「氷河、おまえ、瞬をガラパゴスに連れていく計画を立てているそうだが……。おまえは、ガラパゴスがどこにあるのかを知っていて、そんな計画を立てているのか? ガラパゴスはエクアドル領だぞ。エクアドルとはスペイン語で『赤道』。おまえのホームグラウンドのシベリアや、気候温暖な日本国内やギリシャとはわけが違うんだ。そんなところに のこのこ出掛けていったら、おまえは十中八九 暑さにやられて ぶっ倒れて、瞬のエスコートどころではなくなるだろう。そして、瞬に面倒をかけるだけだ。ガラパゴス行きはやめることだな。無謀だ」

『探りを入れてみる』と言っていた紫龍が、ラウンジにやってきた氷河を掴まえて始めた行為は、“氷河の真意を探ること”ではなく、正しく“諌止”だった。
助言や忠告ですらなく、命令もしくは侮辱だった。
同輩に頭ごなしに自分の計画の中止を命じられた氷河が、むっとしたように紫龍を睥睨する。

「馬鹿にするな! 多少の暑さくらい、俺は――」
氷河の反駁は、しかし、
「ハーゲンとの戦いの時のこと、忘れたとは言わせねーぜ。どこぞの火山の地下の暑さに負けて、バトル始める前から瀕死の白鳥状態になってたのはどこの誰だったよ?」
――という、星矢の揶揄によって中断させられることになった。
それを言われると返す言葉がない――というのが、氷河の本音だったろう。
一度きつく唇を噛み、二人の仲間を睨みつけた氷河は、だが、すぐに怒らせていた肩から力を抜いてしまった。

「おまえが そんな無謀な計画を立てることになったのは自分のせいなんじゃないかと、瞬が気に病んでいたぞ」
「……」
「そうなのか? 瞬は、『氷河はまるでアンドロメダ島に張り合っているようだ』とも言っていたが」
「……」

氷河は、自分が何をしているのかを、本当は仲間たちに知らせたくなかったのである。
渋々ながらでも 彼が口を開いたのは、『瞬が気に病んでいた』という事実をもって、紫龍が彼を追及してきたからだった。
そして、それでも彼がガラパゴス行きを断行するつもりでいるから、だった。
そのことさえなければ、氷河は決して口を割ったりなどしなかったのだ。
それは、彼が 瞬に関することで ある人物に後れをとっているということを、第三者の前で認めることであり、へたをすれば愚痴や泣き言にもなりかねないことだったから。
氷河には――張り合っても詮ない島に張り合うような真似をする氷河にも――プライドというものはあったのである。一応、それなりに。

「瞬は……アンドロメダ島に好きな奴がいたんだと思う。そして、そいつはもう生きていない――」
「なに?」
「だから、あそこは、地獄の島のはずなのに、瞬にとって懐かしい島になり得たんだろう。俺は、そいつのことを、瞬に忘れさせたい。アンドロメダ島の美しい景観が そいつに結びついて瞬の記憶に根を張っているというのなら、俺は、アンドロメダ島より美しい場所に瞬を連れていって、瞬のアンドロメダ島での記憶をすべて、俺との思い出で塗り替えてしまいたいんだ」
「……」

氷河のその告白は、紫龍たちには寝耳に水のことだった。
同時に ありえないことでもあった。
そんなことがあるはずがないではないか。
あの泣き虫の瞬が聖闘士になって帰ってきたのである。
当然のことながら、瞬は、アンドロメダ島で修行に明け暮れる毎日を過ごしていたはずなのだ。
そして、瞬には、その修行は もともと喧嘩早かったり乱暴だった子供たちの2倍も3倍もつらいものだったに違いない――と、星矢や紫龍は察していた。
そんな瞬に、惚れたはれたに類することを考える余裕があったはずがない――というのが、氷河以外の瞬の仲間たちの考えだったのである。

が、冷静になって考えてみれば、それもまた根拠のない勝手な思い込みである。
生き延びることに精一杯の人間には恋もできない――ということはないだろう。
『衣食足りて礼節を知る』と俗に言うが、生活面で苦心している人間が必ずしも礼儀を知らないということはないだろうし、命の維持で手一杯の人間の誰もが 高次の精神活動を営めないということもない。
現に、人類の歴史上、貧しい生活の中で素晴らしい芸術作品を創りあげた人間はいくらでもいるのだ。
聖闘士になるための修行が つらく厳しいものだったからといって、瞬の心から 人を好きになる働きが失われていたと考えるのは早計。
むしろ、そういう状況だったからこそ、癒しや慰めを欲するということは大いにあり得ることである。
氷河の推察を 恋する男の荒唐無稽な決めつけと断じることは、誰にもできない。
星矢たちが、アンドロメダ島に張り合おうとする氷河の行為を無意味 無謀 非常識と感じることは、至極当然のことであるにしても。

自分のしていることが徒労に終わるかもしれないという思いは、氷河の中にもあったらしい。
氷河も、そこまで真っ当な判断力を失ってはいないようだった。
「本当は、そこがアンドロメダ島より綺麗な場所かどうかということは問題じゃないんだろうと思う。問題は、その場所で 瞬の隣りにいる者が誰なのかということなんだ。俺と見ている場所の方が綺麗だと、瞬が一言言ってくれさえすれば、それで俺は満足できるんだと思う。だが、瞬はそう言ってくれない。どうしても言ってくれないから、俺はまだ そいつに勝てていないんだろう……」
氷河は、呟くようにそう言った。
そうしてから、悔しそうに奥歯を噛みしめる。

「死んだ人間っていうのは卑怯だ。生きていれば、欠点や欠陥をさらして瞬を幻滅させることもあるだろうに、死んでしまった人間は、瞬の中で 美しかったところばかりが増幅していく」
『俺のマーマがそうであるように』とは、さすがに氷河は口にしなかった。
が、口にしないからこそ、死者の思い出とはそういうものだということを 氷河が身にしみて知っている事実が、星矢たちには感じとることができたのである。

「だから、そいつに勝つ日まで、おまえの観光地巡りは続くのかよ」
尋ねる星矢の声には同情の響きが混じっていた。
勝てない相手だと、氷河は承知している。
死んでしまった人間は、懐かしく美しいばかり。
生きている人間は、死んでしまった人間に決して勝つことはできないのだ。
瞬の思い出の中のその人物に氷河が(本当に)勝つことがあったとしたら、それは氷河が死んだ時だけだろう。
それがわかっているのに――氷河は会ったこともない恋敵に、あくまでも どこまでも挑み続けるつもりでいるらしい。
氷河は、固い決意をたたえた表情で、仲間たちに頷いた。

「たとえ熱中症でぶっ倒れても、脱水症状に陥っても――俺は、アマゾンの奥地にでもサハラ砂漠にでも行ってやるぞ!」
その決意は立派だが 周りの迷惑も考えてほしい――と、星矢たちは思ったのである。
氷河に倒れられて苦労することになるのは、倒れた氷河自身ではなく、氷河に付き合わされている瞬の方なのだ。

「本物のサソリは、どこぞの黄金聖闘士の ねちねちした必殺技より危険だと思うぞ」
星矢の制止が 彼にしては控えめなものになったのは、恋する男の健気な愚行を 愚行と断じるのは自分の仕事ではないと、彼が思っていたからだった。
彼は、その仕事をすべき人間が この場にいることを知っていたのだ。

「……で、事実はどうなんだ、瞬」
紫龍に促されて、その人物がカーテンの陰から姿を現わす。
その姿を認めて きまりの悪そうな顔になった氷河は、すぐに その視線を脇に逸らすことになった。






【next】