらっていな――いや、瞬の返事がどうだろうと、俺は、瞬ひとすじだっ!」
「じゃあ、なんで、瞬がこんな歌で泣いたりすんだよ! てめー、だから、今の瞬は綺麗じゃないとか、勝手なことほざいてたのかっ」
「誤解だっ、俺は瞬しか見ていない!」
「言い訳なんかすんなよ、見苦しいぞ!」

星矢は、思い通りに事が運ばない現実に苛立ち、瞬の涙がなくても暴れまわりたい気分でいたのかもしれない。
彼は、氷河の言い分を聞きもせず、問答無用で氷河に殴りかかっていこうとした。
そんな星矢を、瞬が慌てて引き留める。
「ちが……違うの! 星矢、違うんだよ。氷河のせいじゃない!」
涙ながらの瞬の訴えに合って、星矢は氷河成敗のための動きを止めた。
星矢の流星拳を食らわずに済んだ氷河は、だが その事実に素直に気を安んじることもできなかったのである。

氷河には、瞬に『この涙は、氷河のせいじゃない』ときっぱり言い切られることも癪なことだった。
瞬の心を乱し、瞬に涙を流させていることの原因が、自分の外にあるという事実は、氷河には、決して喜ばしいことではなかったのである。
よもや瞬が、まさか偽りの愛を誓う『ラ・ノヴィア』の花嫁に同情して涙を流すことになったのだとは思い難い。
では、瞬の突然の涙は、いったい何のせいで出現することになったのか。
瞬の断言に、氷河は顔を引きつらせることになった。

瞬の涙が歌に感動して流された涙でないことは、陽気なイタリア男にも わかったらしい。
彼は垣根の前で涙に暮れている瞬の側にやってきて、気遣わしげな声で、いかにも彼らしい助言を口にした。
「悲しいことがあるのなら、マンマに相談してみては……」
「にーちゃん。俺たち、みんな、マンマがいないんだ」
星矢が無理に笑って、イタリア名産マザコン男に その事実を知らせる。
「おお、それは……!」
それは彼にしてみれば、この世のすべての不幸の上に君臨する最凶最悪の不幸だったらしい。
そうして彼は、同情に耐えないと言いたげな顔をして、彼の観客たちを彼のステージの上に招待してくれたのだった。

――楡の木の下にあるテーブルと椅子。
秋の穏やかな陽光が作る木漏れ日が、それでなくても細い瞬の肩を慰めるように包む。
その木漏れ日の中で――瞬は、瞼を伏せ、小さな声で、彼の涙の訳を話し始めた。






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