瞬は手間のかかる花の世話が大好きだった。 心を込めて丹精した花は、いつも その手間と思いに応えてくれる。 少しでも手を抜くと、すぐにしょんぼりと しおれてしまう素直な様は、瞬の心を慌てさせ、反省と快い緊張をもたらしてもくれる。 手間がかかる分、美しく明るく咲いた花を見る時の喜びは何ものにも替え難い。 公爵家の城への滞在を許された瞬は、早速氷河の母の花園の手入れを始めたのである。 そんな瞬を、氷河は無関心を装いながら、その実 興味深げに見詰めていた。 瞬が手に入れた“職”は氷河の妻の代わりではなく、言ってみれば庭師の仕事である。 日々の生活は使用人待遇でいいと、瞬は氷河に言ったのだが、氷河は、 「そんなことは俺が決める。俺に指図なんかするな」 と、にべもなかった(?)。 結局瞬は、相変わらず氷河の母の部屋を使うことを許されたまま。 おかげで、瞬は、庭の手入れをしている時以外は、公爵家の優雅な客人として、彼と話をする機会を多く与えられることになったのだった。 そんなある日のことだった。 瞬が氷河に、 「氷河もお母様のようになるなんて、そんなのは氷河の勝手な思い込みです」 と、彼の病の核心に触れる言葉を口にしてしまったのは。 氷河が、妻の代わりになるものを買うなどという馬鹿げたことを言い出したのは、その思い込みのせいなのだ。 その思い込みが、瞬をこの城に運ぶことになった。 あるいは、それは“恐れ”と言っていいものだったかもしれない。 その“恐れ”を氷河の上から取り除くことができれば、彼は恋も結婚も家族を持つことさえできるようになるだろう。 人の心を蝕む原因の大半は、孤独、もしくは孤独感、あるいは孤独の予感――である。 氷河の中から、根拠のない(と瞬には思われる)“恐れ”が取り除かれれば、彼は孤独な人間でないものになることができ、彼の病は完治するのだ。 氷河と共に日々を過ごし、一見 傍若無人に、その実ひどく臆病に慎重に瞬に接してくる彼の態度を見ているうちに、瞬は、その“恐れ”を氷河の心の中から消し去ることこそが自分の務めなのだと、信じるようになってきていた。 「おまえは、母の死に様を見ていないから、気軽にそんなことを言うことができるんだ。あれを目の前で見せられたら、とてもそうは思えない。髪を振り乱し、悲しい狂人の目をして、夫を殺し、息子の目の前で命を絶つ――。正気の人間のすることじゃない。俺はあの母の子なんだ。自分に狂気の兆しが見えたら、俺はその日のうちに自分で自分の命を絶つつもりでいる。そして、その日が遠い未来にある日だとは限らない」 「だから、妻も恋人も持たないと?」 「そうだ。それは おかしな考え方か? 俺は 至って真っ当な考え方だと思っているぞ。その方が人に迷惑をかけることもないしな。妻など持ってしまったら、俺は、母と同じように伴侶を殺してしまいかねない」 涼しい顔をして、その瞳に微笑めいたものさえ浮かべて そう言う氷河に、瞬の胸は切なく痛んだのである。 「――」 それでも、氷河は誰かを愛したがっていることがわかるから、瞬の胸は痛むのだった。 氷河は人を愛し、愛されたがっている。 それが瞬にはわかった。 失われたものが多ければ多いほど、人はその隙間を埋めたいと願うようにできているのだ。 幼い頃の瞬が、そうだったように。 両親がない分、幼い頃の瞬は貪欲に 兄の愛を求め続けた――。 「人を嫌い避ける人ほど、本当は人を求めているんです。愛したい、愛されたいと、本当は――」 「俺は違う」 即答だった。 だが、本心からのものとは思えない。 もし本当に、氷河が“人”を求めず、孤独こそを求めているというのなら、そもそも彼は、こうして妻の代わりになり損ねた人間と言葉を交わしたりなどしていないはずなのだ。 瞬は、彼にとって、彼の平和な孤独を乱す障害物でしかないのだから。 「でも、目の前に優しい人や可愛い人がいたら、好意を持たずにいる方が難しいでしょう」 食い下がる瞬に、氷河はうんざりしたような顔を向けてきた。 表情と同じ調子の声で、 「人に好意を持って、それでどうなる? そんなものを持たなくても、人は生きていける」 「そうでしょうか」 「そうだ。実際、俺は、両親を失ってから一人で生きてきた」 「それで氷河は幸せでした?」 「……!」 それまでは ただ不機嫌を装っているだけだった氷河の瞳に、さっと冷たい影が差す。 自分が言ってはならぬことを言ってしまったことに、瞬はすぐに気がついた。 彼は不幸なのだ。 そして、未だ狂気を得ていない正気の彼は、その事実を自覚している。 『人は一人でも生きていられる』と強がりを言っている人間が、その強がりを指摘されることは、彼のプライドを傷付けることでもあるだろう。 瞬は、氷河に そして、瞬に傷付けられた人間は攻撃的になった。 「言い忘れていたが、俺は賭けの結果が出るのを、呑気に春まで待ったりはしないぞ。おまえが ひと月以内に あの花園に一輪の花も咲かせられなかったら、俺は即座におまえをこの城から追い出すからな!」 氷河は 掛けていた椅子から苛立たしげに立ち上がった。 そして、まるで捨て台詞のような言葉を残して、居間を出ていく。 「あ……」 そうして、瞬は、滑らかすぎる自分の舌に 臍を噛むことになってしまったのである。 『おまえは大人しすぎ、口数が少なすぎる』 と兄にはいつも言われていたし、伯爵家の使用人たちの瞬への評価も、おおむね兄のそれと似たりよったりのもの。 だが、瞬は、本質的に寡黙な人間ではなかった。 兄の前で瞬の口数が少なくなるのは、瞬が兄を敬愛しているからに他ならない。 兄を、心から尊敬し、弟に注がれる彼の愛情に、心から感謝している。 そんな人の前で、対等な口がきけるはずがないではないか。 だが、氷河は――瞬は、氷河を尊敬してはいなかった――尊敬できなかった。 彼は幼い迷子の子供のようなもので、瞬と対等どころか、瞬が教え導いてやらなければならない相手。 瞬の舌が滑らかになるのも致し方のないことだったのだ。 その、迷子の子供のような氷河――は、二人の賭けに『ひと月以内』と期限をつけてしまった数時間後にはもう、自分の言を悔やみ始めたようだった。 氷河はおそらく、最初は春まで待つつもりだったのだろう。 だというのに、弾みで――それは本当に、ただの“弾み”だったに違いない――、花が枯れて植物が冬に備え始める時期に花を咲かせろなどと、実現不可能なことを瞬に要求してしまった――。 本当は孤独を恐れている彼は、己れの軽率な言葉を悔やんでいる。 瞬にはそれがわかった。 しかし、一度 口にしてしまった言葉を なかったものにもできない。 だから、彼は苛立っている。 瞬は、彼の苛立ちを鎮めてやりたかったのである。 だが、まさか、瞬の方から、 「『ひと月』を『半年後』に変更してあげてもいいんですよ」 と言ってやるわけにはいかない。 そんなことを瞬に言われてしまったら、氷河は、瞬の前で勝ち誇ってみせないわけにはいかなくなるだろう。 結局 瞬は、氷河のために沈黙を守るしかなかった。 |