瞬が聖闘士になるための修行をした島は、今はこの地上に存在しない。 残骸と呼べる程度の陸地は残っているが、そこには もう誰もいない。 瞬の師も、共に修行をした仲間たちの多くも、島と運命を共にした。 ――と、瞬を除けば、アンドロメダ島のほぼ唯一の生き残りであるジュネは言っていた。 そうして、彼女もいずこかに姿を消し、それによって瞬が6年の月日を過ごした島につながるすべてのものは 瞬から奪われ、今では それは瞬の記憶の中にしか存在しない。 「アンドロメダ島では、つらいことも、悲しいことも、苦しいことも それなりにあったし、あの島は自然環境もずいぶん厳しいところだったけど――」 瞬がなぜそんなことを話し出したのか、本当のところを氷河は知らない。 その時、氷河は、瞬に修行時代のことを尋ねたわけではなかったし、彼自身の修行時代の話をしていたわけでもなかった。 そもそも、瞬がそんな話題を持ち出す数分前まで、二人はそれぞれの眠りの中にいたのだ。 あと1時間もすれば、夜が明ける。そんな時刻。 こころもち 氷河の肩や腕に身体を傾けるようにして眠っていた瞬が、微かに身じろぎ、ふいに目を開けた。 最も眠りの深い時刻だったのに、聖闘士の 目覚めてしまった氷河が『どうかしたのか』と瞬に尋ねようとした時、瞬は、氷河の機先を制するように ふいにその島のことを語り始めたのだ。 「ねえ、氷河ならわかるでしょう? 人間を安易に受け入れない自然っていうのは、とても美しいものだってこと。凍える夜の星、灼熱の太陽の下で青く輝く海――アンドロメダ島はとても美しい島だった」 瞬はおそらく失われた島の夢を見ていたのだろうと 氷河は思い、だから、彼は、夜明けにはまだ間があるのに そんなことを語り始めた瞬を、特に奇異とは思わなかった。 ただ、瞬が見ていた夢がアンドロメダ島の夢だったなら、その夢の中に自分はいなかったのだろうと考え、いつも側にいたいとどれほど願っても、瞬の夢の中にまでは入っていけない自分の無力に軽い憤りを覚えただけで。 「だからなのかなあ……。僕の思い出の中で、アンドロメダ島は美しかった印象しか持っていない。伝説の楽園のように美しくて、蜃気楼のように儚くて――時々、僕があの島で過ごした6年間は綺麗な夢だったんじゃないかって気がするんだ」 やはり瞬はアンドロメダ島の夢を見ていたのだろう。 その夢から覚めても、まだ夢の中にいるように――まさしく夢見る眼差しをして、瞬は失われた島のことを氷河に語ったのだった。 特筆すべきことでもない、ごく ありふれた ある日の夜明けの出来事。 その日以降も 時折ふと思い出したように、瞬は、瞬の綺麗な夢の話を氷河に語ってくれた。 場所は、二人のベッドの上とは限らず、たとえば、控えめな秋の花が咲き始めた城戸邸の庭、星矢が所用でギリシャに発った日の夕暮れの中、氷雪の聖闘士がシベリアの冬の寒さに言及した日のラウンジ――。 ふとしたきっかけで瞬はその島のことを語り出し、そんな時、瞬はいつも 懐かしげに切なげに、美しい夢路を辿るような表情を、氷河に見せることになるのだった。 瞬を聖闘士に育てあげた その島が、ただ美しいだけの島であったはずがないというのに。 最初は、第二の故郷ともいえる島を失った悲しみを忘れるため、あるいは、つらかった修行や 島で孤独だったことを忘れるために、瞬は無理にその地を 美しい思い出の場所に変えようとしているのだと、氷河は思っていたのである。 瞬の性格を考えれば、それは大いにあり得ることだった。 その島で いかに苦しい思いをしたか、どれほど寂しい思いをしたか。 そんなことを誇らしげに語り、仲間たちに苦労自慢をしたり、愚痴をこぼしたりすることのできる瞬ではない。 瞬がその島を美しい島にしておきたい気持ちは、氷河にもわからないではなかった。 何といっても、そこは既に失われた場所なのだ。 失われた場所や失われた人々が、思い出の中では美しさを増すばかりのものになることを、氷河は身をもって知っていた。 瞬がその島を美しかった島にしたいというのなら、瞬のその思いを妨げることは誰にもできないし、妨げたところで誰が得をするわけでもない。 その島は既に失われてしまったのだ。 瞬に事実を思い出させ、現実を認めさせても、今更どうなるものでもない。 だから――美しかった 瞬が そう望んでいるのだから。 つらいばかりだった思い出を美しかったものに変えようとする心の作用だけで、瞬がそんなふうにアンドロメダ島を語っているのではないかもしれないという疑念が 氷河の中に湧いてきたのは、秋も深まった ある日の午後。 瞬が、城戸邸の秋の庭で小さな薄桃色のれんげ草の花を見付けた時だった。 「春に咲く花なのに……」 花の前で立ち止まり、瞬はぽつりと呟いた。 それきり無言で小さな花を見詰めていた瞬が、突然、 「兄さんにとってデスクィーン島は、どういう場所だったんだろう――」 と、兄の修行地に言及してきたのだ。 「アンドロメダ島に似てる場所っていう話だったから、デスクィーン島にも 僕の島と同じように青い海と綺麗な星空があったはずだけど……。それでも、やっぱり、思い出すのも つらい場所なのかな。兄さんの先生って、兄さんに間違った教えを強いた人だったらしいし、兄さんも エスメラルダさんをあの島で失っているから……」 季節を誤って秋に咲いてしまった可憐な春の花。 その花の風情に、瞬はさすがに兄の姿を重ね合わせたのではなかったらしい。 その花が瞬に連想させたものは、地獄の島で 瞬の兄の心を慰めてくれた薄幸の少女の面影だった――のだろう。 瞬の感性に狂いが生じていないことに安堵して、その花のことなど それきり忘れてしまえばよかったのに、氷河は 引っかかってしまったのだ。 『兄さん 瞬 それゆえの『兄さん だが、氷河は、その時ふと、もしかしたら瞬 人間を安易に受け入れず、決して人に侵されることのない自然。 人が、そんな自然に 美しさや厳しさを感じることは大いにあることだろう。 だが、そんな自然を、切なさや懐かしさを感じる場所、夢のように美しい場所にすることができるのは、そこで出会った人間だけだろうと、氷河は思ったのである。 氷河にとって極寒のシベリアが美しい場所なのは、そこに眠っている人が美しい人だから――だった。 そこで出会った人が厳しく優しい人だったから、だったのだ。 では、瞬に、アンドロメダ島を、“夢のように”美しく懐かしい場所と感じさせることになった人間は いったい誰なのか。 それがジュネでないことは確かだった。 彼女は生きている。 生きている人間は、瞬の“夢”にも“懐かしいもの”にもなることはできない。 ではいったい誰が――と考え始めた氷河は、やがて ある一つの可能性に思い至った。 ごく自然に、あるいは ひどく不自然に、『アンドロメダ島には、瞬にとって特別な人間がいたのではないか』という考えが、氷河の中に生まれてきたのである。 同じような境遇の中で支え合い励まし合っていた仲間たちからも、ただ一人の肉親からも 引き離され、泣き虫の瞬が無慈悲に送り込まれた地獄の島。 そこで瞬が生き延び、あまつさえ聖闘士にふさわしい力を身に備えるようになるには、誰かの支えが必要だったはず。 瞬の孤独を癒し、瞬を力付ける何かが必要だったはずなのだ。 そして、おそらく アンドロメダ島には、それらのものを瞬に与えた人物がいた。 氷河には知り得ない、アンドロメダ島での瞬の6年間。 その6年の間に、瞬は、地獄の島で、兄や幼馴染みたちの代わりに なり得る誰かに出会った。 氷河の知らない何者かを瞬は慕い、頼り、信頼を育み、もしかしたら ほのかな恋心をすら抱くようになっていたのかもしれない。 それはいったい誰で、どういう人物だったのか。 氷河にわかるのはただ、『おそらくその人物は既にこの世にはいないのだろう』ということだけで、それゆえ氷河は、その人物について瞬に尋ねることができなかったのである。 瞬の心を それは、もし瞬を問い質し、瞬がその人物のために涙を流す様を見る羽目になってしまったりしたら、自分は到底 心穏やかではいられないだろうと思ったからだったろう――多分。 瞬の記憶の中のアンドロメダ島。 切なく、懐かしく、夢のように美しい地獄の島。 その島に瞬と共に在ることのできなかった自分自身を、氷河は一刹那 深く哀れんだ。 |