それからだった。 人混みを嫌い、他人に接することが嫌いで、出不精の気すらあった氷河が、やたらと瞬を連れて遠出をするようになったのは。 「瞬、星を見に行こう」 そう言って 氷河が瞬を連れていくのは、彼の修行地であるシベリアであったり、美しい星空で有名なニュージーランドのテカポ湖であったり、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を書くきっかけになった旅行の終着点オホーツク海の浜であったりした。 「瞬、海を見に行こう」 そう言って 氷河が瞬を連れていくのは、地中海の島々であったり、白い砂浜がどこまでも続くオーストラリアのパースであったり、サンゴ洲島として有名な与論島であったりした。 そうして、氷河は瞬に尋ねるのだ。 「アンドロメダ島で見た星と、どっちが綺麗だ?」 「アンドロメダ島から見た海と、どっちが綺麗だ?」 「おまえはどっちの星が好きだ?」 「おまえはどっちの海が好きだ?」 ――と。 「どっちも綺麗だし、どっちも好きだよ」 最初のうち、瞬は、そう言って曖昧に笑い、確答を避けていた。 否、瞬は、確答を避けていたのではなく、本当にどちらかを選ぶことができなかっただけだった。 アンドロメダ島で見た星や海。 氷河と共に見る星と海。 それらは、瞬にとって優劣をつけられるようなものではなかったし、また、優劣をつける必要もないものだと、瞬は思っていたのである。 なぜ氷河がそんなふうにアンドロメダ島にこだわるのかということは気になったし、その理由がわからないことは、瞬の気持ちを落ち着かなくさせはしたのだが。 それでも 戦いとは無関係に氷河が外に出るようになったのはよいことだろうと思うから、瞬は氷河が誘う場所には必ず二つ返事でついていったし、氷河のチョイスはいつも瞬の好みに合い、瞬自身 氷河との旅行を楽しんでもいたのである。 それは、聖闘士になることを義務付けられ、すべての時間がそのためだけにあった幼い頃には望むべくもなかった、贅沢で優雅な遊戯であり娯楽でもあったから。 それが気楽に楽しめる遊戯や娯楽と言えなくなってきたのは、氷河と瞬がフィンランドで見事な秋の星空を堪能し、城戸邸に帰ってきてから1週間ほどが経った ある日のことだった。 ラウンジに入ってきた星矢と紫龍を、瞬は盛大な長嘆息で出迎えることになり、その出迎えは、瞬の二人の仲間たちに奇異の念を抱かせることになったらしい。 事実、瞬が洩らした溜め息は、もの思う秋が運んできた 意味なく感傷的な溜め息などではなく、ある具体的な悩み事によって生じた溜め息だったので、星矢たちの疑念は至極当然のものだったろう。 「どうしたんだ」 紫龍に尋ねると、瞬はそれにも まず長い溜め息を返すことになった。 それから、困ったように眉根を寄せ、瞬は 秋に由来しない盛大な溜め息の訳を、仲間たちに語り始めたのである。 「氷河が、ガラパゴス諸島に行こうって言い出したの」 「ガラパゴス?」 瞬の返事を聞いた紫龍が、奇妙に顔を歪めることになったのは、瞬が口にした地名が 今ひとつハネムーン向きではない場所だったからだったろう。 瞬と赴く旅の行く先として、氷河がこれまで選んできた場所は、シベリアを除けば、そのほぼすべてがハネムーンのツアーが組まれているような場所ばかりだった。 ロマンティックな景観でムードを盛り上げ、それによって得られる種々雑多なことが、氷河の頻繁な旅行計画の目的と、紫龍たちは考えていたに違いない。 そう、瞬は察した。 瞬自身がそうなのだろうと思っていたのだから、紫龍たちの推察は さほど的外れなものでもない。 しかし、ガラパゴスは、これまでの氷河のチョイスとは 大いに様相の異なる場所。 ガラパゴスゾウガメやガラパゴスリクイグアナが恋人たちのロマンティックなムードを盛り上げる材料になるとは、紫龍たちにも思えなかっただろうし、その点に関しては、瞬も同感だったのである。 「氷河の奴は進化論の研究でも始める気になったのか……?」 独り言めいた紫龍の呟きに、瞬が力なく首を横に振る。 氷河が学術的興味に衝き動かされてガラパゴスに行くと言い出したのであれば、瞬とて、氷河の向学心に付き合い協力することにはやぶさかではなかった。 もちろん、氷河の向学心を妨げることなど思いもよらない。 氷河のガラパゴス旅行計画を、こんな溜め息で受けとめることもしなかっただろう。 多少 分野が聖闘士向きではないとはいえ、人が向学心を持つことは、害のあることでもなければ、後ろ向きなことでもない。 なにより、氷河のガラパゴス旅行計画が彼の向学心や学術的興味によるものなのであれば、それは瞬が責任を感じる必要のないことである。 瞬の溜め息は、氷河のガラパゴス旅行計画がアンドロメダ座の聖闘士のせいだと思わないわけにはいかない状況に 瞬が置かれていたから――だったのだ。 「多分……僕が、氷河に、アンドロメダ島には綺麗な鳥がいたっていう話をしたせいだと思う」 「鳥?」 「ガラパゴスには鳥類も固有種が多いから、僕が見たことのない綺麗な鳥もいるはずだって、氷河は言ってた。最初は、ニューギニアの極楽鳥かキューバのハチドリを見に行こうって言ってたんだけど、それもありきたりだとか言いだして、結局ガラパゴス――」 「それはまた……」 白鳥座の聖闘士に『日本に渡ってくる前の白鳥を見に行こう』とシベリアに誘われたのであれば、瞬も違和感や奇異の念を抱くことはなかっただろう。 しかし、白鳥とガラパゴスフィンチでは、同じ鳥類にしても、あまりに趣が違いすぎるのだ。 「氷河、この頃おかしいんだよ。いろんなところに連れていってくれるのは、僕も嬉しいし、楽しいんだけど、行った先で必ず、『ここはアンドロメダ島より綺麗か』『アンドロメダ島に比べてどうだ』って、僕に訊くの。それ訊くために、僕をあちこちに連れていってるみたい。氷河自身は旅先の景色になんか、まるで興味がないみたいなんだよね。景色どころか、食べ物にも文化にも歴史にも名産品みたいなものにも完全に無関心なんだ」 瞬のそのぼやきに、過敏に反応したのは星矢だった。 彼は、突然、自分が活火山だったことを思い出したヴェスヴィオ火山のように、憤懣やる方なしといった様子でラウンジに大声を響かせ始めたのである。 「食べ物にも名産品にも無関心? だからか! こないだ北海道行った時、シャケとイクラとカニとウニ買ってきてくれって言っといたのに、あいつが六花亭のバターサンドも買ってきてくれなかったのは!」 何のために北海道くんだりまで行ったのかと、手ぶらで帰ってきた氷河にぷんぷん腹を立てた時の あるいは、その時の失望と不快感を。 氷河が瞬を連れていったのは、秋の北海道だった。 それでなくても全国的に実りの季節。 中でも、海産物、果物、乳製品を問わず すべてが美味しい北海道。 星矢は、当然のごとく、氷河の土産に大いなる期待を抱いていた。 だというのに、そこに出掛けていった二人が持って帰ったのは『星がすごく綺麗だった』という土産話のみ。 その土産話にしても、持ち帰ったのは瞬の方で、氷河にいたっては『ただいま』の一言さえなかった。 楽しみにしていた分、星矢の落胆は大きかったのだ。 「あいつ、いったい何のために あっち行ったり、こっち行ったりしてんだよ! 白い恋人も買ってこねーで!」 食べ損なった北海道の秋の味覚に腹を立てる星矢に、本音を言えば、紫龍はあまり同情してはいなかった。 問題は、瞬ではなく氷河の方に土産を頼んでしまった星矢の迂闊にあると、彼は考えていたのである。 とはいえ、星矢の疑念は、紫龍の疑念でもあった。 『氷河は、いったい何のために、今日は南、明日は北と、旅を繰り返しているのか』ということは。 「俺はてっきり――氷河は、おまえをムードのある場所に連れていって、おまえを喜ばせ、その気にさせて、まあ、その何だ……色々楽しみたいという、いじましくも健気な魂胆でいるのだとばかり思っていたんだが……。そうではなくて、氷河はアンドロメダ島に張り合っているのか?」 合点のいかぬ顔で尋ねてきた紫龍に、瞬は――瞬もまた――合点のいかない顔で頷き返すことになった。 「うん……」 瞬には、そうとしか思えなかったのだ。 氷河はアンドロメダ島に張り合っているのだとしか。 「少なくとも氷河は、僕が綺麗な景色に歓声あげても、喜んでくれないよ。それどころか、僕が『ここもアンドロメダ島と同じくらい綺麗だ』とか、そんなこと言うと、かえって不機嫌になっちゃうんだ」 「不機嫌になって、夜には やることもやんねーのかよ?」 「え?」 それなりに深刻な話をしているつもりだった瞬の上に、突然 とんでもない質問が降ってくる。 割り込んできた星矢の質問の思いがけなさに虚を衝かれて、瞬は、問われたことに つい正直に答えてしまった。 「それは……するけど……」 その答えを聞いた途端、星矢が忌々しげに舌打ちをする。 反射的に口にしてしまった“正直な答え”に恥じらう時間も、瞬には与えられなかった。 「なら、やっぱり 目的はそれなんじゃん。だから、あの野郎は、俺のイクラのことも忘れちまうんだ!」 「氷河の目的は……でも、違う――と思う」 瞬が氷河と北海道に行ったのは、もう半月も前のことである。 それを、星矢は今でも根に持ち続けている。 おかげで瞬は、食べ物の恨みの恐ろしさは身にしみて よくわかったし、『以後 気をつけよう』と自戒もしたが、しかし、今 問題なのは、星矢が食べるはずだったイクラ丼ではないのだ。 「どこがどう違うんだよ」 「それは……詳しくは言えないけど、とにかく氷河は、僕を楽しませようとか、僕を喜ばせようとか、そんなこと考えて、僕をいろんなとこに連れてってくれるんじゃないの」 氷河には別の目的がある。 瞬は、そう思わないわけにはいかなかった。 旅先の開放感や 美しくロマンティックな風景に陶然として、瞬が(いつも以上に)その気になっても、氷河は機嫌が悪いのだ。 そして、その不機嫌をぶつけるように、瞬に挑みかかってくる。 そんな氷河の言動は、考えれば考えるほど、アンドロメダ島に張り合っているせい――としか思えない。 だが、彼がアンドロメダ島に張り合って、それが何になるというのか。 瞬には、氷河の気持ちがまるでわからなかったのである。 一度、嘘でも『ここはアンドロメダ島より綺麗だ』と言えば、氷河はそれで満足するのかもしれなと、思わないでもない。 しかし、瞬は、氷河に嘘はつきたくなかった。 氷河が連れていってくれる場所は、確かにどこも美しい。 だが、それらの場所は、アンドロメダ島と同程度に美しいことはあっても、決してアンドロメダ島の美しさを凌駕することはないのだ。 瞬にとってアンドロメダ島は、それほど特別な場所だった。 「ちょっと探りを入れてみるか」 紫龍が、独り言のように低く呟く。 氷河がアンドロメダ島に張り合おうとする理由がわかっても、氷河の期待に添うことのできない自分を、瞬は知っていた。 紫龍に手間をとらせるだけとらせて 結局 事態が好転しない可能性に思いを至らせて、瞬は力なく瞼を伏せることになったのである。 |