そのことがあってから、僕は氷河を避けるようになった。
この先 僕がもし、このまま死んでもいいと思えるほどの幸福を感じることがあったとしても、僕の幸せは氷河とは関係のないところにあるべきだと思ったから。
僕のうじうじした態度は氷河を苛立たせ、氷河を『少しは幸せに』もできないだろうと思ったから。
日本に戻って、なるべく さりげなく――でも意図的に――氷河を避ける日を数日。
星矢たちが そんな僕を怪訝そうに見詰めていることに僕が気付いたのは、小春日和が続く ある晴れた日の午後のことだった。

僕は以前は氷河と一緒にいることが多かったから、最近の僕の態度が 星矢たちには奇妙に思えるんだろうと、僕は思った。
思ってから、そう・・だったことを思い出す。
そうだ。
僕はデルポイでのあの戦いが起こる以前は、氷河と同じ場所にいることが多かった。
氷河が好んで僕の側に来てくれていたはずはないし、僕も意識して氷河の側にいようとしていたわけじゃないのに。
でも、確かに 以前の僕たちはそうだった。
どうして――そう・・だったんだろう?

その理由を思い出せなくて、僕は、金木犀が今を盛りと咲き乱れている庭に出て、その理由を思い出そうとした。
でもしばらく庭に出ていたら、あの甘く強い香りの中で酔いを感じ始めて――僕は慌てて邸内に戻ったんだ。
花は、僕の思い出したいことを思い出させてはくれない。
その答えを僕に教えることができるのは、僕の振舞いを怪訝に感じることのできる星矢たちだけだろうって思って。
星矢たちに、その答えを教えてもらおうと思って。

僕たちが城戸邸での溜まり場にしているラウンジのドアに、僕が手をかけた時だった。
「なんで、そんなこと言ったんだよ! 瞬が、戦って人を傷付けるために生まれてきただなんて! この頃 瞬が妙におまえを避けてると思ったら……。んなこと言ったら、瞬がおまえを避けるようになるのは当然だろ!」
――っていう星矢の怒声が、ドアを突き破るような勢いで聞こえてきたのは。
星矢が怒鳴りつけてる相手は僕じゃなく氷河みたいだったけど、その大きな声に びくりと身体を震わせることになったのは僕の方だった。

「俺が言ったわけじゃない。瞬がそう言ったから、俺は『そうだ』と答えてやっただけだ」
「賛同しちまったんなら、おまえが言ったのとおんなじことだよ! おまえ、ほんとに馬鹿だな! それじゃ、瞬がおまえを冷たい奴だって思って近寄れなくなったって仕方ねーじゃないか!」
星矢は誤解してる――って、僕は慌てた。
僕が氷河を避けるようになったのは、氷河を『冷たい』なんて思ったからじゃない。
氷河の無愛想も不器用も、僕はちゃんと知ってる。
氷河が『冷たい』なんて、今更 僕がそんなこと思うわけがない。

僕が氷河を避けるようになったのは、僕が氷河を幸せにできないってわかったから。
それどころか、逆に氷河が幸せになるのを阻害しかねないってことを知ったからだよ。
そして、僕が氷河と幸福な時間を共有することは、それこそ見果てぬ夢なんだと思ったから。
絶対に氷河のせいじゃない。
でも、そんなことを知らない星矢は、氷河を責め続けた。

「俺は! 瞬があんまり悲しそうにしてるから、つい――」
「つい? おまえは、瞬が悲しそうにしてると、つい、『おまえは人を傷付けるために生まれてきたんだ』なんて馬鹿なこと言って、更に瞬を追い詰めるのかよ!」
「そうじゃない!」
いわれのないことで仲間に責められて、氷河の声は いつにも増して苛立たしげだった。
氷河が星矢に責められてるのは僕のせいだ。
僕は、ラウンジのドアのこちら側で身体をすくませた。

僕はどうしてこんななんだろう。
僕は今すぐ部屋の中に飛び込んでいって、『氷河が悪いんじゃない』って言わなきゃならない。
一刻も早く そうしなきゃならない。
なのに、そんな時だっていうのに、僕はそうして氷河と目を合わせるのが恐かったんだ。
僕が決して その幸せに関与できない人の瞳を見詰め、見詰められるのが。
そんなふうに、臆病な僕がドアの前でぐすぐずしていたら――まるで不意打ちみたいに、信じ難い言葉が僕の耳に届けられた。
氷河の声で。

「つい、おまえは俺に愛されるために生まれてきたんだといいそうになったんだ……。だが、瞬はそんなことより もっと高尚なことで悩んでるのに、そんなことは言えないし……」
え?
「愛より高尚なことなどあるか」
紫龍が、何か言ってる。
お願い、紫龍。
そんなことより、氷河の――氷河の今の言葉をもう一度聞かせて!
僕は 心から頼んだのに、紫龍は僕の願いをきいてくれなかった。
きかずに、どうでもいいことで氷河を責め続ける。
「それとも、おまえが瞬に向ける愛情は低俗で下劣なのか」
紫龍、そんなこと言わないで。
この世に、そんな愛があるはずないじゃない。

僕は、紫龍の言を 氷河が即座に否定してくれることを願ったんだけど、紫龍同様 氷河も僕の願いを叶えてはくれなかった。
氷河は、苦々しい声で、
「純愛とは言い難いだろう」
と言った。
純粋じゃない愛って、どんなものなの?
そんなものが、僕の知らないところに存在するの?
それはどういうものなの?
ううん、そんなことはどうでもいい。
僕が知りたいのは そんなことじゃなく、僕が氷河を幸せにして、氷河が僕の幸せに関わってくれることが、実現可能な未来なのかどうかってことだけだ。
それだけなんだよ!

僕がドアの外で焦れているように、氷河の言葉は星矢までを焦れったい気持ちにさせたみたいだった。
そういう声で、星矢が氷河を叱咤する。
「それでも言っちまえばよかったんだよ! おまえの恋心の一部が助平心で構成されてたって、そんなのは、瞬が綺麗にしてくれるだろ」
「まったくだ。恋の告白シーンとしては、これ以上望むべくもない最高のシチュエーションだったのに」
星矢と紫龍に責められて、氷河は腹を立てた――んだろうか?
氷河の声は、苛立ちじゃなく憤りでできたものに変わってしまった。
「どこが最高のシチュエーションなんだ!」

このドアの向こうにいる人たちは、ほんとに僕が見知っている僕の仲間たちなんだろうか。
彼等は、氷河が僕を好きでいることが 世の中の常識で、世界存続の大前提と言わんばかりの口調で、氷河の発言の是非を語っている。
僕の仲間の一人らしい紫龍は、氷河の怒声を受けて、そんなこともわからないのかと言いたげな口調で、それが最高のシチュエーションだったことの説明を始めた。
「最高のシチュエーションだろう。戦いの直後で、瞬は深く傷付いている。そこにおまえが切なく熱く自分の恋心を訴えて、瞬の傷付いた心を癒してやる。これを最高のシチュエーションと言わずして、何を最高と言えるんだ。瞬がおまえにほだされるのは十中八九 間違いない――確実だったのに」
「瞬は傷付いて、悲しんでいるんだぞ! そんなところに付け込むような真似ができるか!」

氷河……。
そうだね。
氷河はそんなふうに考えるんだ。
変なところで頑固で、融通がきかない氷河は。
「それでも、そこは、あえて付け込むとこだったんだよ!」
「普段は空気を読まないどころか、人様の存在すら無視した振舞いばかりしているくせに、なぜ そんな時にだけ馬鹿な気遣いを発動するんだ。そんなことでは、いつまで経っても、瞬はおまえの気持ちに気付かないままだろう」

うん。多分。
こうして、氷河たちの話を盗み聞きしなかったら、僕はいつまでも気付かないままだったと思う。
そして、自分が生まれてきたのは戦って人を傷付けるためなんだって開き直って 氷河の前で笑えるようになるまで、氷河を避け続けてた。
もしかしたら、永遠に避け続けてた――。

氷河は、紫龍のその言葉に落ち込んだ――のかな?
僕たちの間にはドアがあったから、僕は、氷河が今どんな顔をしているのかを確かめることはできなかった。
僕にわかったのは、氷河が 紫龍や星矢たちの前で沈黙してしまったっていうことだけ。

僕は―― 一応 悩んだんだ。
今の話を盗み聞きしてしまったことを正直に言うべきか、聞かなかったことにして、このまま黙ってここから立ち去ってしまうべきか。
多分、聞かなかったことにする方が礼儀に適っているんだろうとは思った。
でも、そうしたら いつ、氷河は僕に氷河の気持ちを教えてくれるの?
それが50年後、思い出話としてだったりしたら――。
そう考えたら、僕の背筋は すうっと冷えてしまった。
そんなのは嫌だ!
僕の中の何かが、僕に訴えてくる。
その強い訴えに背中を押されて、次の瞬間、僕は氷河たちのいるラウンジのドアを開けてしまっていたんだ。

氷河は、赤い顔をした僕が突然そこに現われたのに驚いたみたいだった。
でも、それですべてを察したらしく、
「笑ってもいいぞ。そういうことだ」
そう言って、ふいと横を向いてしまった。
星矢が そんな氷河を焦れったそうな顔で半ば睨み、紫龍は――紫龍は、僕があえて礼儀に適っていないことをした理由がわかっていたみたいで、静かに微笑んでた。

そんな仲間たちのいるところで、氷河に何て言ったらいいのかわからなくて、僕は、
「ありがとう」
って、一言だけ言ったんだ。






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