世界は広く、そこには大勢の人間が生きている。
まさかこんなに簡単に氷河に巡り会うことができるはずはない――と自分に言いきかせ、逸る胸を抑えて、瞬は“氷河”との謁見の場に臨んだのである。
そして、謁見のための部屋で 王子の姿を間近に見た時、これは運命の導きだったのだと、瞬は確信することになったのだった。
すべてが――瞬が今 かつての生を終えた時の年齢でこの異国の地にいること、二つの大国の王子と王女の間に政略結婚の話がもちあがったこと、そのために遠方の国の王子がこの国の都にやってきていること、50年という短期間で一つの強大な国が成立したことも、北の大国が数百年前に建国されていたことさえ――すべては ただ、この日のためにあったことなのだと、瞬は確信した。

金色の髪、青い瞳。
懐かしい姿が、瞬の目の前にあった。
その姿が涙のせいで にじんでしまうのを、瞬はどうすることもできなかったのである。

50数年前、二人が戦いに殉じたのは、互いに心を打ち明けあって1年足らずの頃だった。
恋の情熱が最も激しく燃え上がっていた時に、二人の命は無情に断ち切られてしまったのである。
その生に悔いはないつもりだったが、もし命を永らえることができていたなら、もっと長くもっと深く愛し合えていたのだという思いは、瞬の心の奥底に、密やかに、だが消し去り難い重さと強さをもって横たわっていた。

その人に、再び巡り会えたのである。
瞬の記憶に残っている通りに華やかな――輝くような金髪と、空の色をした瞳。
整いすぎているせいで、対峙する人間に冷たい印象を与えることが多いが、それは闘士にあるまじき情の篤さを隠すための鎧のようなもの。
瞬の氷河がそこにいた。

氷河はかつての記憶を取り戻しているのか。
未だ 忘れたままだとして、思い出してくれることはあるのか。
切実な不安と期待が、氷河の前に立つ瞬を動けなくした。
動けないまま――瞬は氷河から目を逸らすことができなかった。
にわか仕立ての謁見の間には 瞬の他にも5、6人の志願者がいたのだが、“氷河”はすぐに瞬の様子が尋常でないことに気付いたらしく、僅かに その眉をひそめることをした。

氷河はかつての記憶を取り戻しているのか。
未だ 忘れたままだとして、思い出してくれることはあるのか――。
瞬のその期待は、二つとも外れた。
彼は、瞬の姿を目にとめても、何らかの衝撃を受けた様子を全く見せてくれなかったのだ。
だが、彼が瞬を無視したわけではない。
彼は瞬の側にやってきて、あわてて涙を拭った瞬の瞳を覗き込み、
「姿が美しいだけかと思ったら、何という瞳だ。こんなに綺麗な子は滅多にいるものではないぞ。下働きなどさせておくのは勿体ない」
と言って、瞬を彼の身のまわりの世話をする小姓に取り立ててくれたのである。

かつての恋人の姿を見ても何も思い出した様子のない氷河に全く失望しなかったといえば、それは嘘になる。
だが、彼は、瞬を気にとめてはくれたのだ。
初めて会う異国の王子に涙している瞬に何か感ずるところがあったのかもしれないし、だとすれば、この先 何かのきっかけで かつての恋人のことを思い出してくれることもあるかもしれない。
瞬は希望を抱かないわけにはいかなかった。
というより、今の瞬には、希望を抱くこと以外にできることがなかったのである。

“氷河”は、ことのほか 瞬を気に入ったらしく、その日から瞬を側近くで仕えさせるように、すべての手配を整えた。
王子の侍従にふさわしい衣服と、外から通ってこなくても済むように小さな部屋も与えてくれた。
現在の瞬は、その人となりを保証してくれる者とてない、いってみれば、どこの馬の骨とも知れない人間である。
しかも、氷河は記憶を取り戻していない。
これも運命の為せるわざと、瞬は自分を得心させることができたのだが、人に誇れる身分もなく 出自も確かでない者に与えられる厚遇を、瞬以外の者たちは大いに訝ったようだった。
身仕舞いを整えた瞬の姿を見て、大半の者はすぐに納得したようだったが。

「どうしてこんなに僕によくしてくださるんですか」
と、瞬が尋ねると、氷河は、
「私を見詰める そなたの目がとても優しくて――幼い頃に失った母を思い起こさせるのだ」
と答え、瞬に懐かしいものを見るような目を向けてきた。
その眼差しは、瞬の抱いていた希望を更に大きく膨らませることになったのである。

“氷河”は、身分に驕ったところのない気さくな青年で、氷河がもし生まれながらの王子様であったなら きっとこんなふうだったに違いないと、瞬に思わせてくれるような人物でもあった。
瞬は 再び氷河の側にいられる自らの幸福に酔い、それゆえ、しばらくの間、彼が何のためにここにいるのかをすっかり忘れてしまっていた。
瞬が、その事実を否応なく思い出さざるを得なくなったのは、瞬が彼に仕えるようになって5日が過ぎた頃。
何かと理由をつけては王宮に赴くのを先延ばしにしているようだった彼が、これ以上の先延ばしはできないと観念して この国の王の居城に出掛け、初めて彼の未来の妻となる姫君に会った日のことだった。

彼は仮の住まいとしている館の部屋に戻るなり、その瞳を輝かせて、王子の帰館を待っていた瞬に、彼が会った姫君のことを嬉しそうに語り始めたのである。
「今日、初めて正式に私の妻になる姫君と会ってきたんだ。両国にどれだけ益をもたらすのだとしても、これは政略結婚に変わりはないし、気乗りがしていないところもあったんだが、思っていた以上に美しく可愛らしい姫君で安堵した。彼女なら、私も、一国の王子としての義務抜きで愛することができるようになるかもしれない。優しそうな姫君で、はにかんだような笑顔も愛らしくて――。何はともあれ、とんでもない姫君でなくてよかった。よくないことだけを考えては、王子としての義務を果たせと必死に自分に言いきかせていたんだが、すべて杞憂だったな」

こまごまとした日々の世話をさせて すっかり気安くなっていた瞬の手に、身につけていた上着と腰に佩いていた剣を放りながら そう言って、彼は瞬に満面の笑みを向けてきた。
人のいい彼は、瞬が二人の初めての対面が首尾よくいくかどうかを案じてくれていたものと信じているようだった。
彼が瞬に見せた笑顔は瞬の心を安んじさせるためのものだったかもしれないが、それは決して無理に作ったものでもなかっただろう。
氷河の瞳は曇りひとつなく明るく輝いていた。
彼の婚約者たる姫君はそれほど可憐で、彼の心に沿う姫君だったに違いない。

幸せに輝く氷河の笑顔を、瞬は――瞬こそが――無理に作った笑顔で受けとめることになった。
許されるのなら、瞬は笑顔など作りたくなかったのである。
氷河の嬉しそうな報告を聞かされて、瞬の心は呆然としていたのだ。
すべてが――瞬が今 かつての生を終えた時の年齢でこの異国の地にいること、二つの大国の王子と王女の間に政略結婚の話がもちあがったこと、そのために遠方の国の王子がこの国の都にやってきていること、50年という短期間で一つの強大な国が成立したことも、北の大国が数百年前に建国されていたことさえ――すべては 二人が再び巡り会うための運命の導き。
今はまだ時が満ちておらず、それゆえ氷河はかつての恋人のことを思い出す気配もないが、辛抱強く待っていれば いつかきっと――と、瞬は信じていた。
だというのに、氷河は、彼の未来の妻に恋をしかけている。
否、もしかしたら既に 彼は恋に落ちてしまったのかもしれなかった。

幸せそうな笑顔を浮かべている氷河を見て胸が痛むなどという事態は、以前の瞬であれば考えられないことだった。
以前は――二人が恋人同士だった頃には――氷河が幸せでいることは、瞬を喜ばせることでしかなかったのだ。
だが、今 瞬の胸は確かに痛みを感じていた。
瞬の胸は、氷河の幸福そうな笑顔を喜ぶどころか、氷河に早く以前のことを思い出してほしいと、それだけを願っていた――祈るように、願っていたのである。

幸福な王子は、だが、瞬のそんな胸の痛みに気付いた様子も見せなかった。
「そのうち、瞬にも会わせてやろう。本当に可愛らしい姫君だったから、彼女には 瞬でも恋するかもしれないぞ」
彼は、楽しそうに冗談口調で瞬にそんなことを言いさえした。
「あ……」
よもや氷河にそんなことを言われることがあろうとは。
たとえ冗談であったにしても――冗談なのであれば なおさら――これほど残酷な言葉もない。
だが、今の瞬は、そんな傷心より焦慮の気持ちの方が大きかった。

これまでは、いつかは思い出してくれると信じているだけだったものが、今では、瞬は、一刻も早く、取り返しのつかないことになる前に、氷河に かつてのことを思い出してほしいと願い、焦っていた。
すべてを思い出して、その上で氷河が姫との婚姻を一国の王子の逃れられない義務と考えるのなら、仕方がないと思うこともできる。
だが、思い出してもらえないまま、氷河が自分以外の人間と結ばれるのを見ることは、瞬には耐えられる苦痛ではなかった。
否、受け入れられる人生ではなかった。






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