冷静に、事務的に――と、自分に言いきかせて、俺は瞬の方に向き直った。 瞬は 瞬の目がこんなに綺麗でなかったら、俺はこの瞳から視線を逸らすこともできるのに、どうして瞬の目はこんなに綺麗なんだ。 目を――離せないじゃないか。 「あれは……どこぞの悪質な神だ。おまえを気に入って、どういう手を使うつもりかは知らないが、おまえを操って、地上にある命をすべて消し去るつもりだと言っていた」 「僕を操って?」 瞬が、微かに首をかしげる。 そうする間も、瞬の瞳は俺の瞳と心臓を射抜いたまま。 俺は、狭心症や心筋梗塞なんて心臓疾患は抱えていないのに、ひどく心臓が痛くなってきた。 息をするたび胸に鋭痛が走る。 「ひと月前の あの夜、あの男は俺の前に姿を現わして、おまえに、その……あんなことをした俺をなじった。そして、これ以上 俺に不届きなことをさせないように、おまえを連れていくと言ったんだ。俺はおまえと引き離されたくなかったから――おまえに二度と触れない、だから瞬を連れていかないでくれと、あの神に頼んだ。あの神は、おまえに二度と触れないという約束を 俺が守っている限り、おまえを利用することはしないと言った」 「そんな……。僕は、あの夜を境に氷河が僕を避けるようになったから、だから僕は、あの……べ……ベッドで何か僕が変だったんだろうって――僕はもう氷河にすっかり嫌われてしまったんだ……って……」 「そんなことがあるはずないだろう!」 俺は、瞬のその誤解だけは即座にきっぱり否定した。 瞬に そんなふうに思われるのだけは、嫌だった。 その通りだと言ってしまった方が いろんなことがスムーズに運ぶことはわかっていたんだが、それでも。 だってそうだろう。 瞬にそんな誤解をされてしまったら、瞬を思って血を流し続けている俺の恋心が あまりに哀れじゃないか。 俺の言下の否定は、瞬に、安堵と、そして少しばかりの勇気を運んできたらしい。 今は俺を苦しめるだけの澄んだ瞳に俺の姿を映し、俺よりも苦しげな声で、瞬は俺に訴えてきた。 「僕、氷河に抱きしめてもらえないと、悲しくて死んでしまう」 「生きているだろう」 俺は、にべもなく そう答えるしかなかった。 それは紛うことなき事実だったんだが、その事実を指摘されて、瞬は傷付いたような目を俺に向けてきた。 だが、今の俺に、他に何が言えるっていうんだ。 『俺だってそうだ』と、事実に反する真実を 瞬に訴えることができると思うか。 まして、『俺はおまえを死なせたくない』なんてセリフを吐いてみろ。 途端に俺は、『おまえの命を守るため』『おまえを悲しみで死なせてしまわないため』という大義名分を得てしまう。 それで俺が理性の勝った紳士でいられると思うか。 おまえに触れずにいられると思うか。 そんなことを言ったが最後、俺のこれまでの忍耐はすべて水泡に帰してしまう。 頼むから、そんな目をしないでくれ。 俺の苦衷を察してくれ。 「おまえのためなんだ。おまえがあの助平な神に利用されて アテナに敵対することにならないようにするため。おまえが、地上を滅ぼすことを目論んでいる邪神に加担させられる事態を回避するため。そんなことになったら、おまえは本当に生きてはいられないだろう」 「僕は……! 僕は、そんな神様の言いなりにはならない!」 「助平でも阿呆でも、あいつは神だ。抵抗できるわけがない。おまえは人間なんだ」 そう、瞬は人間だ。 特別に上等の。 人間として優れているってことは、人の痛みを自分の痛みとして受けとめてしまう優しさと感受性に恵まれているということだ。 そして、おそらく、優しさでは、人間は神の力に抗えない。悲しいことに。 俺はそう思っていたんだが、どうやら瞬の考えは違っていたらしい。 瞬には、俺のその考えを受け入れることができなかったらしい。 俺がそんなことを言うなんて信じられないというような目をして、瞬は俺に反発してきた。 「その神と、僕たちは戦ってきたじゃない。僕がその神に屈することになるなんて、なぜ氷河は決めつけるの!」 「……」 瞬の言うことは――それは決して間違った考え方じゃない。 むしろ正しい、 俺に対する瞬の憤りは正当なものだ。 俺がアテナの聖闘士で、瞬もアテナの聖闘士であるならば。 だが、俺は、瞬の前では、瞬に恋する哀れで愚かな一人の男にすぎないんだ。 「俺は――おまえが傷付く可能性があることを避けたいんだ。おまえはあの神に屈しないかもしれないが、屈することになるかもしれない。そうなった時、おまえが深く傷付くことになるのは目に見えている。俺はおまえに そんな危険を冒してほしくないんだ」 「危険を避けるために、家の中に引きこもっていたら、人は何もできないよ。危険に出合わず傷付くこともないかもしれないけど、幸せにもなれない」 そうだ。 その通りだ。 だが、家の外で暴風雨が猛威を振るっている時に、我が子に外出の許可を出す母親がいるか? いるはずがないじゃないか。 「俺はおまえに傷付いてほしくないんだ。あいつは、地上に存在するすべての命を消し去るなんて馬鹿げたことを、世間話でもするような気楽さで語っていた。アテナ以上とは言わないが、おそらく、それに匹敵する力を持っている。そんな悪魔におまえが利用されるなんて、俺には耐えられない。おまえが傷付く様なんて、俺は見たくない」 「氷河より僕を傷付けることのできる人なんて、どこにもいないよ」 「瞬……」 それは、俺がおまえを傷付けているということか? 俺はこんなにおまえを――おまえだけを守りたいと思っているのに。 「勝てる可能性があると思って、人は外に出ていくの。負けまいとして、人は勇気を出すんだよ。氷河は僕が、その勇気も持てないほど弱い人間だと思っているの」 「俺は――」 優しくて、綺麗で、清らかで、人を傷付けるのが嫌いなのに戦い続け、ちょっと目を離すと 平気で自分の命を他人のために捧げてしまう厄介な犠牲的精神の持ち主の瞬。 瞬が強い人間だということを、俺は知っている――知っていた。 雨に打たれたら、それだけで項垂れてしまう か弱い花のくせに、それほど頼りない風情をしているくせに、大地に張られた根は決して死ぬことはない。 瞬は、そういう花だ。 だから俺は瞬を好きになった。 俺はただ――俺は恐かったんだ。 瞬が傷付くのを見ることになるかもしれないことを、他の誰でもない俺が恐れていた。 俺が瞬を守りきれないことを、俺こそが恐れていた。 「負けると決めつけて、傷付くことを恐れて、家の中にひきこもっていたら、人は何もできない。生きていくことさえできない。氷河は、僕をそんなものにしたいの」 「俺は……おまえを守りたいんだ」 「僕は、氷河に抱きしめられたい」 即座に、俺が戸惑うほどきっぱりと、瞬はそう言った。 そう言ってしまってから、小さく身悶えるように顔を伏せる。 「あんなこと教えられて、それですぐに放り出されてしまったら、僕……」 やわらかい髪で隠された瞬の頬が ほのかに上気しているのが、俺には見てとれた。 こんなに清楚な風情をしているくせに、この色仕掛けの巧みさはどうだ。 瞬には、自分が そんな手管を用いているという意識はないらしい。 それまで教師や親に努力の大切さを諭されていた聞き分けのいい子供みたいに、まもなく瞬は 素直な決意をたたえた表情で、俺を見上げてきた。 「負けるかもしれないっていうことは、勝てるかもしれないっていうことと同義でしょう?」 「……」 「負けることならともかく、傷付くことを恐れて臆病になっているなんて、アテナの聖闘士らしくない。氷河らしくないよ。力は試練に立ち向かい乗り越えるために使うもので、試練から逃げるために使うものじゃないよ。試練のない人生なんて、あるはずがないんだから」 「俺だけのことなら、俺はどんな無鉄砲でもする。だが、おまえが傷付くのを見るのは、俺は嫌なんだ」 「その時には、僕、氷河に慰めて励ましてもらうから大丈夫だよ」 「なに……?」 それは、俺には ひどく思いがけない言葉だった。 瞬は、自分以外の人間のためになら どんな犠牲を払うことも厭わないくせに、自分のために人の手を煩わせることは遠慮するタイプの人間だ。 つらいことに出合ったなら、その時には瞬は一人で耐えようとするのだとばかり、俺は思っていた。 だから、瞬を守りきれなかった時、俺は無力感に打ちのめされることになるだろうと――俺はそう思っていたんだ。 「俺に……慰められてくれるのか……?」 瞬に尋ねる俺の声は震えていた。 我ながら 情けないほど。みっともないほど。 そんな俺に、瞬が、甘えを含んでいない、だが 確かに甘い微笑を向けてくる。 「できるだけ一人で頑張るつもりではいるけど、耐えて耐えて耐えられなくなったら、もちろん僕は氷河に頼るよ。一人では乗り越えられないことって、あるでしょう。僕は一人きりじゃなくて、氷河がいて、仲間がいる。まして、それが地上のすべての命の存続に関わることとなったら、それはみんなで乗り越えなければならないことだもの」 「そ……うか」 瞬が、それを『よし』とするなら――瞬が俺の力を求めてくれるというのなら、俺はもちろん 自分が持っているものすべてを瞬に差し出すつもりだった。 どんな助力も惜しまないつもりだった。 瞬が一人で戦い、一人で傷付き、一人で打ちのめされることはしないと言ってくれるのなら、命をかけて瞬を守り戦うつもりだった。 そうすることを、瞬が許してくれるのなら。 |