氷河と姫君の結婚式の日は、世界中が二人を祝福しているかのように、朝から晴れ渡っていた。 さすがに公式の場に、無位無官の瞬の列席は許されない。 その日、婚礼用の豪華な衣装を身に着けた氷河が大聖堂に向かう馬車に乗り込むのを見送ったあと、瞬は、晴れた空の下にある庭に出た。 笑顔で氷河を送り出せたことに安堵して すっかり気が抜けてしまった瞬が、庭の傍らにある石のベンチに、静かに腰をおろす。 そうして、そこで、晩秋の優しい陽の光を眺めるともなく眺めていると、彼が来てくれた。 「大丈夫か」 「はい。氷河が優しい姫君と幸せになってくれるなら、それでいい」 それでも瞬の目には涙がにじんできたが、『氷河が幸せになってくれるなら、それでいい』という言葉に嘘はなかった。 そんな瞬を、彼が心配そうな目をして見おろしてくる。 何を映しているのかわからないような黒く深い瞳。 だが、瞬は、だんだん彼の表情が読み取れるようになってきていた。 彼の素っ気ない言葉の真意が わかるようになってきていた。 態度も言葉も、冷淡に思えるほどぶっきらぼうで皮肉めいてさえいる彼が、実は非常に優しく情の深い人間だということが、今では瞬にはよくわかっていたのである。 だから、彼のために、瞬は笑った。 最初は、彼を心配させないために作ったはずの笑顔が、それでも心配顔のままでいる彼を見ているうちに自然な笑みに変わっていく。 「そんな心配そうな顔しないで。本当にもう大丈夫です」 「ならいいが……」 初めて自分の足で立って歩こうとする我が子を はらはらしながら見守っている若い父親のような彼の目と声。 初めて出会った時、どうして自分はこの人を恐いなどと思ったのか、今となっては瞬は それが不思議でならなかった。 優しい人の前で、大きく息を吸い、時間をかけて吐き出す。 それから瞬は、一度きつく唇を引き結んだ。 「人の生は一度限りのもので――だから人は、自分に与えられた命を悔いなく、よりよい生を生きようと努力する。なのに、もう一度氷河と生きたいって欲張った僕が悪かったの。もう一度 氷河に抱きしめてもらいたいって思った僕がいけなかった。これは、望んじゃいけないことを望んだ僕に、神様が与えた罰なんだ。僕は、その罰を真正面から受けとめなきゃならない」 「……」 瞬のその言葉を聞いた彼が初めて――やっと、心配顔を消し去る。 次に彼の瞳に浮かんだものは、どこか苦しげな――苦しげな何か、だった。 「誰もが――どんな魂も生まれ変わることがあるのかどうかは知らないけど、人は過去のことを忘れて、新しい命を生き始める。たった一度だけ、初めて与えられた命、二度とない生を、人は新しい心で一生懸命に生きるの。氷河はそんなふうに生きている。そして、僕じゃない人と幸せになろうとしている。それは正しいことなんだ。氷河の生き方こそが正しい。僕の氷河なんだから 僕を愛してくれるって、僕は勝手に信じてたけど、それはとんでもない思いあがりだった。ただの我儘だった。僕は氷河のために何もしてあげられないし、事実 何もしなかった。運命がすべてを僕の望む方に導いてくれるはずだって考えて、安穏としていただけだった。氷河が、与えられた境遇の中で懸命に幸せになろうとしている姫君を愛するようになるのは当然のことだよ。そんな氷河を、僕は誇らしく思う」 「瞬……」 それは心からの――瞬の本心からの言葉だったのだが、彼は瞬に痛ましげな目を向けてきた。 瞬は、彼に、そんな目をさせたくなかったので――彼のそんな目を見たくはなかったので、顔を空に向けたのである。 瞬が視線を投じたそこには、瞬を愛してくれていた頃の氷河の瞳と同じ色の空があった。 「僕ねえ、前世では、氷河に生きててほしくて、そのためになら何でもした。氷河に幸せになってほしくて、そのために僕にできることは何でもした。あの頃の僕は いつも一生懸命で――自分で言うのも何だけど、すごく健気だったと思うんだ。だから、氷河だって僕を愛してくれた。今の僕は、僕の氷河だって きっと愛してくれない」 「そんなことは――」 言いかけた言葉を、彼は途切らせた。 慰めの言葉の代わりに、励ましの言葉を口にする。 「これから何かをすればいい」 瞬は、彼に大きく深く頷いた。 「とりあえず、氷河を笑顔で祝福することから始めるよ」 「ああ。おまえくらい綺麗で素直だったら、そのうち“氷河”なんかよりずっといい奴に巡り会えるさ」 「それは無理だよ。僕の心は前世の記憶で氷河に縛られているから。でも、別の幸せを探せるように頑張ってみるよ。そのために――僕は新しい命を与えられたんだもの」 今は素直にそう思うことができる。 そう思うことができるようになった自分に――人間の心のたくましさに――ほっと安堵して、瞬は掛けていたベンチから立ち上がったのである。 「僕、ギリシャに行こうと思っているの。もともと、ここは寄り道だったし」 聖域には何かがあるだろうと、瞬は思っていた。 氷河はいなくても、生きていくための新しい目的を、アテナの許でならきっと見付けることができるだろうと。 「ありがとうございます。あの時、あなたに止めてもらえなかったら、僕はきっと死を選んでいた。氷河を恨みながら、僕は誰よりも不幸な人間だって思いながら……。僕が そんな愚かな死に方をせずに済んだのは、あなたのおかげです」 心からの感謝と共に、瞬は、彼の命の恩人の前で深く腰を折った。 「いや……」 大仰な謝意を受けるのは苦手だったのか、彼が困惑したように、あらぬ方向に視線を泳がせる。 彼のそんな様子に苦笑した瞬は、そして、その時初めて気付いたのである。 この館を出、この国を出てギリシャに行くという決意は、この人との別離を意味するものだということに。 寂しい――と、瞬は思った。 寂しい。 胸が締めつけられるように寂しい。 彼がいたから、瞬は死なずに済んだ。 彼が側にいてくれたから、瞬はこれまで何とか生きてこれたのだ。 この人と別れてしまったら、自分はまた心弱い人間に逆戻りしてしまうのではないかという不安に、瞬は囚われた。 こんなことではいけないと、もちろん瞬は思ったのである。 だが同時に、瞬は、もし今ここで彼に『ギリシャに行くのはやめて、あなたと一緒にいたい』と言ったら彼は迷惑に思うだろうか――と、そんなことを考えたのだった。 彼には彼のしたいこととすべきことがあるのだと、瞬はすぐに思い直したが。 「名前……」 「ん?」 「僕、あなたのお名前を聞いていませんでした。なんておっしゃるの」 「……」 それほど答えにくいことを聞いたつもりはなかった。 特に他意もなく――瞬はただ、これから寂しさに耐えられなくなった時に、彼の名を口にして自分を励ます力にしたいと思っただけだった。 むしろ、あまりに遅すぎた問いかけ。 しかし、彼は、瞬が尋ねたことに、すぐには答えを返してくれなかったのである。 瞬に与えられたものは、彼の名ではなく、長い沈黙だった。 「あの……?」 決して無理に聞き出すつもりはなかったのだが、それにしても この沈黙はおかしい。 瞬は恐る恐る彼の顔を覗き込んだ。 彼の長い沈黙は、瞬に名を名乗るべきか否かを迷っていたために作られた沈黙だったらしい。 彼を見上げている瞬の瞳を見詰め、見おろし、更に迷い、そうしてから彼はついに意を決した――ようだった。 ほんの一瞬間、彼らしくない気後れを見せてから、彼は彼の名を口にした。 「氷河だ」 と。 「え……?」 「 「……」 何を映しているのかもわからないほど黒い瞳。 いったい何がこれほど深い闇を彼にもたらしたのかと疑わずにはいられないほどに黒い瞳。 なぜ気付かなかったのだろうと、瞬は自らを訝ったのである。 たたえている色は違っていても、そこにあるのは、瞬の氷河の瞳で、瞬の氷河の眼差しだった。 優しさと激しさと、懸命に隠している傷付きやすさを見え隠れさせている、“氷河”の瞳だったのだ。 「氷河……なの……」 呆然として、かすれた声で、瞬は、懐かしい人の名を呟くことになったのである。 |