瞬に与えられた部屋は、清潔で広く心地良い部屋だった。
公爵は――もとい、氷河は――瞬を一介の求職者ではなく、伯爵家からの客人として遇するつもりでいてくれるらしかった。

翌日には、仮病を装い、ベッドから起き上がれない振りをするつもりだった瞬が、その計画の遂行を諦めなければならなくなったのは、公爵が瞬につけてくれた小間使い――と言っても、かなり高齢の老女だったが――のせいだった。
氷河の生母の輿入れに一緒についてきたという その老女に、
「この城に お客様を迎えるなんて、何年ぶりのことでしょう。しかも、こんなに お綺麗で可愛らしいお客様。嬉しいこと。お世話の行き届かないことがあったら、この婆を叱ってやってくださいね」
と、嬉しそうに言われてしまったせい。
もし具合いの悪い振りなどしたら、彼女はそれすらも自分の世話の行き届かないせいと思い込んでしまいそうで、瞬は仮病を装うことができなくなってしまったのである。


翌朝、結局 いつもと同じ時刻にベッドを出た瞬は、二階の部屋のベランダから、昨日は見る余裕もなかった公爵家の庭を、朝の光の中で望むことになった。
城の敷地の向こうには、公爵家の広い領地が広がっている。
麦の畑は金色に輝き、果樹園には、実った果樹の取り入れのために既に幾人かの農民たちが働きに出ているようだった。
領主の意欲の無さに反して、彼の領民たちは いたく勤勉らしい。
氷河の財への執着心の無さから察するに、彼は税の取り立てにも熱心ではないのだろう。
それが、かえって功を奏しているようだった。

領地の豊かな実りと美しさに比べると、城内の庭はあまりにみすぼらしく 手入れが行き届いていない。
瞬が与えられた部屋のベランダのすぐ下にある花園も、咲いている花は一輪もなく、そこにあるほとんどの植物は枯れていた。
老女に訊くと、この部屋は、生前 氷河の生母が使っていた部屋だったらしい。
「客室は他に幾らでもあるんですが、使う者がいないと、どれほど掃除をしても 部屋というものは死んでしまうんですよ。このお部屋は、時折公爵様がおいでになるので、かろうじて客人をお泊めすることもできます」
彼女が仕えていた女主人を思い出したのか、老女はそう言うと、細く長い溜め息をついた。

「じゃあ、あの花園は氷河のお母様のお気に入りだったのかな?」
「ええ。ご自身も花のように美しい方でしたので、そのせいというのでもないでしょうが、お花がお好きな方で……。まだ小さかった公爵様と、毎朝こちらのお庭を散策なさっておいででしたよ」
「へえ……」

まだ小さかった頃の公爵。
現在の彼の美貌を思えば、彼が並外れて美しく可愛らしい少年であったことは想像に難くない。
その可愛らしい少年が、母と共に花の中を歩む様を脳裏に思い描き、瞬は、自分が思い描いた図に目を細めた。
今は朝の陽光さえ寂しいものに感じられるほど枯れ果てている この庭も、以前は明るく暖かく 光輝く幸せな場所だったのだ。
愛し愛されていると信じて慕っていた母だったからこそ、幼い頃の公爵に、尋常でない母の死に様は衝撃的なものであったに違いない。

瞬は、氷河の母の気に入りだったという花園の花たちが本当に死んでしまっているのかが気になって、無駄に思えるほど幅のある階段を下り、ここ10年はパーティが催されたこともないのだろう広いホールを突っ切って、庭に出た。
荒れるに任せているらしい花園には、薔薇の垣根があったことをうかがわせる残骸が無残な様子で残っていた。
雑草の勢いが強くて、花をつける植物は、芽を出すことはできても ほとんど成長することができないのだろう。
花をつけ損ねている低木や宿根草の類も多い。
それらの花が死にかけてはいるが死んではいないことを確かめて、瞬はほっと安堵の息をついた。
この庭を蘇らせることは可能。
ならば、不幸で不運な公爵の傷付いた心もきっと――そう考えて顔をあげ、振り返ると、そこに氷河がいた。
「あ……」

『身売りをする決意はついたのか』と問われることを、瞬はまず恐れた。
まだ 上手い言い逃れを用意していなかったから。
次に、『さっさと この城を出ていけ』と命じられることを、瞬は恐れた。
確かな足取りで庭に出てきた姿を見られたあとでは、仮病を装うこともできないから。
だが、氷河が口にした言葉は、瞬が恐れた二つの言葉のどちらでもなかった。
無論、『おはよう』でも『目覚めはどうだ』でもない。
彼は、朝の挨拶の代わりに、
「世話をする者がいなくなってから、花が咲かなくなってしまった」
という、寂しい呟きを呟いた。
氷河の突然の登場と、その呟きに戸惑いを覚え、瞬は少なからず慌てることになってのである。
彼に何ごとかを言わなくてはという焦慮が、瞬に、思慮に欠けた言葉を言わせた。

「どなたが世話をしていたんですか」
「マ――母が……」
そう答えたきり、口をつぐんでしまった氷河の姿に、瞬の胸は切ない痛みを覚えることになってしまったのである。
己れの迂闊を猛省しながら、それでも瞬は残酷な言葉を続けた。
以前は、明るく暖かく光輝いていた花園。
その中を歩む美しい母子。
忘れたくても忘れられない大切な思い出なら、たとえ それがどれほど つらいものであっても、取り戻してしまった方がいいではないか。
瞬は、そう思った。

「ここは、土もいいし、水捌けもいいんです。でも、花畑にはない方がいい草が幅をきかせているし、切った方がいい枝がある低木もあるし、周囲の樹木も伸び放題。これじゃあ日が当たらないし、風通しも悪すぎます。でも、腕のいい庭師を雇えば、この庭はちゃんと生き返りますよ」
「そうすれば、以前のように花が咲くようになるのか」
「ええ」
瞬の提案に、氷河の心が揺れなかったわけではないようだった。
迷ったあげく、だが、彼が瞬に返してきた答えは、
「わざわざ庭師を雇う必要などない。こんな庭、どうなってもいい」
というもの。

瞬には、それは氷河の本意ではないように感じられた。
もし本意だったとしても、だから、どうだというのだ。
この庭を蘇らせることは彼のためになる――という確信の前で。
瞬は、氷河の青い瞳を見上げ、見詰め、彼のために その我儘を口にした。
「僕をあなたの形だけの妻として雇ってください。僕は、ドレスを着て宮廷に出ることも、あなたとベッドを共にすることもできませんが――」
「それでは妻の代わりは務まらない」
「あなたの妻の代わりはできませんけど、僕、この花園を蘇らせることはできると思うんです」
「……」

氷河が再び口をつぐむ。
再び迷い始めた氷河の前で、瞬は彼を挑発するための言葉を、わざと軽率な様子で吐き出した。
「わざわざ庭師を雇うまでもありません。こんな庭・・・・
期待通りに、氷河がむっとした顔になる。
やはり この庭は、彼にとっては『こんな庭』ではないのだ。
「そんな大口を叩いて、もし蘇らせることができなかったらどうする。おまえが俺の家の税金を代わりに払ってくれるとでもいうのか」

売り言葉に買い言葉であったにしても、そんな無理難題をふっかけずにいられないほど、彼はこの庭を愛している――彼の母を愛しているのだ。
その事実を確かめることができたのは収穫だったが、氷河が口にした無理難題が難題であることに変わりはない。
瞬は、氷河に、代わりの条件を提示しなければならなくなった。
そして、今の瞬が他人に提供できるものというと、それは我が身ひとつしかなかったのである。

「も……もし、僕がこの花園を蘇らせることができなかったら、その時には、あなたと一夜を共にします」
そんなことには決してならない。
なるはずがないと確信できているのに 声が震えてしまうのは、その言葉の内容が妙になまなましく、そんな言葉を口にすること自体が羞恥を誘う行為だからに違いない。
瞬は、自分自身に 必死になって そう説明したのである。
そんな羞恥を誘う言葉を口にすることを余儀なくされたせいで 朱の色に染まってしまった頬を隠すために、瞬は顔を伏せた。
瞬のその様子を認め、愛する母を失った不幸な公爵が、あろうことか瞬の前で盛大に吹き出す。

「いいだろう。おもしろい賭けになりそうだ」
揶揄するように冷笑しながら、氷河が瞬の提示した条件を呑む。
彼は、その賭けを冗談で済ませるつもりはないらしく、その日の昼食の前には、瞬を彼の部屋に呼びつけて、
「おまえの兄に金を送った。いいか、約束を果たせなかったら、本当に ねやで一晩 俺に奉仕するんだぞ」
と、瞬に念を押してきた。

「……はい」
そんなことにはならない。
そして、兄は窮地を脱した。
気を安んじていいはずの この場面で、瞬の心がざわざわと不穏に騒ぐのは、そこまでされても、氷河がこの賭けに本気なのか、あるいは それは彼にとって ただの戯れにすぎないのかを、瞬が量りかねていたからだった。
そのどちらであった方がいいと自分が思っているのかが、瞬自身にも わからないせいだったかもしれない。






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