「あの……」 この人は誰。 なぜここにいるの? ここは戦場だ。 ついさっきまで戦場だった場所なのに。 「あの……あなたはどなたですか」 僕の質問の仕方も間が抜けていたと思うけど、 「通りすがりの者だけど」 彼女の答えは、更に珍妙だった。 いくら何でも、それはさすがに信じ難い。 彼女は純白のワンピースを着ていて、まるでこれから子供を連れてピクニックにでも出掛けようとしている若いお母さん――という風情をしていた。 もちろん、彼女が白いワンピースじゃなく 迷彩服を身に着けていたとしても、僕は彼女を通りすがりの誰かと思うことはできなかったろうと思うけど。 彼女は、僕の不審の目に気付いたようで――気付かないわけにはいかなかっただろう。 少しだけ口をとがらせて、彼女は僕の顔を覗き込んできた。 「あら、この服がお気に召さない? これはハロウィンの仮装よ。――というのは、ちょっと時期的に遅すぎるかしら。じゃあ、そうねぇ……」 彼女は何やら考え込む素振りを見せて、しばらくしてから『いいことを思いついた』とでも言うかのように、瞳を明るく輝かせた。 「ここは私が暮らしている町で、私はこの町を守護する神に仕える巫女――というのはどう? デルポイの町の 彼女は、僕が納得するような理由を、わざわざ 僕は彼女の親切に感謝すべき――なんだろうか? 「その私の町に、そんな暗い顔をして落ち込んでる人がいるのは気分がよくないわ。だから、楽しい気分になってもらいたくて、こうして出てきたのよ」 『出てきた』って、いったいどこから? 僕は、何が何だかわからなくて、混乱した。 この遺跡の町に巫女たちが暮らしていたのは 数千年の昔、それこそ神話の時代のことだ。 彼女は、そんな昔から、僕の暗い顔が気に入らなくて、現代にまでやってきた――っていうのか? 永遠の命を持つ神ではない巫女――言ってみれば、ただの人間――が? まさか。 そんなことがあるはずがない。 僕は、真昼間から夢でも見ているんだろうか。 「すみません。あなたをご不快にしてしまったのなら、それは心からお詫びします。けど、僕は、今は、とても楽しい気分には――」 「そうだ。あなたに、未来を見ることのできる力をあげるわ。私は、予言を司る神に仕えていた巫女なの。だから、神様ほどじゃないけど、ちょっとした力を持っているのよ。そうよ。今、思い出したわ。そうだったのよ」 デルポイの 彼女は明るい目をして、まるで歌でも歌うように弾んだ声で、僕の言葉を遮った。 「未来を見ることのできる力?」 「ええ。ただし、一度だけ。一瞬だけ」 「……」 本当に、彼女は何者なんだ? もしかしたら、アテナの聖闘士の心を惑わそうとしている邪神の手先? そんな力を、彼女は本当に持っているのか? 彼女の正体、彼女の言葉。 その真の姿と真意を量りかねて、僕は彼女の前で呆然とすることになった。 そんな僕の前で、彼女は彼女の楽しい思いつきを語り続ける。 「あなたが、このまま死んでもいいと思えるくらい、最高の幸せを感じている未来を、一瞬だけ見せてあげる。自分の未来に、そんな幸せな時があることがわかったら、あなたも希望を持って生きていこうって気になるでしょう?」 そして、希望を取り戻した僕に、楽しい気分になれと? 僕は力なく首を横に振った。 そうすることしかできなかった。 「そんな時は永遠にこない」 そんな時がくるはずがない。 僕が聖闘士である限り。――つまり、僕が僕である限り。 「あら、そうかしら」 「僕が幸せになんて」 このまま死んでもいいと思えるくらい幸せな時が いつか僕の上に訪れるなんて、まさか そんなことが。 僕の未来に そんな時が本当にあるのだとしたら、確かに今の僕でも、彼女の希望通り、少しは楽しい気分になれるかもしれないけど、でも、そんなことはありえない。 そりゃあ、僕は、彼女の半分も自分の人生を生きていない、言ってみれば未熟な一人の子供だ。 でも、僕は、普通に100年を生きた大人より たくさんの苦しみと悲しみを 既に経験してしまった――と思う。 僕の身体は子供のそれでも、僕の心は100歳の老人より擦り切れている。 そういう意味では、彼女は僕より若い。 だから彼女は言えるんだ。 『楽しい気分になって』『希望を持って生きて』なんてことを、こんなふうに簡単に。 こんなふうに楽しげに。 そんなふうに考えて、僕は彼女を羨み、悲しい笑顔を浮かべた。――多分。 でも彼女は、老人のような僕の前で、大人のように語り続けた。 子供にしては、大人びたことを。 「人間が自分を幸せだと感じられる時間なんて、本当は一生に何度もないの。恒常的に幸福でいられる人間なんていないし、永遠の幸福なんてない。だって、普通、人間はいつも自分が幸福かどうかなんて考えないで日々の生活を生きているでしょう?」 「あ……ええ。それはその通りですけど……」 「人生には 束の間の幸福があるだけなのよ。まして、このまま死んでもいいと思えるほどの幸福なんて、ほんの一瞬。でも、その一瞬を、永遠に生きられるほどの力に換える術を持っているのが人間という存在なのよ」 彼女は、相変わらず歌うように楽しく明るい声音で、そう言った。 僕は、その明るさの前で、何ていうか――すごく恥ずかしい気持ちになった。 自分が大人だなんて、そんなことを考えるのは子供だけだ。 大人は、自分が大人だなんて、そんなこと大上段に考えたりしない。 自分は人より苦しい思いをしたとか、自分は人より悲しい思いをしたなんて思うのは、それこそ思いあがりというもので、子供特有の考え方。 彼女が僕より苦労知らずの子供だなんて決めつける権利は、僕にはない。 少なくとも彼女は、僕よりずっと深く、人が幸福になる術を考えたことがある人だ。 僕にはそう思えた。 その人が、僕の目の前で、白い腕と綺麗な細い指をゆっくりと巡らせる。 「ほら、見せてあげる。一瞬だけ」 「えっ」 その瞬間。 ぱっと、ある映像が、僕の視界――ううん、脳裏?――に広がった――。 「あ……あ……」 僕は、そして、信じられないものを見たんだ。 それは、僕が過去に経験したことのない場面で、だから、幻影でないのなら、未来に実現する場面でしかありえない。 それが幻影でないのなら。 僕の知らない僕が、そこにいた。 でも、まさかそんな――。 「何か見えた?」 「あ……の……」 「何? あなたの最高の幸福はどんなものだったの?」 「……」 とても――とても幸運なことに、僕が見たものを、彼女は見ることができないらしい。 彼女は興味津々といった でも、僕は、とても その内容を彼女に知らせる気にはなれなかった。 全身が硬直して――もしかしたら、脳の運動中枢や 唇や舌までが硬直して――僕は声を発することすらできない状態に陥っていた。 だから僕は彼女に何も答えられずにいたんだけど、僕が何かを見たことだけは、彼女にもわかったらしい。 彼女は、ほっと安堵したような笑顔を 僕に向けてきた。 「ああ、でも、よかった。何かが見えたということは、これから先のいつの日にか、あなたが幸福になれる一瞬があるってことよ。あなたの未来には幸福の時が待っているの」 あ……あれが、このまま死んでもいいと思えるほどの、僕の幸福の場面? そんな……そんなはずはないよ! 僕は、声を出さずに叫んでいた。 |