奴は、俺の前に、文字通り“姿”を現わしたんだ。
黒い髪、黒い瞳、ずるずると無駄に長い時代錯誤な漆黒の服を身にまとった若い男。
腹の立つことに、結構な美形だった。
俺に あの悪夢の契約を取り付けた時には形を成していない影のようなものだったのに、何の気まぐれで そんな形をとってのご登場となったのかと、俺はむかむかしながら訝った。
理由はおおよそ見当がついたが。

俺は その時、アテネのエアポートホテルの一室にいた。
アテナの聖闘士としての義務を果たした俺は、当然 その足でシベリアにとってかえすつもりだったんだ。
どう考えても瞬のために星矢や紫龍が仲間を引きとめる手を振り払い、俺は聖域を出てアテネ空港に向かった。
ところが俺が乗るつもりでいたハバロフスクへの直行便は、北極海上悪天候のために欠航。
「俺が行きたいのは北極じゃないし、アテネはこんなに晴れてるんだから、とにかく飛行機を飛ばせ」
と、カウンターのスタッフに詰め寄った俺は、そこにいた そばかすだらけのご婦人に、
「楽しい冗談をありがとう」
と、軽く いなされてしまった。
聖域に――瞬のいる聖域に戻るわけにもいかず、仕方なく俺は空港に隣接されていたホテルに部屋をとったんだ。

要するに、そこは、アテナの結界が張り巡らされた聖域でも城戸邸でもなかった。
だから、奴は、形を成して俺の前に現われることができたんだろう。
つまり、奴は、アテナのテリトリーでは姿形も描けない程度の力しか持っていない神だということだ。
もっとも、奴はただ形を描いているだけで、その実体はここにはないようだったが。

「そなたは、まだ瞬にまとわりついているのか」
実物もこういう姿をしているのか、願望の表現なのかは知らないが、まあ 何とか見れる程度に美形の男が、到底上機嫌とは言い難い声で、俺を問い質してくる。
偉そうに不機嫌になんかなるんじゃない!
アテナからの呼び出しがかかるほどの敵と緊張してギリシャくんだりまでやってきたっていうのに、敵の総攻撃は3時間足らずで終結するし、俺に断りもなく飛行機は欠航になるし、とどめにカウンターのねーちゃんごときに鼻で笑われて、今の俺は――俺こそが――最高に機嫌が悪いんだ。
思う存分オーロラ・エクスキューションを連発して、このホテル全体をツンドラ気候帯にしてしまいたいくらいに。
なのに、俺を見詰める瞬のあの切なげな瞳が、俺の身体と心と思考、感情すべてに絡みついてきて、俺は優雅に不機嫌にもなっていられない。
その俺の前で 不機嫌に振舞う権利を有する者なんて、陸海空、彼岸・此岸を問わず、現時点では世界のどこにも存在しないはずだ!

「約束は守っている。俺はあれから瞬に指一本触れていない。俺は、アテナの聖闘士としての務めまで放棄すると、貴様に約束した覚えはないぞ!」
いらいらしながら、俺は、不定形の影ではなくなった神サマを怒鳴りつけた。
俺は 明らかに欲求不満からくるヒステリーを起こしていたが、俺のヒステリーの発作を正面から受けとめることになった神サマを気の毒とも思わなかった。
すべてはこいつのせいなんだ。
こいつが俺の瞬に好き心を起こしたから。

瞬が特別製の人間だってことは、俺も認める。
だが、なぜ瞬なんだ。
瞬はアテナの聖闘士なんだぞ。
悪党の手先として使うのなら、もっとそれにふさわしい悪党面の男が そこいらへんにいくらでも転がっているだろう。
なのになぜ、どうして よりにもよって瞬なんだ、このド助平!

「貴様こそ、瞬を貴様の勝手にはしないという約束を忘れたのか! 貴様がなぜここにいるんだ! おとなしく自分のネグラにこもっていろ! もう瞬につきまとうな!」
「瞬を見ていなければ、いつ そなたが余との約束を破るか わからぬではないか」
神サマの言い草に、俺はむっとなった。
こいつは、瞬に触れないという約束を俺が破ると決めつけている。
俺を その程度の男を見くびっていやがるんだ。

だが、あいにくだったな。
瞬の心を守るためになら、俺はどんな苦難にもどんな試練にも耐え抜くぞ。
この身を炎で焼かれるようなことになっても、全身を刃物で切り刻まれることになっても、ヒステリーの発作に体力の半分以上を費やすことになっても、昼夜を問わず 瞬の悲しげな瞳の記憶に責められ続けても、瞬が本当に苦しみ嘆かずに済むようにするためなら、俺は必ず その苦難に耐えてみせる。
俺がいつ約束を破るかなんて、そんなことを確かめようとするのは、正しく徒労というものだ。
そんな時は永遠にこないんだから。

「約束は守っている。俺は、二度と瞬には触れないと言っただろう! その不愉快な姿を、さっさと俺の前から消してしまえ!」
「あの……」
俺の怒声に答え(?)を返してきたのは、不愉快な美形の男じゃなかった。
俺の可愛い瞬。
つい数時間前に聖域で別れた時には涙で潤んでいた瞬の瞳が、今は驚きの色をたたえている。
もっとも驚きの度合いでいうなら、瞬の驚きより、『なぜ瞬がここに――しかも室内に――いるんだ?』という俺の驚きの方が、より大きいものだったろうが。

瞬の驚きより大きな驚きに支配されることになった俺の目は、もしかしたら、瞬には 瞬を責めている者のように見えたのかもしれない。
瞬は怯えたような目で、俺を見上げてきた。
「あの……沙織さんが、氷河はここにいるって教えてくれたの。ここで会う約束しててパスワードも聞いてるって言ったら、フロントの人がカードキーを貸してくれて……。それで、あの、沙織さんが、どんな手を使ってもいいから氷河を連れ戻してこいって……。アテナの命令だから、僕……」
瞬の言い訳めいた説明を聞いて、俺は派手に舌打ちをしたい衝動にかられた。
いろんなことに妙に理解のありすぎる あの女神様は、いったい瞬に何をさせようとしているんだ。
俺に――何をさせようとしているんだ。
状況は薄々察しているんだろうに、俺のこれまでの忍耐を水泡に帰すつもりなのか!

「氷河、その人、誰? 人間? どうして二度と僕に触れないなんて、そんなひどいこと言うの……」
瞬が、切なげな目で俺を見上げてくる。
瞬の視線を正面から受けとめることになった俺は、その瞬間、比喩ではなく本当に、心臓が止まってしまったんだ。
射るようにまっすぐ、俺の心に迫ってくる瞬の視線。
その瞳と眼差しにこめられたものに困惑し、ほとんど逃げるようにして、俺が助平神の方に視線を巡らすと、奴の姿は既にそこにはなかった。
あの卑怯者、瞬が現われた途端に、悪巧みの露見を恐れて とんずらこきやがった!

――と、俺が憤ったのは ほんの一瞬。
そうじゃない。
奴は、瞬に自分の悪巧みが露見することを恐れて逃げてしまったんじゃなくて、更に悪巧みを重ねるために姿を消したんだ。
奴は、俺に、あの約束を破らせようとしている。
そのためには第三者の姿がここにない方がいいと判断して、姿を消したんだ。
奴は、今もどこかで、俺が約束を破るのを確かめるべく、俺たちを見詰めている――。

そんなことになってたまるかと、俺は思った。
これは瞬のためにしていることなんだ。
瞬にちゃんと説明すれば、瞬は俺の決意に賛同し、協力だってしてくれるようになるかもしれない。
この場合、瞬から得られる協力というのは、つまり瞬も俺との間に距離を置いてくれるようになるということで、それはそれで苦しみが増すことになりそうだったが、ともかく、俺は あの助平神の思い通りにはならない――なるわけにはいかなかった。






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