俺はぎょっとした。
星矢たちにも気取られぬよう、俺はこっそりと瞬を自室に誘い込んだ。
俺たちがここでこうしていることは、俺と瞬の他には誰も知らないし、俺と瞬の他には この部屋には誰もいない――はず。
その誰もいないはずの部屋に、俺と瞬以外の人間の声が響いてきたんだから、それは俺でなくても驚くだろう。
瞬が眠っていてくれてよかったと、正直 俺は思った。
こんな不手際を瞬に知られたら、恥ずかしがりやの瞬のこと、明日以降の俺との同衾を避けるようになるかもしれないからな。

――なんてことをのんきに考えている場合じゃないのだと、俺はすぐに思い直した。
これ・・はなにもので、なぜ ここにいるんだ?
こいつが ずっとここに潜んでいて、俺の瞬が喘ぎ乱れる様を見ていたのだとしたら、それは瞬にとってだけでなく、俺にとっても大問題だった。
瞬のあんな可愛らしい様を俺以外の人間が見るなんてことは、あってはならないことだ。
――そんなことを考えていられる俺は、その段になってもまだ、阿呆な のんき者だったとしか言いようがない。

そんな俺を本気で緊張させ警戒させることになったのは、その闇の、覗き趣味の変質者にしては冷めた声――ぞっとするほど冷めた声だった。
「この者は、選ばれた者。余の魂の器になるはずの者だぞ。その者に、こんな浅ましい肉欲を教え込むとは」
「貴様は誰だ」
『名前も名乗らず何を言っているんだ、この闇は』と、俺は憤りを覚えた。
闇の中から実在も感じさせずに声が響いてくること自体、尋常ならざる事態だったんだが、“神”を名乗る馬鹿者共や、それこそ尋常でない力を持つ敵や味方を数多く見知っていた俺は、闇が口をきくという状況そのものには あまり奇異の念を抱いていなかった。
問題は、この闇が俺の瞬に執着しているらしいという事実の方だったんだ。

「余は、すべての人間を支配する神。人間たちの死と死の時を支配する神」
「なに?」
「そなたたちのアテナよりは強い力を持った神だ。人間の死は、どのような人間のそれも余の手の中にある」
俺は、その闇の自己紹介(?)を、実に無意味な大言壮語だと思い、嘲笑った。
一応、声には出さずに胸中で。
“命”を手にしているというのならまだしも、“死”を手にしている神なんか、生きている人間には恐れる必要のないものだろう。

しかし、まあ、あまり神を侮るわけにもいかない。
なにしろ、神という奴儕やつばらは、この俺より我儘で横暴な生き物と相場が決まっているからな。
それにしても、その“死”を手にしている神サマが、なぜ瞬に関わってくるんだ?
瞬は生きている。
瞬は、誰よりも必死に、誰よりも真摯に、誰よりも眩しく その命を輝かせている人間だ。
死神なんてものは、瞬から最も遠いところに在るべき存在だっていうのに。

俺の疑念を見透かしたように、その闇は、また低い声を俺の部屋に響かせた。
「瞬の価値はそなたもわかっているだろう。それは余にも価値あるものだ。だが、時はまだ至っていない。もう少し待とうと思っていたが、これ以上下賎の者に瞬をいいようにされることには、耐えられん。瞬は渡してもらうぞ」
「……」
無駄に偉そうに、何を言っているんだ、この馬鹿は。
下賎の者っていうのは、人の部屋に許可も得ずに入り込み、名も名乗らずに好き勝手なことをべらべらと まくしたてる、躾のなっていない輩のことをいうんだ。
つまり、俺のことじゃなくて、この自称神サマみたいな奴のことを。
その点、俺は礼儀を心得ている。
俺はちゃんと瞬に『俺と寝てくれ』と頭を下げて頼み、その許可を得てからコトに及んだからな。

「勝手なことを言うな。瞬は俺のものだ。俺のものになってくれた」
「その下品な言いまわしをやめろ。瞬は余の・・ものだ・・・
一人称が『俺』なら下品で、『余』なら上品だとでも言うつもりか、この阿呆は。
瞬が『余』のものになんかなってたまるか。

「瞬はアテナの聖闘士だぞ。他の神の言いなりになどなるわけがない」
「そのようなことは知らん。瞬は余の魂の器として選ばれた。現世では瞬ひとり。その運命から逃れることはできん。瞬は余と同一のものになり、アテナが後生大事に守っているこの地上の醜い命たちをすべて消し去って、粛清済んだ地上の王となるのだ」
瞬が この地上の王になるというのなら、俺は喜んで下僕として仕えるが、瞬はそんなことは死んでも望まないだろう。
ということは、こいつの言い草は瞬の意思を完全に無視したものだということになる。
ならば、俺は、この阿呆な神サマの企みを阻止しなければならない。
まるで正義の味方みたいに、俺が そう決意した時だった。
「う……」
夢を見ることも不可能なほど深い眠りに就いているようだった瞬が、微かな呻き声を洩らしたのは。

俺は慌てて、瞬の方に視線を巡らせたんだ。
この自分勝手な神サマは、本当に瞬を自分の住処すみか(?)に瞬をさらっていくつもりでいるらしい。
見えない闇の手に持ち上げられて、瞬の身体は少しずつシーツの上に浮き上がり始めていた。
瞬と俺の身体を覆っていた掛け布が、宙に浮かんでいく瞬の移動に伴って、俺の上から取り除かれていく。
このお上品な神サマは いったい何を考えていやがるんだか。
俺が奴だったら、たっぷり使って復活待機中の他人のナニなんて、死んでも見たくないぞ。

「やめろっ!」
俺は、瞬を覆っている掛け布ごと、瞬の身体を抱きしめた。
身体と共に手足も水平に浮き上がっていたから、てっきり瞬の身体は石の像のように硬くさせられているのだとばかり思っていたんだが、案に相違して、俺が抱きしめた瞬の身体はやわらかいままだった。
やわらかくて、温かい。

それには俺も安堵したんだが、俺はそんなことに気を安んじている場合じゃなかった。
抱きしめた瞬の身体が、爪先から透き通っていく――いや、消えていく。
俺は、その段になって初めて、このお上品な神サマが 本気で俺から瞬を奪い取ろうとしているのだということに気付き、心底から慌て戦慄した。

瞬のいない世界。
瞬を失った俺。
そんなものに存在価値があるか?
守る価値が、生きる価値があると言えるか?
あるわけがない。
あるわけがなかった。
「やめろ! やめてくれ、頼む!」

『やめてくれ、頼む・・
それは、アテナの聖闘士が、アテナと対立している神に言っていい言葉じゃなかった。どう考えても。
だが、口を突いて出てしまったものは仕方がない。
瞬を奪われることは、俺にとっては それくらい――命をかけてでも、膝を屈したくない相手に膝を屈してでも――阻止しなければならないことだったんだ。

お上品な神サマは、俺の懇願めいた悲鳴が、どうやら いたく お気に召したらしい。
室内に響き渡った俺の悲鳴の反響が完全に聞こえなくなる前に、奴は瞬を消すのをやめた。
そして、闇の形をとったままで薄く笑った。
「やめてやってもよい。少なくとも今は。そうだな。そなたが、今夜限り、余の瞬にあさましい触れ方をしないと約束するのなら」
「……」

この神サマは死神ではなく悪魔だと、俺は思った。
かろうじて、まだ俺の腕の中にいる瞬。
やわらかく温かくて細く軽い瞬。
俺は、その瞬が、身体の内に熱い激情をたたえていて、吸いつき絡み震えながら絶妙の緩急で、俺を途轍もない天国に連れていてくれるってことを知ったばかりだっていうのに、その瞬に触れるなだと?
瞬は、俺と瞬自身のもので、断じて こんな神のものなんかじゃない。
この神には、俺にそんなことを命じる権利はない。
言下に、俺は奴の提示してきた条件を拒否しようとした。
だが、既に消えてしまっている瞬の爪先――。

俺の浅ましい肉欲は、俺が我慢して、俺が苦しめばいいだけのものだ。
だが、瞬は――。
瞬は、アテナの聖闘士だ。
痛ましいくらい健気に、アテナの聖闘士として生きている人間だ。
この地上に存在する命を守ろうとして、不幸に泣く人間を少しでも減らそうとして、そのために懸命に望まぬ戦いを戦い続けてきた。
その瞬が、瞬の心が、アテナに敵対する神に利用されるなんて事態に耐えられるだろうか。
地上の命を消し去る企みなんてものに加担させられるようなことになったら、瞬は、そんなことになる前に自分の命を絶つことだって しかねない。
いや、瞬は必ずそうする。

瞬が瞬の意思に反して邪悪な神に利用されるということは、瞬の死を意味することだ。
そして、それは、俺の死をも意味する。
瞬を俺の手で幸せにすることが、俺の望みで、俺の幸せなんだから。
そして、瞬が幸せな人間でいるためには、瞬はアテナの聖闘士でなければならない。
瞬は、何があっても、命を奪う側の者になってはならないんだ。
地上と人類に仇なす敵を倒すことにすら傷付いてしまう瞬が、無辜むこの人間の命を奪う側の者になってはならない。
他の誰でもない、瞬自身のために。
それは考えるまでもないことで、だから、俺は、奴の提案を受け入れるしかなかった。

「触れない。もう二度と。だから、瞬を――」
俺の答えを聞いて、闇は高笑いをした。
ひどく楽しそうに。

「よかろう。その代わり、そなたが一度でもその約定を破ったら、その時こそ、瞬は余のものだ」
その言葉が終わる前に、重力の作用を思い出したように、瞬の身体が俺の腕の中に戻ってくる。
消えた爪先も、元に戻っていた。
その時の俺の気分をどう言えばいいだろう。
俺は、瞬のために 瞬にとって最善と思われる道を過たず選択した完璧な恋人だったのに、同時に 世界でいちばん みじめで不幸な恋人でもあった。






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