「あなたはどうして、そんなに若くて美しくて、お金も領地もあるのに――なのに、お金で妻の代わりを買おうなんてことを考えたんです。多額の持参金を持って、あなたの許に押しかけたがっている貴族の令嬢はいくらでもいるでしょう。そういうご令嬢方をことごとく退けて、妻の代替品を買おうだなんて……」
「ふん」
そういったことを人に問われ説明を求められることに、彼は慣れているようだった。
うんざりした口調の答えが返ってくる。

「子供を産まない妻ならもらってもいいと公言している。誰もその保証を俺に提示できないから、独り身でいるだけだ」
「どうして? 公爵家には跡継ぎが必要でしょう? この公爵家を断絶させるわけにはいかないでしょう?」
「俺の血を、俺の代で終わらせるためだ。兄から聞いていないのか? 俺の母は狂人だった。その血が俺の中にも流れている。いつか俺も母のように狂って死ぬことになるだろう。狂人の血を受け継ぐ子など作ってどうなるというんだ」
「……」

瞬は、公爵の大体の事情は兄に聞いていた。
ただ瞬は、兄の言ったことを あまり信じていなかったのである。
この公爵家は、国王以上の財力を持つ大貴族。
王家の血も入っている。
現に、公爵の生母は、かなりの傍系だが王室の血を引く内親王の一人だった。
ごく稀に王室に美形が生まれるのは、公爵の母に引き継がれている その血のせいと、瞬の兄は言っていた。
好意を抱いているエスメラルダ姫の美しさを弟に語るために、兄はそんなことを言ったのだと思った瞬は、兄の語る話の公爵に関する部分は話半分で聞いていたのである。

10年ほど前、公爵家所有の館の一つが火事になった。
館に火を放ったのは公爵の生母。
そのために彼女の夫は焼死し、彼女もまた岬の上から身を投げて死んでしまったらしい。
それも、幼かった公爵の目の前で。
優しく美しかった母の死に様が、まだ幼かった公爵の目には狂気のものに見えたのだろう。
両親を一度に亡くした公爵の受けた衝撃は尋常のものではなく、彼は、自分もいつか母のように狂い死ぬに違いないと信じ込んでしまったのだ――と、瞬の兄は言っていた。

『おまえ、あの大馬鹿野郎のところに行って、ちょっと奴を治療してこい』と兄に言われて、瞬はこの城に来たのである。
『もちろん、ただ働きはするなよ』と念を押されもしたが、瞬の兄が弟をこの城に派遣することを決めたのには、二つの目的があるようだった。
すなわち、公爵の心の治療と、そうすることによって得られる多額の謝礼金。
だから、瞬は、見知らぬ他人の城を訪ねる気にもなったのである。
少なくとも、瞬は、兄に、公爵に身売りをしろと言われてはいなかったのだ。
もっとも、瞬の兄は、たとえ飢えて死にかけていても、そんなことを弟に命じるような人間ではなかったが。

『どんな手を使ってもいいから、奴の城に居坐れ。それこそ、仮病を使って立ち上がれない振りをしてもいい。たとえ不本意でも おまえの身柄が自分の許にあれば、約束の金を出さなければならないと考える奴だ。クールを気取っているくせに、馬鹿みたいに義理堅いところもある。今年を乗り切れば、我が家は何とかなるんだ』というのが、兄の言。
瞬の兄の中には既に、彼の領地と領民を取り戻すための算段が整いつつあった。

瞬の兄はリベラルな考えを持ち、身分に囚われることのない寛大な領主だった。
領民たちも皆、身分をかさにきて威張ることをせず、貴族らしい我儘を言うこともない彼等の領主を 事のほか慕っていた。
が、彼等の新しい領主は そんな領民たちを力で支配しようとし、瞬の兄の寛大な統治にすっかり慣れてしまっていた領民たちは、その扱いが大いに気に入らなかったらしい。
新しい領主の許で、彼等は、広大な畑に実りがあるのに、その作物を収穫しないことで、その不満を表しようとした。
新領主が武力で領民を動かそうとした時には、彼等は麦畑に火を放とうとさえしたという話だった。

新領主と領民たちの間には海があるため、その統治は難しい。
それでなくても、隣国の貴族たちは農民を統治した経験を有していないのだ。
せっかく手に入れた領地の領民が 反抗的な獅子身中の虫になりかけている。
その事態を憂えた隣国の王は、この国の王の許可さえ得られれば、いったん譲り受けた土地を瞬の兄に返還したいと申し出てきたのだ。
もちろん、返還の代価は要求している。
瞬の兄が持っている 荒れた土地でも実る葡萄の種と麦の種、及び、その栽培の指導者の派遣。
それらを手に入れれば、地味ちみの肥えていない島国の荒地にも作物が実ることになる。
隣国の王は、反抗的な他国の農民を我が意に従えることよりも、気質のわかっている自国民を農民に育てることを望んでいるようだった。

愚王にとっても、割譲を余儀なくされた領地が返還されることは悪い話ではない。
だから、今年の納税さえ無事に済めば、時を置かずして すべては元に戻るだろう――というのが、瞬の兄の計画にして希望。
それも、かなり実現性の高い希望である。
もし それが叶わなければ、これほどの忠心を示してくれた領民のためにも、俺は愚王に対して反乱を起こさなければならなくなるだろうと言われて、瞬は公爵の許にやってきたのだ。
この国の平和を守り、一年 身を粉にして働き育ててきた実りを旧主のために諦めようとした領民たちの心に報いたいと願って。

そのために、瞬は どうにかして この城に留まらなければならなかった。
仮病を使っても、心にもない嘘をついてでも。
瞬は、自分のために策を巡らせたり、他人に無理を強いることはできないたちの少年だったが、誰かのため――それも、多くの人々のため――となれば、大抵のことはできてしまう人間だった。

「今夜だけ泊めてください。ひ……一晩 考えさせて」
さっさと厄介払いをしたがっているのが あからさまな公爵に、瞬がそう言ってしまえたのも、瞬が『この国に争乱を招かないため』という大義名分を手にしていたからこそ。
でなければ、瞬は、見るからに不機嫌そうな様子をしている人間に食い下がることなど、到底できはしなかっただろう。
とにかく、どんな手を用いてでも、この城に留まる。
明日になったら、瞬は、体調を崩した振りをして滞在の延期を公爵に申し出てみるつもりだった。
そうすることさえできれば、兄に言わせれば“クールを気取っているくせに、馬鹿みたいに義理堅いところのある”公爵は、伯爵家に金を提供してくれるはずだったから。

そう考えて、言い慣れていない嘘を口にした瞬の前で、公爵が軽く眉をひそめる。
それまでの ふざけた態度を消し去って、彼は真顔で瞬にたずねてきた。
「伯爵家はそんなに窮しているのか? あの男が本気で実弟に身売りをさせなければならないほどに?」
「え……」

彼は、どうやら、本気で伯爵家が置かれた状況を案じてくれているようだった。
先程までの ふざけた態度は、瞬の兄には別の回避策があるものと察していたからだったらしい。
彼の心配顔に、瞬は少しく――否、非常に――気が咎めてしまったのである。
「窮してはいます……が、あの……絶対に乗り切るつもりではいるんです。あの土地は、兄と領民と――みんなで育てた土地なんです。みんなで一緒に育て見守ってきた畑や農園。兄が奪還しに来てくれると信じて、領民たちは新しい領主に抵抗しているとか。絶対に見捨てることはできないの」

公爵は、瞬の兄ほど領地経営に熱心ではなく、領民たちとの間に信頼関係と呼べるようなものを育んではいなかったのかもしれない。
土地にも財にも執着心を持っていない彼は、それらの仕事をすべて 人任せにしているのだろう。
領民のために 必死になれる瞬や瞬の兄を、彼は、もしかしたら羨んだのかもしれなかった――瞬には そう見えた。

瞬のすがるような眼差しを受けとめた公爵が、ついと その視線を横に逸らす。
脇を向いたまま、彼は、まるで言い訳を言うように、
「俺と寝る決心をするためだというのなら、二晩でも三晩でも泊まっていていいが」
と、瞬に滞在の許可を与えてくれた。

「あ……ありがとうございます、公爵!」
笑顔を浮かべていい場面だったのかどうか――。
公爵の許しを得て安堵し、つい笑顔を浮かべてしまった瞬に、当の公爵は少々 戸惑ったようだった。
彼は、最初に出会った時と同じように不愉快そうな声音を作って、
「公爵ではなく、氷河と呼べ」
と、瞬に命じてきた。






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