彼は、ただのお節介な正義感なのかもしれない。
彼は、自分を、氷河の身辺警護に雇われた者だと言っていた。
であれば、彼は、氷河の身に何か起きた際に責任を問われることを恐れて、その危険を排除しようとしただけだったのかもしれない。

それでもいいと、瞬は思ったのである。
きっかけは何であれ、彼がその日以降、瞬に、兄のように優しく接してくれるようになったことに変わりはなかったから。
彼の優しさは、かなり――ぶっきらぼうなものではあったが。

氷河が姫君の許に馳せ参じ、瞬が庭でぼんやりしていると、彼は必ず瞬の側に来てくれた。
何を言ってくれるわけでもなく、何をしてくれるわけでもないのだが、瞬が一人でいる時には必ず、瞬の側にいてくれた。
涙がこぼれそうになると、優しい言葉ではなく、感情の伴っていない睥睨で、瞬の涙を止めてくれた。

子供のように彼の胸で大泣きしてしまった瞬は、今更 彼の前で大人を気取ることもできず、自分に近寄るなと言って 彼を突き放すこともできなかった。
できるわけがない。
彼が側にいることは、瞬にとっても心地良いことだった。
ひとりぽっちでいなくて済むということは、心の安らぐことだった。

信じてもらえると期待はせずに、瞬は自分の前世でのことを彼に語ってみたのである。
散々 取り乱し、みっともないところを見られてしまったあとである。
彼に 狂人の類と思われてしまうかもしれないという恐れも、瞬の中には既になかった。
瞬の語る話を、彼は無言で聞いてくれた。
『信じる』とは言ってくれなかったが、彼は瞬に『信じない』とも言わなかった。

彼は、やはり この国の人間ではなかった。
瞬と同じように 旅の途中に王子見物にきて、見物対象であったはずの氷河に、酔狂で雇われた(と彼は言った)らしい。
宿泊すれば謝礼をもらえる期間限定の宿を確保しただけのつもりだった――と、彼は瞬にぼやいた。

「氷河は綺麗な人が好きだから。あなたはとても――綺麗って言うのかな? 顔立ちは整っているけど、綺麗っていうより印象的って言う方が当たってるみたい」
「印象的? それはないな。俺は王子が王宮以外の場所に外出する時には大抵 奴の側にいた。おまえも幾度か俺の姿を見ていたはずだ。おまえは、あの派手ななりをした王子ばかり見ていて、俺に気をとめたことは一度もなかった」
「あ……」

怒っているようではないのだが、喜んでいるようでもない。
瞬には気まずく感じられる事実を淡々とした口調で語る彼の前で、瞬は肩を丸めて俯くことになった。
「ご……ごめんなさい」
瞬がしょんぼり項垂れても、彼は兄のように・・・・・瞬の頭を撫でてくれたりはしない。
彼の慰め方は、いつもひどくぶっきらぼうだった。

「まあ、奴が自分の周囲に美形をはべらせておくのが好きなのは事実のようだな。政治的な力を持ちかねない役職の者は、美醜にこだわらずに選んでいるのは さすがと言うべきところなのかもしれないが、美形が不作の時期や、逆に大豊作すぎた時には どうするつもりなのかと、人ごとながら心配になる」
「不作の時には、氷河は自分一人で着替えをして、自分の剣で我が身を守ると思うよ。氷河の綺麗好きは徹底してるから」
「なら、不作が続いた方がいいな。そうすれば、手のかからない立派な王子様ができあがるだろう」
「その意見には、僕も賛同しないわけにはいかないみたい」

彼と他愛のない会話を交わしながら、くすくす笑い声を洩らしている自分に気付き、瞬は、浮かべてしまった笑顔に一瞬遅れて、そんな自分に驚くことになったのである。
瞬が笑い声を途切らせようとしていることに気付いたらしい彼が、すかさず、
「おまえは笑っている方がいいぞ」
と、瞬に釘を刺してくる。
おかげで、瞬は 慌てて落ち込み直すこともできなくなってしまうのだった。

彼とそんなふうな時間を過ごしているうちに、瞬は死を考えないようになっていった。
一度 死に損なうと、人は もはや生きるしかないと開き直るようになるものなのかと、瞬は思ったのである。
思いながら、彼の顔を覗き込んだ瞬は、そうではないことを知った――自分が開き直ってしまったのではないことに気付いた。

瞬がもし、その命を絶ってしまったら、彼はおそらく知り合いの死を悲しむだろう。
悲しまないにしても、憤ることはするに違いない。
今は幸せの絶頂にいるような氷河とて――たとえ短い時間ではあっても、気に入りの召使いの死は、その心に影を落とすことになるだろう。

自分の死を悲しむ人がいるのだと思うと、人は死を選ぶことができなくなってしまうのだ。
つまり、自分が一人きりで生きているのではないということを知ってしまった人間は。
あるいは、瞬の絶望は、誰かを悲しませるようなことをしてまで忘れたいと願うほど深いものではなかったのかもかもしれない――深いものではなくなりつつあったのかもしれない。
瞬は、絶望の淵から這い上がりつつあった。
毎日、『姫君が』『姫君は』と幸せそうに未来の妻の話を繰り返す氷河に、
「奥方様になっても姫君と呼び続けるおつもりですか。今のうちに、どう呼ぶかを考えておいた方がいいですよ」
と、笑って冗談を言えるところまで。






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