希望の行く手






デルポイは、アテネの北西、パルナッソス山のふもとにある町――正確には、町だった町。
今は観光客以外に訪れる者もない遺跡の町だ。
でも、数千年の昔には、ここにはギリシャ最古の神託所があって、この町は世界の中心と信じられていたらしい。
デルポイの神託を受けるために、ギリシャの各ポリスの王侯貴族が遣わした使者たちが 引きも切らずにやってきていたとか。

その町も、今はひっそりしている。
数日前から、原因は不明だけど巨大な大理石の遺跡が崩れ落ちる事故が多発して、観光客は立ち入り禁止になったんだ。
その原因の半分に責任がある僕としては、その状況はとても心苦しかったけど、でも、もう遺跡が崩れ落ちる事故は起きないだろう。
僕たちの戦いは終わったから。
“敵”は、アテナの聖闘士たちの手で すべて倒されてしまったから。
数日前から戦場になっていた遺跡の町は、今は“戦場だった場所”になっている。

「僕はこうして戦って人を傷付けるために生まれてきたの」
その 戦場だった場所で、僕は、僕のせいで傷付き倒れた人を見おろし、呟くことになった。
僕は、その時、『違う』『そうじゃない』という返事を期待していたんだと思う。
その時、僕の隣りにいたのは白鳥座の聖闘士で、彼ならきっとそう言って、僕の傷心を慰めてくれるに違いないと、僕は勝手に思い込んでいたんだ。
なのに――。

「そうだ」
氷河にそう言われた途端、涙が出てきた。
ううん、最初、僕は、自分が氷河に何を言われたのかわからなかったんだ。
氷河が僕にそんなこと言うはずがないって思ってたから、自分が何を言われたのか咄嗟に理解できなかった。
理解できてから初めて、僕の目からは涙があふれてきて、それは僕自身にもとめることができなかった。
氷河は僕に聖闘士としての覚悟を促すためにそう言ってくれたんだと思う。
それはわかってたけど、僕は、そんな現実を悲しまないわけにはいかなかった。

突然 泣き出してしまった僕に、氷河は驚いたようだったけど、彼は そのまま踵を返して戦場から離れていった。
その場に――ぼくの戦いが招いた結果が冷酷に残っている場所に――僕を一人残して。
氷河は、地上の平和と安寧を守るために戦う責務は負っていても、泣く子をあやす義務は負っていないんだから、それは自然で当然の行動だ。
氷河が僕を慰めてくれるなんて、そんなことを期待する方が間違っている。

僕の この涙は、甘えだとも思う。
実際に僕は聖闘士で、聖闘士として戦わなくちゃならない。
他になれるものもなく、他の何かになる道は僕には与えられなかった。
もしかしたら、戦うこと以外、僕にできることなんかないのかもしれない。
だったら、変な迷いを抱いたりせず、聖闘士として前向きに戦った方が苦しまなくて済むのに――って、そう思ったことは幾度もある。
むしろ、戦うことに迷うたび、僕はいつも自分にそう言いきかせてきた。

僕は聖闘士になったことを後悔しているわけではないんだ。
そんな後悔をするにはあまりにも 聖闘士になったことで得たものが多かったから。
多すぎるくらい多かったから。
聖闘士として戦う中で僕が手に入れた 最も価値あるものは、命も預けられるほどに信じられる仲間たちの存在だったろう。
僕の涙に困って(?)、今は僕を置いてけぼりにした氷河だって、もし僕が戦いの中で危地に追い込まれるようなことがあったら、我が身の危険を顧みず僕を助けようとしてくれるってことを、僕は知ってる。
もちろん、立場が逆だったら、僕も氷河のために同じことをする。
聖闘士になっていなかったら、僕は、それほどの仲間に出会うことは決してなかっただろう――って、それは わかっているんだ。

それだけじゃない。
不幸な子供たちを少しでも減らせるなら――というのが、もともとの僕の望みで、僕が聖闘士であることとその戦いは、僕の望みを叶えるための最も具体的な方策だ。
聖闘士になることで、僕は、自分の生きる目的と、その目的を叶えるための手段をも手に入れることができたんだ。
身も蓋もない言い方だけど、衣食住に困ることのない今の生活だって、聖闘士になったからこそ得られたものだ。
聖闘士にならなくてもいいと言われたって、僕は聖闘士になることを選んでいたのかもしれない。

でも、悲しい。
戦って人を傷付けるために 自分が生まれてきたんだと思わざるを得ないことは、悲しい。
いっそ死んでしまえば――僕が人を傷付けるんじゃなく、僕が人に傷付けられる側の人間だったら――どんなにいいだろうって思うほど、僕は悲しい。

氷河は悲しくないんだろうか。
僕が戦って人を傷付けるために生まれてきた人間だっていうのなら、氷河だって同じものだということになる。
自分がそんなものだってことが、氷河は――氷河は悲しくないんだろうか?
戦って、人を傷付けて、望むものを手に入れられるかどうかもわからないのに。
戦って、幸せになれるかどうかもわからないのに。
それでも戦い人を傷付け続けることが、氷河は悲しくないの?

そんな考え・・を――僕は声にして言ってしまっていただろうか。
「希望のない考え方ね」
突然、金色の髪をした女の人が 僕にそう言ってきて――僕はびっくりした。
氷河みたいな金髪の、氷河みたいな青い目の、氷河みたいに綺麗な人。
氷河の倍くらいは歳がいってそうだったけど。
女性の年齢はよくわからないけど、30は超えてる――30代半ばくらいだと思う。
そんな人が、いつのまにか――聖闘士の僕が気付かぬまに――僕の前に立っていたんだから、僕がびっくりしても、それは当然のことだ。






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