「神様は許してくれるんだろうか……って、思ったの。あの歌の偽りの誓いを立てた花嫁は、神に許してもらえるんだろうか――僕は許されるんだろうか……」
「……おまえ、ほんとは氷河を好きじゃないのに、氷河を傷付けたくないから色よい返事しようとか、そんなこと考えてたのか?」
せっかちな星矢が、瞬の説明を最後まで聞かず――最後まで聞かないどころか、前置きを聞いただけで――結論を手に入れようとする。

星矢の聞き捨てならない推察に、氷河はぴくりと こめかみを引きつらせることになったのだが、瞬の涙は、氷河絡みのことではなかったらしい。
瞬は、すぐに、星矢が勇み足で導き出した結論を否定した。
「そんなことしないよ。そんなんじゃなく――」
力なく首を横に振った瞬が、そうして ぽつりぽつりと語り始めたのは、冥界でのこと――だった。
瞬の瞳を暗くした原因は、やはり あの戦いの中にあったらしかった。

「僕は――僕も、僕なりに覚悟して戦ってるつもりだったんだ。自分のしたことの報いは甘んじて受けるつもりでいた。その覚悟は甘かったかもしれないけど、それでも……。カノンにあんなふうに言われて、だから、今は――アテナの聖闘士として生きている今は、地上の平和を守るっていう目的以外のことは全部忘れて、戦わなきゃならないんだって割り切ろうとした。でも、苦しいの。僕はアテナの聖闘士に向いていない――僕は、聖闘士失格なんだと思う」

「カノン……?」
なぜ、急にここでカノンが出てくるのかと、瞬の仲間たちは訝ることになったのである。
瞬が何を言っているのかを理解できたのは、冥界で瞬と行動を共にしていた星矢だけだった。
その星矢も、今の今まで、双子座の黄金聖闘士が瞬に告げた その言葉を、綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだが。
「原因は、ハーデスでも氷河の浮気でもなく、カノンか!」
綺麗さっぱり忘れていたことを思い出した星矢が、ほとんど歓声じみた声をあげる。
と同時に、彼は、原因の究明を怠り、事態の解決だけを求めていた己れの性急さに 臍を噛むことをしたのだった。

「カノンが瞬に何かしたのか」
紫龍は、『カノンが瞬に何か言ったのか』と訊くべきだったろう。
言葉尻を捉えるように、いちいち 詰まらないことに目くじらを立てる氷河に、彼は短い吐息を洩らすことになった。
星矢が、眉をしかめて、その場に居合わせなかった二人に、カノンが瞬に告げた言葉を知らせる。

「何かしたってわけじゃないんだけど……。冥界のルネの裁きの館でさ、瞬がちょっと弱音を吐いたんだよ。これまで自分は正義の名のもとに たくさんの人を傷付けてきた。自分が生きてるってことは、つまり誰かを傷付けることで、生きてる限り、自分は誰かを傷付け続けるしかないんじゃないかって。それくらいなら、いっそ――ってさ」
「それは……しかし……」
「うん。そしたら、カノンが、瞬の甘いのを責めてさ、そんなんじゃ足手まといにしかならないとか、そんなふうに。今は余計なことは考えずに 目の前の敵を倒すことだけを考えろって、あのおっさん、瞬に言ったんだよ。それが罪だっていうんなら、悪党共を全部倒してから、神の裁きを受けようとか何とか」

目の前の敵は倒さなければならない。
今は割り切って戦い、その罰は戦いが終わってから受ける。
その敵によって、今苦しめられている者たち、これから苦しめられることになる者たちを 救うために――。
聖闘士ならば そうしなければならないと瞬も思い、だから、瞬は実際にそうした。
だが、その行為が、思いがけないほど深く瞬の心を苦しめることになった――ということらしい。

「……割り切れないんだ。いつか罰を受ける覚悟をしても、僕は ためらいなく敵を倒すことができない。でも、迷いながらでも、僕は結局 敵を倒す。なら、僕が迷うことは無駄で無意味だ。迷うことは正しいことじゃなくて、犠牲を増やすだけ。アテナにも、星矢たちにも、僕のためらいは迷惑をかけるだけで、僕が倒す敵にも――僕の迷いは、敵に対しても傲慢なことだと思う。迷うことは自己弁護のようで、潔くないとも思う――そう感じる。でも、僕は迷わずにいられないんだ。僕……僕はカノンのようにはなれない。僕、どうすればいいのか、自分で自分がわからないの……」

正義のために冷酷になろうとして、なりきれない。
それでは聖闘士として立ち行かない。
それが、瞬の苦悩で、瞬の暗さと冷酷の原因だったらしい。
涙ながらに その苦しみを訴える瞬を見て、そんな瞬のために、だが、氷河は共に泣いてやることができなかったのである。
瞬の悩みが あまりに瞬らしく、そして、あまりに馬鹿げていると思えたせいで。

「ば……馬鹿馬鹿しい! あの馬鹿は、よりにもよって おまえにそんなことを言ったのか !? 」
吐き捨てるようにそう言ってから、氷河は、カノンだけでなく瞬までをも詰責し始めた。
「瞬、おまえもおまえだ。あんな馬鹿の言うことを真に受けるな。常識で考えろ。聖闘士でなく、普通の社会ででも、罰を覚悟しているからと言って殺人が許されるか? 許されるものか! カノンの言っていることは、自分に都合のいい、その場限りの詭弁だ。そんなことで、俺たちのしていることが正当化できるわけがない!」
「氷河! おい、それ、全然 慰めになってねーぞ。ここは嘘でも、俺たちの戦いは正当防衛だとか何とか言ってやるべきところだろ」

言うに事欠いて、『聖闘士たちのしていることは、決して正当化できない』とは。
星矢は――紫龍も――氷河のその言い草には、さすがに渋い顔になったのである。
それでも懸命に戦おうとしている瞬に対して、氷河の言うことは 残酷で――平たく言えば、身も蓋もなさすぎた。
しかし、氷河は自説を撤回するつもりはないらしい。
「事実だ」
彼は、短く、事実は事実と言い切った。

「いや、そりゃそうだけどさー。カノンのおっさんだって、瞬の気持ちを楽にしてやるために、わざと そんなこと言ったのかもしれねーし」
「あの短絡男にそんな深い考えがあったとは思えんな。あの男は、自分の信じる正義のためにしたいことをして、いずれ その罰を受け、それですべてを終わらせてしまう男だ。それですべての清算は済むと考えることのできる、おめでたい馬鹿野郎。それで終わってしまえない瞬とは違うんだ。そんな男が、よくも偉そうに瞬に説教なんかできたもんだ!」

氷河がきっぱりと断言する。
星矢は、氷河の見解に反論できなかった。
少なくとも、カノンが、瞬の心や瞬の価値観を真に理解した上で、あんなことを言ったのだとは、星矢にも思うことはできなかったのである。
第二の双子座の黄金聖闘士は、瞬があの時まで、アテナの聖闘士としてどういう戦い方をしてきたのかを知らないのだから。
天馬座の聖闘士、龍座の聖闘士、鳳凰座の聖闘士、そして白鳥座の聖闘士への忠告なら、それでいい。
だが、アンドロメダ座の聖闘士には――。
カノンは、最もふさわしくない聖闘士に、最も不適切な説教をしてしまったのだ。

これまで命がけの戦いを共にしてきた仲間に――しかも、その仲間は、個人的な好意を瞬に告白していたというのに――救いのない糾弾を受けてしまった瞬が、嗚咽を洩らすまいとして顔を伏せる。
そんな瞬に、氷河は、
「おまえは神の裁きと罰が恐いのか」
と尋ねた。

問われた瞬は――もう何も考えたくなかったのだろうに――問われたことへの答えを、必死になって考えたらしい。
そして辿り着いた瞬の答え。
瞬の血の気の失せた唇が洩らすことになった瞬の答えは、
「恐くない……」
というものだった。
それが瞬の答えだった。

瞬自身にも意外だったのだが、いずれ神によって与えられることになるだろう裁きや罰は、瞬には少しも恐ろしいものではなかった。
「どんな罰を受けても、僕はそれだけのことをしたんだと思う」
そう思う気持ちは真実のものなのに、なぜこんなに『恐ろしい』という感じが消えないのか。
いったい自分は何を恐れているのか。
瞬には、それがわからなかった――以前にも増して 更にわからなくなった――のである。






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