「兄の許に帰る用意はできたか」
賭けを始めて、ひと月と10日後。
居丈高に、だが不安そうに尋ねてきた氷河に、瞬はつい笑ってしまいそうになったのである。
約束の ひと月が過ぎた頃から、氷河がそう尋ねることを懸命に先延ばししている様子を見ては、瞬は顔に笑みを浮かべてしまわないようにするために苦心し続けていたのだ。
氷河に問われた瞬は、彼の前で僅かに首を傾けた。
何も答えずにいたら、素直なのか素直でないのか わからない迷子の子供は、己れの勝利を確信して、『あの約束を果たせ』と迫ってくるのだろうか。
あるいは、『伯爵家に融通してやった金を返せ』と言い出すのだろうか。
瞬は、それが知りたかった。

しかし、氷河は そのどちらの言葉も口にしなかった。
代わりに、彼は、
「本当に……俺を置いて、兄の許に帰るつもりなのか……?」
と、飼い主に見捨てられかけた小犬のような目をして、瞬に尋ねてきたのである。
氷河は、自分が何を言ってるのかわかっているのだろうか。
瞬は、耐え切れなくなって、つい その顔にはっきりした笑みを浮かべてしまったのである。
そして、瞬は、瞬の沈黙に怯えている氷河の手をとった。

「氷河が『ひと月以内に』なんてことを言い出さなかったら、できれば、春になってから爛漫の花を見せて、驚かせてあげたかったんですよ」
そう言って、瞬が氷河を連れていった花園の一画。
そこには、本来であれば早春に開花する小さな白い花が、密やかに、だが喜ばしげな様子で佇んでいた。

地を這うように背の低い花である。
早春に、雪を割って咲く花は みな、こんな姿をしている。
遠目には それと気付かず、すぐ側に近寄って初めて、人は春の訪れに気付くのだ。
氷河は、意地もあったのだろうが、直接 花園に入り、中の様子を確かめることをしなかった――多分、彼は期待通りのものでない現実を確かめることを恐れていた。
枯れかけているとはいえ丈の高い他の植物の陰に隠れるように咲いている花たちに気付くこともできず、彼は、いつまで経っても花が咲く気配のない花園に やきもきしていたのだろう。

「咲いた……」
信じられないものを見てしまった人間のように、氷河が、小さく低く呟く。
「もう冬も近いっていうのに、いったいどうやって……」
氷河は、花というものが どういう生き物であるのかを全く知らないらしい。
あの老女は、まだ幼かった頃の氷河が、亡くなった母親と毎朝 庭を散策していたと言っていた。
では、幼い頃の氷河は、毎朝の散策の間、花を見ずに母親ばかりを見詰めていたのだろう。
それもまた微笑ましい光景である。
そう思って、瞬は、氷河には気取られぬように こっそりと、その口許に小さく微笑を刻んだのだった。

「この花は、これまでずっと、木や他の丈のある草の陰で凍えていたんです。だから、お陽様が当たるようにして、少し水をあげて、冷たい風が当たらないように気をつけて――そして、氷河のために咲いてってお願いしたんです」
「俺のために?」
そんなことにどんな意味があるのだと、言葉にはせず氷河が瞬に尋ねてくる。
瞬は軽く氷河に頷いてから、彼の青い瞳を覗き込んだ。

「人が、自分ひとりのためじゃなく 誰かのために生きている方が幸せなように、花だって、自分のためだけに咲くより、誰かのために咲きたいっていう心を持っているんです。きっと氷河は喜んでくれるから、氷河と氷河のお母様の思い出のために咲いてって、僕がお願いしたら、この子は一生懸命 花を咲かせてくれましたよ」
「……」
瞬の説明を聞いても――それは多分に非科学的な説明ではあったのだが――、氷河は何も言わなかった。
“氷河のために”懸命に花をつけた健気な命を 無言で見詰めるだけで。

その横顔が、やがて、今にも泣き出しそうな子供のそれのように、切なげに歪んでくる。
花を見詰めている自分が 瞬に見詰められていることに気付くと、氷河は はっと我にかえったように、その両肩に力をこめた。
瞬の視線を避けるように顔を横に背け、同時に踵を返す。

「ふ……ふん。賭けに勝ったからといって、いい気になるなよ!」
それが、彼の捨て台詞だった。
そうして彼は、逃げるように、彼のために咲いた小さな花と瞬の前から 足早に立ち去ってしまった。
おそらく、その小さな花のせいで生じた様々な感情を、瞬に見られまいとして。
人に涙を見せまいとする意地っ張りな子供のように。

『目の前に優しい人や可愛い人がいたら、好意を持たずにいる方が難しいでしょう』
小さな花と二人きりで その場に取り残されてしまった瞬は、ひと月と10日前、自分が氷河に告げた言葉を思い出し、ひどく戸惑うことになってしまったのである。

「可愛い……。どうしよう」
あまりにも突然 見せられてしまった氷河の可愛らしさ。
こんな不意打ちは反則だと、瞬は思った。
こんなやり方は卑怯だとも思った。
油断していた自分が悪いのかと、瞬はそんなことまで考えたのである。
いずれにしても、その不意打ちは既に為されてしまったのだ。
瞬には、その不意打ちを避ける時間さえ与えられなかった。

あの意地っ張りで可愛らしい公爵を 幸せにしてやりたい――。
心の中に湧き起こってきた その思いを消し去る方法が、瞬には思いつかなかった。
相手は、自分より年上の、この国で最も裕福で有力な公爵家の当主。
対する自分は、かろうじて破産を免れた伯爵家の次男坊で、言ってみれば、無力で非力な子供である。
そんな自分にいったい何ができるのかと、瞬は思わないわけにはいかなかった。
そう思うだけの分別は、瞬の中にも残っていた。
それでも――氷河のために、氷河を幸せにするために、何事かを為したいという思いは抑えようがない。
どうしても、抑えることができなかった。

「あの……僕を春までこのお城に置いてくれたら、もっとたくさんの花を氷河に見せてあげます。氷河のお母様がいた頃と同じくらい」
意地っ張りで可愛い公爵を追いかけ、追いつき、幸運にも掴まえることができた人に 瞬がそう提案したのは、他の誰でもない、瞬自身のためだった。
領民のためでもなく、兄と兄の家のためでもなく、氷河のためですらない。
瞬が、氷河の喜ぶ顔を見たかったから。
自分のために そんなことをするのは初めてで、瞬はそんな自分に戸惑いさえ覚えたのである。

瞬にそう言われて足をとめ 振り返った氷河は、実際に涙でその瞳を濡らしていたわけではなかった。
彼は既に平生の無愛想な顔の彼に戻っていた。
声も、その表情に似つかわしいものに戻っている。
「花が咲いても――」
死んだ者は生き返らない――と、氷河は言おうとしたのだろう――おそらく。
瞬は思わず、『代わりに僕が氷河の側にいてあげる』と言ってしまいそうになった。
そして、その時 初めて、氷河が欲しかったのは、実は 妻の代わりなどではなく、母親の代わりだったのではないかと、瞬は思ったのである。
あるいは誰でもよかったのかもしれない。
それが愛せる者であれば。
母に向けるはずだった 彼の愛情を受け止めてくれる者ならば。
今の氷河に そんなことを尋ねたら、彼は言下に否定するだろうことがわかるので、瞬は その推察の真偽を彼に確かめることはできなかったのだが。

今 この人にどんな言葉をかけてやれば、この人の心が少しでも和らぐのか――。
適切な言葉が思いつかず 沈黙を呈することになった瞬に、ふいに氷河が尋ねてくる。
それは、瞬にとっては非常に思いがけない問いかけだった。
氷河は、
「おまえは、兄を恨まないのか」
と、瞬に尋ねてきたのだ。

「? どうしてですか?」
氷河には、瞬のその反問の方が思いがけないものだったらしい。
彼は、彼の手が届くところにあった枯れ枝を1本、親指と人差し指だけを使ってぽきりと折った。
「家と領民のためとはいえ、おまえを こんなふうに身売り同然に 俺なんかの許に送り込んでくるなんて、ひどい兄じゃないか。王の暴虐には不満を持つ者も多い。謀反でも反乱でも起こせばいいんだ。大義はおまえの兄の方にあるし、軍は王よりおまえの兄の言うことをきく。だというのに、なぜ奴は――」

「兄は国を乱したくないんです」
「それはどうだか。あいつは、よりにもよって あの馬鹿王の娘に惚れてるから、自分の恋のために――」
言いかけた言葉を、氷河は一度 途切らせた。
瞬をしげしげと見詰め、やがて得心したように浅く頷く。
「髪と瞳の色が違うが――王女はおまえに似ているな。それでか……」
「……」
『それで』なのかどうかを、瞬は知らない。
『お姫様との恋の進展はどうですか』と気安く訊ける相手ではないのだ、瞬の兄は。
訊いたところで、兄が巧みに弟の質問をはぐらかしてしまうことは目に見えている。

「僕は、生まれてまもなく両親を亡くして、兄に育ててもらいました。僕は両親の顔も憶えていない。憶えているのは、いつも兄さんが僕を守り、庇い、叱り、励ましてくれたことだけです。兄さんがいなかったら、今頃 僕は生きていなかった。兄さんを恨むなんて そんなこと、僕には考えられない。兄さんがもし僕を殺すようなことがあったとしても、それはきっと僕のためなんだと信じて、僕は兄の手にかかります」
特に気負いもなく、瞬はさらりと言い切った。
大仰な口振りでなかったからこそ、氷河は瞬のその言葉を心底からのものと認めることができたらしい。
瞬が告げた言葉を揶揄することもなく、彼は ただ首を軽く左右に振ることをした。

「……そこまでおまえに慕われている おまえの兄が羨ましい」
「僕は、お母様との思い出を持っている氷河が羨ましいです」
それもまた、心底からの言葉。
氷河はそれには何も言わなかった。






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