「それの処分は俺がする」 そう言って、青年が、瞬の手にしているものを奪い取ろうとする。 瞬は咄嗟に身を引いた。 「あなたは誰。何の権利があって――」 「一応、王子の身辺警護に雇われた者だ。ろくに仕事はしていないが、権利はあるだろう。なくても、俺は人死には御免だ」 彼は、たった今まで瞬自身も気付いていなかったことを、もしかしたら瞬より先に察していたらしい。 瞬は、その事実にぼんやりと驚き、緩慢な動作で彼の顔を覗き込んだ。 瞬が見上げたそこにあったものは、何を映しているのかもわからないほど黒い瞳だった。 いったい何がこれほど深い闇を彼にもたらしたのかと疑わずにはいられないほどに黒い瞳。 彼の瞳の色は、この世に 真に黒い瞳を持つ人間はいないと信じていた瞬をひどく驚かせることになった。 恐くて、3秒と続けて見詰めていられない。 そんな瞳の持ち主が、すべてを見透かしてでもいるかのように冷めた様子で瞬を見おろしていた。 瞬は反射的に彼の瞳から視線を逸らしたのである。 そうしてからやっと心を安んじて、瞬は彼に告げることができた。 「……僕が殺そうとしているのは僕自身だよ。これを僕以外の誰かに使おうとしているわけじゃない」 「生きている人間には、確かに死を選ぶ権利があるが、生き続ける義務もある。生きていろ」 初めて会ったばかりの人間に、なぜそんなことを言われるのか。 自分は そんなに暗く思い詰めた顔をしているのか。 あるいは死相でも出ていたか――。 そうなのかもしれないと、瞬はそんな自分を自嘲し、同時に深く哀れんだのである。 彼の言うことは正論だが、正論を言うことや受け入れることは、幸福な人間だけに許された特権だと、瞬は思った。 つまり、彼は幸福な人間なのだ。 そんな人間が 不幸な人間に分別顔で正論を説くのは無慈悲な思いあがりというものである。 「そんなことを僕に指図する権利は、あなたにはないでしょう! こんなに悲しいのに、どうして生きていなきゃならないの! 僕は死にたいんだっ。死にたい、死にたい、生きていたくない!」 自分でも信じられないほど鋭い声。 そして、瞬のそんな声とは対照的に、彼の声は抑揚が全くなかった。 「それでも生きていろ」 「無理だよ! 氷河が! 僕の氷河が!」 “氷河”が“瞬”を忘れてしまった――のだ。 氷河が、瞬でない人間に恋をして、その人のために幸せになっている。 瞬は生きる目的をなくしてしまった。 生まれ変わった目的を失ってしまったのだ。 目的なく人間が生きているのは、命と時間の無駄使いだろう。 『生きていること』が幸福な者の正論なら、『死ぬこと』こそが不幸な者の正論だった。 「僕の氷河が、僕の氷河じゃなくなってしまった……」 呟くように口にした その言葉が――瞬自身の言葉が――鋭利な刃物の切っ先のように、瞬の胸を傷付ける。 自分で自分を傷付けて、瞬は その傷口に呆然とすることになった。 「氷河……ね。そんなにあの男が好きなのか」 黒髪の男が瞬を見おろし、どこか投げやりな口調で尋ねてくる。 彼は 氷河の身辺警護に雇われた者だと言っていた。 では、彼は、瞬が王子に気に入られ、分不相応に遇されていることも知っているのだろう。 瞬の絶望を、王子の寵臣がその寵愛を失いかけて取り乱しているだけのこと――と、彼は思っているのかもしれなかった。 今の瞬には、彼の誤解を解く気力もなかったが。 「僕の氷河だもの」 「あの男がおまえに優しくしてくれたのか。おまえを特別に思い遣り、特別にいたわってくれたのか」 「それは――」 「だとしても、あの男は、ただ自分の周囲に綺麗な人間を置くのが好きなだけだ」 「……」 現世の氷河には、確かにそういう志向があるようだった。 彼は、美しいものをたくさん欲しがる。 美しいと感じるものはたった一つあればいいと考えているようだった瞬の氷河と 現世の氷河は、そこが大いに違っていた。 この黒い瞳の青年も、そのせいで氷河に雇われることになったのだろうと、瞬は思ったのである。 小間使いや料理人なら現地調達の方が効率的だろうが、故国から連れてきた兵がいくらでもいるのに、わざわざ異国で身辺警護の者を雇い入れる必要など、氷河には全くないのだ。 瞬の好みではなかったが、彼の面立ちは非常に端正で、その風貌は印象的だった。 つややかな黒髪と夜の闇のように黒い瞳は異国的で、幸福な人間であれば、素直に彼を美しいと思うこともできるのだろう。 幸福な人間であれば。――今の氷河なら。 「それは、だって……氷河は、僕が僕だってことに気付いていないんだもの! 思い出せていないんだもの! 特別でなくたって仕方ない。でも、僕のこと思い出しれたら、きっと……!」 事情を何も知らない人間相手に何を言ってるのかと、瞬は、自分で自分の振舞いを怪しんでいたのである。 だが、瞬は叫びたかった。 誰にもわかってもらえなくても、声に出して叫びたかったのだ。 でないと、身体の内にたまっていくばかりの苦しさが、やがては自分を石像のように動けなくしてしまうような気がしてならなかった。 「思い出してしまった時には、きっと氷河はもうあの姫君と結婚している。僕がいたら、氷河は気まずい思いをすることになる。だから、僕はいない方がいいんだ」 「自分に仕えていた者が死体になって出てくるのも迷惑だろう。生きていろ。どんなに悲しくても、つらくても。そのうち何かいいことに出合えるさ。何もかもよくなる時がくる」 何もわかっていない人間が、したり顔で、絶望している人間に、生きる希望を持つ人間の正論を吐く。 どうして幸福な人間というものは こんなにも残酷なのだろう。 瞬は、切なく苦しく 眉根を寄せた。 「そんな時はこない。氷河が……氷河が……」 「考えを変えるまで放さん」 幸福な人間は、不幸な人間に対して、あらゆることに優越し、どんな権利も持っているというのだろうか。 彼は、毒草を握りしめている瞬の右手を掴みあげた。 まるで、自分こそが この世の王であり、自分は何をしても許される立場にあるのだというような顔をして。 「放してっ」 「だめだ」 「だって、氷河が……もう一度会おうって約束したのにっ!」 「人の心は変わるものだし、それを責めることは誰にもできない」 「氷河の心は変わらないよっ!」 叫んでしまってから、瞬は、またしても自分が発した言葉に傷付くことになってしまったのである。 こんなにも必死に、自分はいったい何を訴えているのかと思う。 氷河の心は、現に変わってしまったではないか。 だからこそ、彼のかつての恋人は これほどまでに打ちひしがれ、死を考えてさえいるのだ。 悲しい その現実を思い出した途端、瞬の瞳からは涙があふれてきた。 瞬の涙に驚いたのか、瞬の腕をきつく掴みあげていた男の手から力が抜けていく。 その時、瞬は――なぜだろう。 今 彼に この手を離されてしまったら、自分をこの地上に結びつけ引きとめていてくれるものがなくなってしまうと、恐怖にも似た思いで思ったのである。 だが、氷河によってもたらされた、胸を締めつけるような悲しみと苦しみからは逃れたい。 矛盾した二つの思いが、瞬を彼の胸にすがりつかせた。 「氷河が……! 僕の氷河が……!」 瞬は、今日 初めて出会った、恐ろしいほど黒い目をした男の胸の中に飛び込み、しがみつき、そして、あろうことか そこで声をあげて泣き出してしまったのだった。 まるで憎悪か悔恨のように強い力で瞬の手首を掴んでいた人の手が、そんな瞬の肩に そっと置かれる。 彼の優しい所作を意外と思う余裕は、今の瞬にはなかった。 今の瞬はただ、思いきり声をあげて泣くことのできる場所に出会えたことが嬉しくて、その嬉しい邂逅に身を委ねることしかできなかった。 すがりつけるものに、やっと出会えたから――瞬の手はもう あの毒草を握りしめてはいなかった。 |