「マーマは狂ってはいなかった……あれはマーマのせいじゃなく、国を裏切ろうとしていた父のせい……」
血の気の失せた頬をした氷河が、抑揚のない声で、瞬が告げた事実を口の端にのせる。
氷河は、10年の長きに渡って、母の狂気を信じてきたのである。
彼女が狂っていなかったという事実は、それが喜ばしいことでも、氷河には にわかには受け入れ難いことであるのかもしれない。
しかも、その喜ばしいことを受け入れるためには、彼は、彼の父の無謀な――ほとんど狂気といっていいほど無謀な――裏切りの事実を認めなければならないのだ。

瞬は案じていた。
氷河が、彼の母の正気を信じてくれるのかどうか。
父の裏切りの事実を認め、父を許すことができるかどうか。
氷河がその二つの事柄を受け入れ許すことができなければ、氷河の母の最期の願いは叶わないのだ。
氷河の唇が次に発するのは、許容の言葉か、断固たる拒絶か。
息を呑んで 氷河の様子を見守っていた瞬に、氷河は意想外に落ち着いた声で尋ねてきた。

「父は なぜ祖国を他国に売るような真似をしようとしたんだろう……」
「それは何とも……。僕なんかは逆に、本来は攻撃的な あの兄が、なぜ あんな理不尽なことをする国王を裏切らないのかと思うことがありますけど……。内乱を起こして国を乱したくないのなら、暗殺という手段だってあるのに」
「奴には奴の事情があるんだろう。あの馬鹿王は、あれでもエスメラルダ姫の父親だし」
「では、氷河のお父様にも何か事情があったのでしょう。愛する人との間に生まれた我が子を王にしたかったのかもしれません。氷河はお母様から王家の血を受け継いでいますから、それは不可能なことではありませんし。国王は10年前には即位して まだ1年足らず。ちょうど、彼があまり良い王でないことを 周囲の者たちが知り始めた頃です。今よりずっと力もなく、王位は不安定だったでしょう」

長く王位に就いていると、無能な王にも――むしろ無能であればあるほど――多くの取り巻きができてくる。
10年前は不安定な立場にあった王も、今では それなりの力を有する王になっていた。
彼の取り巻きたちはあまり良い取り巻きとはいえなかったが、幸い――『幸い』だろう――有力な者たちでもなかったので、王の陣営と、瞬の兄を中心に(比較的)良識的な貴族たちが形成する勢力は、互いに反発し合いながらも均衡と呼べるものを保っていた。
それが現在のこの国の状況である。
その均衡も、国内で最も有力な公爵家が 中立と国政への無関心を貫いているために保たれているところがあったが。

「なるほど」
父の裏切りの事実を知っても、氷河は冷静だった。
胸中では激しい葛藤があったに違いないのだが、少なくとも彼は 瞬の前で取り乱すようなことはしなかった。
聡明で愛情深く強い女性の愛情を一身に受けていた幸福な子供。
彼は、母の心と父の心を理解し認め受け入れる力を、母から受け継いでいたのだろう。
氷河は、錯乱して当然の場面でも 愛する息子のために自分が何をすべきなのかを冷静に考え、その考えを実行に移すことができた女性の子なのだ。
その事実を失念し いらぬ心配をしていた自分に、瞬は気付くことになった。

氷河は弱い人間ではないし、愚かな人間でもない。
母の死に様を目の当たりにし、彼女の愛情を素直に信じられなくなって、ほんの少し自信を失っていただけ。
失った自信を埋め合わせるために依怙地の殻をかぶって、氷河は、それを脆い鎧代わりにしていただけだったのだ。
だが、今の氷河に、そんな無様な鎧は もう必要ではない。
そう思えるから、瞬は安心して氷河に言うことができたのである。
「氷河のお母様は狂人ではありませんでした。そして、氷河を心から愛していたんです」
と。

氷河は、素直に、瞬のその言葉に頷いてくれた。
それだけではなく、彼は瞬の為した仕事にねぎらいの言葉をかけてくれさえしたのである。
「昔のことだ。調べるのは大変だったろう」
「僕は、あの館の焼け跡で、隣国の王室の介在を示すものを見付けて、何かあったんじゃないかと思って、兄に調べてほしいと頼んだだけです。実際に当時のことを調べるために動いてくれたのは僕の兄です」
「奴が俺のために手間をとってくれたことには感謝するが、手柄が おまえの兄にあるとは思えんな」
そんな嫌味――なのだろうか?――を言えるくらいなら、氷河はもう大丈夫だろう。
瞬は、今度こそ本当に、安堵の胸を撫でおろした。

「もし、氷河のお母様が本当に狂気を帯びた瞬間があったとしても、だから必ず氷河も狂うなんて、そんなのは無意味な思い込みです。僕には母の記憶がないので――氷河のお母様の思い出を美しい思い出に戻してあげたかったの」
「……」
「その血を残すことを恐れる必要はありません。可愛い子供を氷河に与えられる美しくて優しくて聡明な女性を見付けて、妻としてください」
「……」

そうして、孤独の代わりに幸福で彩られた人生を 氷河が生きること。
それが氷河の母の願いを叶えることである。
それが叶えば、瞬も、氷河の“妻の代わり”などという役柄を務めずに済むようになるのだ。
全く寂しい気持ちがなかったといえば、それは嘘になるが、氷河のために・・・、瞬はそう言って微笑した。
途端に、なぜか氷河が、不機嫌の色を その瞳に浮かべる。
彼は、瞬の心を探るような目をして 瞬に言ってきた。
「美しく、優しく、聡明な恋人が欲しい」
「氷河なら、よりどりみどりです」
「俺が欲しいのが誰なのか、わからないのか」
「え?」

瞬が首をかしげると、氷河はまるで初対面の時の彼に戻ったように苛立たしげな態度で、掛けていた椅子から立ち上がった。
そして、瞬を睨みつけてくる。
「俺の父が売国奴だったなんて荒唐無稽な話、俺は おまえが言うのでなかったら断じて受け付けなかった。母が狂っていなかったという話だってそうだ。それを事実と認めることは、俺のこれまでの10年間を否定することになる。おまえの言うことだから信じるんだ。おまえ以外の奴がそんなことを言い出したのだったら、父を侮辱し、俺のこれまでの生き方を無為なものと決めつける その大馬鹿野郎に、俺は鞭打ちの罰をくれてやっていた!」

「あ……氷河の信頼はとても嬉しいです……。僕は、つい数ヶ月前に ここにやってきた、言ってみれば異邦人にすぎないのに……」
「瞬……!」
瞬の名を呼ぶ氷河の声が、権力者のそれから、悲痛な悲鳴に変わる。
それは更に、まもなく 権力者に情けを乞う奴僕の哀願めいた嘆声に変わった。
「おまえは、少しは俺に好意を持っていてくれて、だから、こんなことをわざわざ調べてくれたんじゃないのか!」

父の裏切りの事実を知らされても落ち着いた様子を保っていた氷河の この豹変振りの訳が、瞬にはわからなかったのである。
困惑しながら、氷河の気持ちを静めるために、
「氷河のことはもちろん好きですが」
と答える。
そう答えてから、瞬はなぜか――無意識のうちに、一度告げた言葉を、
「大好きですけど」
に、言い替えていた。

しかし、それくらいのことでは、氷河の苛立ちは到底 治まりきらなかったのである。
公にできないこととはいえ、母の名誉を回復し、いつかは自分も母のように狂ってしまうに違いないという不安を取り除いてくれた、瞬の言葉を借りれば“つい数ヶ月前に出会ったばかりの異邦人”。
その異邦人の優しさと尽力に、この国で最も有力な公爵が こんなに感激しているというのに、瞬はその感激を 単なる友人に対する感謝程度にしか思っていない。
こんな理不尽なことがあるだろうか。
一度 長く深い息を洩らし、氷河は、ともすれば怒鳴り声に変じてしまいそうな声を必死に抑えて、瞬に再び問うた。

「おまえは、以前、『目の前に優しい人や可愛い人がいたら、好意を持たずにいる方が難しい』
と言っていただろう」
「はい」
「俺は可愛くないか?」
「は……?」






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