瞬の不安と焦慮をよそに、翌日から氷河は、あれほど避けていた王宮に足しげく通うようになった。
そして、瞬は、彼が帰館するたびに、いかに彼の婚約者たる姫君が可憐な姿をしているか、優しい気質の持ち主であるかといった話を聞かされることになったのである。
氷河の話から、姫もまた氷河に好意を抱き始めていることは容易に察せられた。

大きな勢力を持つ二つの大国は、その間に具体的な争いの種があったわけではないが、互いが互いを目障りな存在と思っていた節がある。
そんな中で持ち上がった政略結婚の話。
姫は、絶対に愛せないだろうと思われる相手でも、見ず知らずの異国の王子を 夫として受け入れなければならないと覚悟していたに違いなかった。
その政略結婚の相手が思いがけず若く美しい王子であったなら、不安に揺れていた姫君の心が浮き立つのは ごく自然の成り行き。
それは氷河も同様のようだった。

その上、二人は身分もつり合い、二人の結びつきは大国同士の反目を解消する有益なものでもある。
若く美しい二人の恋は、姫の国の民からも氷河の随行の者たちからも歓迎されていた。
誰もが二人の恋を喜び、祝福し合っていた。
ただ一人、瞬を除いて。
婚姻の儀式の日が近付くにつれ 華やぎの増してくる館の中で、瞬だけが、喜びの輪から外れた場所に、ひとりぽつんと所在なげに佇んでいたのである。


「婚姻は決まっているとはいえ、正式に結婚の申し込みをしなければ。瞬、ついてきてくれるな」
氷河がそんなことを言い出したのは、10日後には都の大聖堂で二人の結婚式が挙行されるという日の朝。
王子の故国から、帰国後の祝典の準備も着々と進んでいるという報告が入るようになった頃だった。

「僕のような身分の者が、神聖な求婚の供になど……」
そんな場面に立ち会うことなどとてもできないと、瞬は固辞したのである。
そんな場面を己が目で見たくはなかったから。
しかし、氷河は、瞬の遠慮を許してくれなかった。
「神聖な求婚なればこそだ。私は、政略結婚の相手に嫌々ながら求婚するのではなく、心から愛せると信じている人に求婚しに行くのだ。身分の高い臣下や、俺に王子としての義務を説く しかつめらしい老人を従えて行くより、おまえの方が はるかに私の求婚の場の立会人にはふさわしい」
残酷なことを、幸福そうな笑顔で氷河は言う。

『要するに、非公式のことだから』と言われて、瞬は結局 彼の命に従わざるを得なくなってしまった。
瞬の中には、氷河が自分以外の誰かに求愛する場面など 死んでも見たくないという思いがあったが、同時に氷河が恋している姫君を自分の目で見てみたいという思いも あったのである。
彼女が美しく優しい姫君でも、あるいは 氷河が言うほどの姫君でなくても、自分が傷付くことはわかっていたのだが。

氷河の非公式の求婚の計画は、若く夢見がちな姫君を心から喜ばせたらしい。
瞬が初めて見た氷河の妻となる女性――というより、彼女はまだ少女だった――は、氷河に幾度も聞かされていた通りに可愛らしい姫君だった。
生まれてこの方、一瞬たりとも悲しい思いや苦しい思いを経験したことがないというような、しいて言うならこの政略結婚の話が 彼女の人生の最初の試練だったような、そんな笑顔。
深みはないが 素直で明るい瞳は、彼女を見る者の心を軽くする。
氷河が恋した相手は、そんな姫君だった。

恋の喜びに頬を輝かせた姫君は、氷河の求婚に、
「お受けします」
と答え、それでなくても薔薇色に輝いていた頬を更に一層上気させた。
幸福で美しい二人のそんな場面を、氷河の従者として、瞬は目の当たりにすることになったのである。
二人の前で涙をこぼさずにいられたのが、瞬は自分でも不思議だった。
その場で瞬が泣き出したとしても、氷河は、『他人の求婚に感激して泣き出すとは、瞬は感受性が強いんだな』程度のことしか言わないだろうことはわかっていたのであるけれども。

――涙は出なかった。
ただ、瞬は呆然としていた。
あの誓いを氷河は忘れてしまった――という事実の前に、瞬の心はただ、あらゆる感情がどこか遠いところに飛び去ってしまったかのように空虚なものに成り果ててしまったのである。

氷河がかつての自分とかつての恋人のことを忘れてしまったとしても、それは忘れても仕方のないことなのだとは思う。
二人は以前とは違う人生を生きているのだから。
人間の生とは、本来そういうものなのだ。
たとえ何者かの生まれ変わりであっても、人は前世の記憶を失ってこの世に生を受ける。
かつては敬虔な神の信徒であった者が、別の生では神を冒涜する者であったり、かつては尊大な封建領主だった者が、次の生では虐げられる側の人間であったりすることもあるだろう。
かつては聖闘士であった者が 邪神の手先に成り果てることも ありえないことではないのだ。
それは、ごく普通にありえること。
一個の人間を作るものは、前世の記憶ではなく、現世の環境なのだから。

それはわかっていても、それでも、氷河が自分以外の人を愛し、その人に幸福を与え、また与えられていることが、瞬は悲しく、苦しかった。
氷河は忘れてしまっていても、瞬には 二人が恋人同士だった頃の記憶が残っていた。
その記憶が、今の瞬を苦しめるのだ。
幸福な二人の求婚の首尾を見届け、帰館し、部屋に閉じこもってから、瞬の乾ききっていた瞳には やっと涙が戻ってきた。
そして、一度 瞳からあふれてしまうと、それは止めようがなかった。

これは自然な成り行きなのだと自分に言いきかせる側から、『なぜ !? 』という叫びが生まれてくる。
なぜ氷河は忘れてしまったのか。
なぜ氷河は思い出してくれないのか。
氷河にとって あの約束はそれほど軽いものだったのか。
実は氷河は前世でも その言葉ほどには自分を愛してくれていなかったのか――。
どれほど考えても、どれほど嘆いても どうにもならないことを、瞬は考え、嘆き続けた。
小さな寝台に突っ伏して、懸命に声を押し殺し、瞬は嘆き続けた。

そんなふうに、一晩を泣き明かして、窓から朝の光が差し込む頃、瞬は、聖闘士であった頃の彼であったなら決して考えなかっただろうことを考え始めていたのである。
死を――瞬は考え始めていた。

氷河の心は、今の彼にふさわしい姫君の上にある。
その残酷な事実を否応なく見せつけられてから、瞬は毎日をぼんやりと過ごすようになったのだが、幸福な氷河は、瞬のその様子にも全く気付くことはなかった。
それどころか彼は、家族も恋人もいないのなら帰国の際には瞬も伴いたいと、そんなことを明るい笑顔で 瞬に提案してきさえした。
一国の――しかも大国の王子が、一介の孤児にそこまでの厚意を示してくれているのである。
それは本来は喜ぶべきこと――少なくとも光栄に思ってしかるべきことだったろう。
だが、それは、瞬にとっては地獄に招待すると言われたも同然の厚意だった。

以前は、それこそが瞬の喜びであった、氷河の幸福な姿。
今は、それを見ているのは地獄の責め苦を負わされている以上の苦痛。
だが、せっかく巡り会えた氷河と離れて生きられるのかと自身に問うと、それもまた悲しく、瞬は安易に決断することができなかった。
聖闘士としての務めを負っていない今の瞬にとって、氷河に巡り会うことは、唯一の生きる目的だったのである。
氷河と離れて生きることは、目的のない生を生きることだった――死を生きることだった。






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