容易に耐えられるとは思えなかったが、それは耐えなければならないことだった。 だが、考えてもみてくれ。 俺は瞬に惚れているんだ。 瞬が優しいとか、強いとか、清らかだとか、可愛いとか、人を傷付けるのが嫌いなのに戦い続ける瞬の壮絶な美しさとか、ちょっと目を離すと 平気で自分の命を他人のために捧げてしまう厄介な犠牲的精神とか、俺はもう瞬の何もかもが好きで好きでたまらない男なんだ。 そんな男が、瞬の魅力は心や姿の美しさだけじゃないことを 己が身で確かめた翌日から 瞬に触れることを禁じられるなんて、これほど残酷な話があるか? 実際、あの闇に その禁忌を負わされる前日まで、俺は耐えていたんだから。 瞬の肌の感触はどんなだろうとか、瞬の中に入ることができたら どんな気分を味わえるだろうとか、とても瞬には言えないようなことを考えつつも、俺は 実際の行為には及ばずにいた。 耐え切れなくなって、それこそ土下座する勢いで瞬に頼み込み、瞬が俺にそれを許してくれた時の、天にも昇るような気持ち。 あれは、心底から誰かを欲したことのある人間にしかわからない歓喜だろう。 そう。 俺を苦しめたのは、瞬を抱けないことじゃない。 あの心地良さを味わえなくなったことじゃない。 望めば手に入るものを望むことを禁じられてしまった苦痛だった。 『瞬。今夜、俺の部屋に来てくれ』と頼めば、瞬が俺の許に来てくれることがわかっているのに、そう言うことを禁じられてしまった苦しさだったんだ。 地獄の炎に焼かれ、針の山登山を強いられる方がどれだけましかしれない。 ちょっと手をのばせば触れることができるくらい側に瞬がいるのに、手をのばせない。 手招きすれば 駆け寄ってきてくれることがわかっているのに、指一本動かせない。 この苦しみ。やりきれなさ。 それは自慰なんかで代用できるものでも、解消できるものでもなかった。 というより、瞬がすぐそこにいるのに なぜそんなみじめなことをしなければならないんだと思うと、そもそも 俺はそんなことをする気になれなかった。 『瞬のため、瞬のため、瞬のため』と、俺は毎日毎晩 呪文のように繰り返して、過ぎる時を耐えた。 そして、その呪文に何の効力も期待できないと悟った頃、進退窮まった俺はシベリアに逃げ込んだ。 瞬の近くにいるからだめなんだと、物理的に離れてしまえば 少しは俺の気持ちも落ち着くかと、俺は思った――期待したんだ。 結果は、惨憺たるものだったが。 瞬の声が聞きたい、瞬の瞳に見詰められたい、瞬の笑顔が見たい。 そして、もちろん、瞬の中に入っていきたい。 瞬に向かって生じる、俺の ありとあらゆる欲望は、シベリアに行っても――瞬と離れてしまったからこそ余計に――俺の心身を容赦なく苛んだ。 自分でも馬鹿げていると思うが、俺はわざと小宇宙を燃やさずに氷が浮かんだ東シベリア海に飛び込んでみたり、一晩 氷の上で夜明かししてみたりもした。 だが、駄目だった。 無駄に鍛えられた俺の身体は そんなことくらいでは弱ってくれなかったし、それは瞬を求める心の方も同じ。 シベリアで、そんなふうに七転八倒の苦しみに耐えていた頃、俺は、自分の苦しみに耐えるのに精一杯で、瞬の気持ちを全く考えていなかったと思う。 初めて寝た夜の次の日から、同衾した相手から露骨に避けられることになったら、瞬が傷付くのは当然のことだ。 恋人に嫌われてしまったんじゃないかとか、幻滅されてしまったんじゃないかとか、そういう立場に立たされてしまったら、誰だってそう思う。 まして、瞬は、悪いことは何でも自分のせいと考える、内罰的傾向の強い子だ。 当然、悪いのは自分の方、こんなことになった原因は自分にあると考えただろう。 だが、俺は、瞬がそんなふうに思うかもしれないという可能性にすら考え及んでいなかった。 瞬が好きで好きで、瞬が欲しくて欲しくて、そんな気持ちを必死に抑えている俺は、瞬が自分のせいでそんなことになったと考えることがあるなんて、本当に全く考えていなかったんだ。 俺はこんなに瞬が好きだし、俺はこんなに瞬が欲しい。 すべては瞬のため、瞬のためなんだと、俺は懸命に自分に言いきかせ、自分を抑えていた。 まさか瞬が俺に嫌われたと誤解して傷付いているなんて、そんなことに思い至れと言う方が無理な話だ。 俺はこんなに瞬が好きなんだから。 瞬が心配しているから帰ってこいと、シベリアには 星矢たちから何度も連絡が入った。 だが、俺は頑なに氷の大地にしがみついた。 一度でも瞬に会ってしまったら、あの声を聞き、あの瞳に見詰められてしまったら、俺は、1ヶ月も獲物にありつけずにいた白クマみたいに、瞬に食らいついていってしまうだろう。 それで満腹になったとしても、餓死を免れた白クマみたいに、これで命がつながったと満足できるわけがない。 このままだと心臓がコレステロールの負担に耐え切れなくなると医者に宣告され食事制限を課せられたメタボ人間が大福を10個 平らげてしまった後悔の深さとは比較にならないくらい深い後悔に、俺は支配されることになるだろう。 それがわかっているから、俺は、冬眠中の亀みたいにシベリアの氷の大地に身を潜め、懸命に耐え続けたんだ。 俺がどうあっても瞬に会わなければならなくなったのは、俺がアテナの聖闘士だったせい。 つまり、地上の平和と安寧を乱す敵が出現したからだった。 新たな敵は、あのお上品な神サマ絡みの敵ではないようだったが、アテナから召集命令がくだったとなると、さすがの俺もアテナのもとに馳せ参じないわけにはいかない。 俺は重い心と身体を引きずって、極寒のシベリアから呑気な地中海性気候の聖域に向かうことになった。 『瞬に会える』なんて期待は、俺の中にはこれっぽっちもなかった。 『瞬に会ってしまったら、俺はいったいどうなってしまうのか』という不安だけが、俺の中にはあった。 聖域で、俺は ひと月ぶりに瞬に会った。 可愛い瞬。 俺を見るなり泣きそうな目になって、瞬は視線で俺にすがってきた。 その時 初めて俺は、その可能性に思い至ったんだ。 俺に避けられているせいで瞬が傷付いているかもしれないという可能性。 いや、それは既に可能性なんかじゃなく、悲しい現実だった。 それでも、俺は瞬を避け、瞬から逃げることしかできなかった。 瞬との接触を避け、瞬の視線から逃げるようにして戦うことしか。 「おまえ、いったい何やってるわけ?」 星矢に大馬鹿者を見るような目を向けられても弁解できないような珍妙な戦い方をして、なんとか敵を撃退した その夜、あの闇が再び俺の前に姿を現わした。 |