「僕の兄は今、割譲された領地の返還のための条件を隣国の王と取り決めようとしていて、それで隣国と頻繁に文書のやりとりをしているんです。その手紙を通じて、兄に確かめてもらいました。隣国の王様も先代の王のしたことなので教える気になったのだと思いますが、これはあちらの国の王様も秘密にしておきたいことなので、兄の他には、僕と隣国の王様しか知らないことです。これからも、誰も、誰にも洩らすことはないでしょう」
氷河を傷付けることはもちろん、公爵家と氷河の両親の名誉を傷付けることも、瞬の本意ではなかった。
氷河に勧められた椅子に腰をおろし、彼の青い瞳と真正面から向き合うことになった瞬が最初に彼に告げたのは、その事実を知る者は少なく、その者たちは秘密を守ることのできる者たちである――ということだった。

なぜここに、瞬の兄はともかく、他国の者が出てくるのかと、氷河は訝ったらしい。
が、彼は 瞬の話の腰を折るようなことはせず、無言で続く言葉を瞬に促してきた。
彼に事実を告げる覚悟はしていたつもりだったのだが、長い物語の聞き手として模範的な態度を示す氷河の前で、瞬は もう一度 自分の心身を緊張させることになったのである。

「すべての元凶は、おそらく氷河のお父様の野心にあったのだと思います。氷河のお父様は、即位したばかりの王に対して謀反を企てていた。そのために、隣国と通じていた。隣国の軍が この国に攻めてきたら、それに呼応して都に攻め入り、王を倒し、その上で この国を自分の手で支配する計画を、氷河のお父様は立てていたんです」
突拍子のない話。
当然のことながら、氷河には寝耳に水の話。
一瞬 息を呑んだ氷河が、それこそ狂人を見るような視線を自分に向けてくるのを、瞬は 至って自然な反応だと思ったのである。

公爵家は王室より富裕な有力貴族ではあったが、その力の根拠は、広い領地と巧みな領地経営にあった。
つまり、土地と多くの領民と、彼等が生み出す農作物――この国が必要とする量の5割を占める食料――を握っていたからだったのだ。
軍部への影響力は、皆無とまでは言わないが微々たるものだった。
その公爵家の当主が、王室への反乱を企てるとは。

「まさか……無謀だ」
氷河の呟きは非常に常識的なもので――適切な判断で――、それは ある意味で、瞬の心を安んじさせることになった。
こんな真っ当な判断のできる人間に、狂気の因子が潜んでいるはずがない――と。

「その無謀なことを、氷河のお父様は本気で成そうとしたんです。氷河のお母様は、おそらく偶然 前公爵の企みを知ってしまった――のだと思います。氷河のお母様が火を放った館は、北の海岸の――岬の近くにあったでしょう。あの館は、氷河のお父様と隣国の者たちが謀反の計画を相談し、海の向こうから運んできた武器を隠しておく場所になっていたんです。他にも、互いに交わし合った極秘の文書や、様々の品――お父様の謀反の証拠となるものがすべて、あの館の中にはあった」
「馬鹿な。もしそれが事実だったとしたら、母は父を止めようとしていたはずだ」
もちろん、そうである。
氷河の言葉通りのことを、氷河の母はしようとした。
そして、それが、彼女に思いがけない不幸を運んでくることになったのだ。

「氷河のお母様は、公爵家に嫁したとはいえ、この国の王女。しかも、聡明な女性だった。氷河のお父様が手を組もうとしている国は、言ってみれば小さな島国で、海戦でなら勝つこともできるでしょうが、内陸での、しかも総力戦となれば、国土も国力も数十倍のこの国に勝てるわけがないと、氷河のお母様は判断した。氷河のお母様は、だから、謀反のための武器や裏切りの証拠がすべてがある あの館を燃やしてしまおうとしたんです。そうすれば、氷河のお父様は無謀な計画を断念してくれるだろうと期待して、ある日の朝早く、氷河のお母様は あの館に火を放った。氷河のお母様は、ご存じなかったんです。前日、都に行くと偽って お城を出た氷河のお父様が、あの館にいらしたことを」

「知らなかった……?」
氷河が独り言のように低く呟く。
その時、氷河の心は、もしかしたら 父の謀反の計画を知らされた時より激しく動揺していたのかもしれなかった。
その動揺を表情に出すこともできないほどに。
彼はたった今まで、10年前の出来事を、狂気に陥った母が父を焼き殺そうとして起こった事件と考えていたのだから。
氷河の母に夫の命を奪う意図がなかったのだとしたら、氷河の心の中で、あの事件が持つ意味は全く違ってくるのだ。

瞬は、氷河に頷いた。
それが不幸な事故あるいは事件であったことに変わりはないが、そこに殺意に類するものはなかった。
もちろん、憎悪も不和も、そこらは かけらほどにも存在していなかったのだ。
それどころか――瞬の推察では、そこにあったものは 十中八九 愛と思い遣りだけだった。

「氷河のお母様は、あの館のすべてを確実に灰燼に帰さなければならなかった。幸い、あの館には大量の武器が運び込まれていて、火薬もたくさんあった。氷河のお母様は、その火薬を使って、確実に館のすべてを燃やし尽くす仕掛けを調えました。その計画通り、館に運び込まれていた武器はすぐに大きな爆発を起こし、火は瞬く間に館中に燃え広がった。燃え盛る炎の中で逃げ場を失った氷河のお父様は塔の上に逃げ、迫る火を逃れて 塔の上から身を投げ――氷河のお母様は、その光景を目の当たりにしてしまった」
「……」

居城から 燃え盛る館に駆けつけた時、氷河はそこで狂気を帯びているとしか思えない母の声を聞いたのだろう。
もしかしたら、それは笑い声に酷似していたのかもしれなかった。
事実は、それは、狂気の笑い声などではなく、自分が為してしまったことに恐れおののく、一人の女性の悲しみの悲鳴だったというのに。
優しく微笑む母をしか知らなかった氷河は、だが、そんな母を見て、彼女が狂ってしまったのだと思った――そう感じてしまったのだ。
そんな息子の眼差しに出合って、氷河の母はどんな思いに捉われたのか――。

瞬は、幼かった氷河の誤認を 責める気にはならなかった。
愛する息子の狂人を見るような眼差しが、彼の母に自らの死を思いつかせ、死を決意させた直接の要因だったのだとしても。
そうであったとしても、それは氷河のせいではない。
「氷河のお母様は、謀反のために用意されたものをすべて取り除き、氷河のお父様の祖国への裏切りを、事が露見しないうちに思いとどまらせようとしただけでした。だから、自分がその計画に気付いていることも、氷河のお父様には知らせていなかった。氷河のお母様は秘密裏にお父様の無謀な計画を断念させ、お父様の身を守ろうとしたんです。にもかかわらず、彼女は、彼女の夫を、間接的にとはいえ殺してしまった」

氷河のせい・・ではない。
氷河の母の自害は、氷河のせい・・ではなく、氷河のため・・に為されたことだった。
事実がどうであったのか、それは氷河の母亡き今、誰にもわかることではない。
だが――あるいは、だからこそ絶対に――瞬は、そう・・であったことにするつもりだった。
氷河の母の死は、氷河のせいではなく、氷河のためだったことに。

「ここからは僕の推察です。でも、他の可能性はあまり考えられないと思います。氷河のお母様は、氷河のために死んだのだと思います。彼女は、すべての責を自分で負おうと考えた。氷河のお父様の死と館の焼失は、国を裏切ろうとしていた前公爵の野心が引き起こした“事件”ではなく、政治的に力のない狂った女の起こした“事故”だったことにしてしまおうとしたんです。彼女がもし生き永らえて、狂ってもいないとなれば、当然 氷河のお母様は、何が起こったのかの詮議を受けることになっていたでしょう。その過程で、謀反の計画が表沙汰になる可能性も出てくる。でも、関係者が皆 死んでしまえば、誰も何もできない。謀反の同調者である他国の者たちも、そのために準備していたものがすべて灰燼に帰してしまったわけですから、彼等の方から前公爵の裏切りを告発してくる可能性もありません。裏切り者の息子であるよりは、狂った母の子であった方が、氷河も人々の同情を得られるだろうと、氷河のお母様は考えたんです。もちろん、夫を殺してしまった彼女が取り乱していたのは事実です。氷河のお母様が、その時 完全に正気だったとは言えないかもしれません。でも、夫と息子を守るために、たった一人で陰謀の館が完全に焼失するように火薬の量を計算し、仕掛けを作り、その作業を完璧にやり遂げた人の知性と理性が、それほど もろいものだったとは考えにくい。氷河のお母様は、だから――」

瞬は、一度 言葉を途切らせた。
自分の推察を、さほど見当違いのものだとは思わない。
瞬は、とにかく、その事実・・だけは、氷河にわかってもらいたかった。
他の誰でもない、氷河自身と、氷河を愛していた彼の母親のために。
「氷河のお母様は、氷河のために・・・死んだんです。氷河を守るため、氷河に幸せになってほしかったから、氷河のお母様は 氷河の前で自らの命を絶った。氷河の幸せが、裏切り者の夫を持ち、その夫を我が手で殺し、自分の命も自分で絶たなければならなくなった女性の唯一の――そして最期の願いだった」

それだけはわかってほしい。
そして、氷河には、彼女の最期の願いを叶えるために生きてほしい――。
氷河の母の命をかけた願いは、今では瞬の願いでもあったのである。
それほどまでに母に愛されていた息子が不幸であってはならないと、母の記憶を持たない瞬は、心から願っていた。






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