瞬と氷河がスーツを着込んで出掛けたのは、それが沙織の名代として出向くオペラ鑑賞だったからだった。 『庶民からセレブまで、幼稚園のお遊戯発表会から本格オペラまで』と銘打たれた そのホールの売り物は、世界最高水準の音響効果と、完璧な防音壁によって4つに区切り、同時に異なるイベントを開催することも可能な円形大ホール、スイッチひとつでロイヤルボックスを立ち見席に変えることもできる機能性。 そのホールの要と言うべき防音壁の設置にグラード財団の研究室が開発した技術を提供したとかで、こけら落としのオペラに沙織が招待されることになったらしい。 沙織当人が辰巳を従えて行く予定だったのだが緊急の用事が入り、急遽 代理が立てられることになったのである。 「主催者側は、とにかく空席を作りたくないらしいのよ。公演中は眠っていてもいいから、お願い」 と沙織に言われたのは瞬ひとりだけだったのだが、瞬が彼女に『諾』の返事をした時点で、当然のごとく氷河の同道が決定した。 そして、沙織のために用意されている席は、当然のごとくロイヤルボックス。 とても安手のジャケットを羽織って行けるようなものではなかったのである。 が、なにしろ瞬は、蜘蛛の次にネクタイが苦手な人間である。 瞬は帰宅するなり自室に駆け込み、着替えを済ませてから、ラウンジに戻ってきた。 そうして、そこで見覚えのあるコートがソファの背もたれに掛けてあるのを見付けた瞬は、その顔を思い切りしかめることになったのである。 見覚えのあるのも当然のこと。 それは、数時間前に、瞬が、 「普通の人は この季節にはコートなしで外に出たりしないの。頼むから普通の人の振りして」 と言って、無理に氷河に着てもらったコートだったのだから。 が、氷河の姿はラウンジにはない。 星矢に聞くと、一度ここに着てコートを脱ぎ捨ててから、『着替えてくる』と言って、彼は自室に戻ったらしい。 瞬はおもむろに溜め息をついて、 「氷河って、どうしてこんなにだらしないんだろう」 と、ぼやくことになってしまったのだった。 「何でもぽいぽいその辺に投げ捨てて、すっかり忘れてるんだから」 なぜ こんな事態が生じるのか、瞬には全く理解ができなかった。 コートを持ったまま自室に戻って着替えればいいだけのことなのに、なぜ氷河は わざわざコートだけをここに置いていくのか。 もちろん、氷河がコートを持って――あるいはコートを着たままで――自室に戻ったとしても、それは彼がコートを放っておく場所がラウンジのソファから自室のソファになるだけだということは、瞬にもわかっていた。 だが、それでもその方がまだましである。 氷河の部屋が散らかって困るのは、その部屋を生活の場の一部としている氷河と瞬だけだが、ラウンジが散らかれば、迷惑は星矢や紫龍にまで及ぶことになるのだから。 氷河があたり構わず放っておくのは上着だけに限ったことではなかった。 本や書類の類、携帯電話や各種カードの類。 買い物に付き合わせると、瞬が買った物を持ちたがるのはいいが、帰宅するとそれをどこかに放っぽり出して、どこに置いたのかを忘れてしまう。 ある時など、聖衣ボックスを玄関の脇に放り投げておいて、沙織に雷を落とされたこともあるほどなのだ、氷河は。 「何でもお母さんがやってくれてたせいで、自分で片付ける癖がつかなかったのかな」 こういうことは教育以前、躾の次元のことだろう。 が、氷河がものを片付けることを知らない男に育ってしまった原因が彼の母親にあったのではないかという瞬の推測には、星矢から反論があがることになったのである。 星矢の反論の論拠は、幼い頃に彼等が城戸邸で営んでいた集団生活における氷河の生活態度だった。 「でも、あいつ、ガキの頃はこんなじゃなかったぞ」 「あの頃は、物を散らかすという行為は、辰巳に癇癪を起こさせる理由を提供することだったからな。それを避けていたんじゃないのか」 「なら、修行中は――カミュがそういうことにはズボラな男で、師匠を見習ったとか」 「散らかすほどのものがシベリアにあったかどうかという問題がある」 「そりゃ、ここほど物があふれていたとは思えねーけど……」 紫龍の指摘は、いちいち尤も。 結局 氷河のズボラの原因究明に行き詰まった星矢は、その責任を瞬に押しつけることになった。 「文句言いながら、おまえが片付けてやるから、氷河の奴、ますますズボラになるんだよ」 「だって、放っといたら、部屋の中が散らかるし、氷河はどこに何を放っぽっておくかわかったもんじゃないんだもの。今朝なんか――」 言いかけた言葉を、瞬は一度 慌てて喉の奥に押しやった。 「今朝なんか?」 星矢に続く言葉を促されて、いかにも失言を後悔している様子で口を開く。 「朝食を済ませてから、ベッドメークしようと思って氷河のベットの掛け布を脇に寄せたら、ベッドの真ん中に下着が置いてあったんだ」 「下着ってパンツか?」 「はっきり言わないでよっ!」 そんな一般名詞ごときに 瞬はいったい何を興奮しているのかと、本音を言えば、星矢は思ったのである。 それが女性用のものだったというのなら、ベッドに下着が転がっていることは、確かに大問題かつ大事件だろうが、たかが男のパンツ一枚のことではないか、と。 「そりゃ、夕べおまえとコトに及んだ時に、氷河が脱ぎっぱなしにしてたんだろ」 「だから訳がわかんないのっ。氷河、夕べは、バスルーム使って、裸で出てきて、そのまま……」 「そのままコトに及んだのか」 瞬が頬だけでなく耳まで真っ赤に染めて、顔を窓の方に背ける。 星矢の質問を無視して、瞬は、あくまでも氷河のベッドの忘れ物の謎にのみ言及を続けた。 「だ……だから、着ていたものはバスルームのランドリーボックスに全部 入れてあったはずなんだ。あんなものが あんなところにあるはずがないんだよ!」 「それは、今朝 おまえたちが起床してから、パンツに足が生えてきて、自分でベッドまで歩いてきたんだろうな」 真顔で冗談を言う紫龍を、 「そんなことあるわけないでしょ!」 瞬が一喝する。 「歩くパンツの謎ねー。近くに全裸の美女の死体でも転がってたっていうんなら謎解きしてやろうって気にもなるけど、氷河のパンツのために頭を使う気にはなれないなー」 「ぼ……僕だって、そんなこと 考えたくないよ!」 星矢に言わせられたという感がないでもなかったが、それでも自分が言い出したことだというのに、瞬は結局、パンツの謎の解明をそこで打ち切ってしまった。 瞬が氷河とそういう仲になってから既に1年余。 今更 氷河のパンツごときに赤くなれる瞬の態度にこそ、星矢は不可解の念を抱いてしまったのである。 瞬の感性は、まるで思春期の潔癖な処女か深窓の令嬢のそれである。 氷河は、貞節の誓いを立てた修道僧でもなければ、欲望の枯れ切った老人でもない。 毎晩 性欲旺盛な男の相手を務め、生身の男の生理生態は知り尽くしているはずなのに、そんな感性を維持できる瞬こそが、星矢にとっては氷河のパンツよりも不可解な謎だった。 とはいえ、氷河のパンツの謎も、汚れなき乙女のような瞬の感性の謎も、星矢には どうあっても解明したいものではなかったのである。 外見以外に釣り合っているところのない二人――性格も価値観も戦い方も全く似たところのない二人が、それでも くっついて そういう仲になってしまったのだ。 星矢が懸念している唯一のことは、そんな二人が性格の不一致等の理由で破局を迎えることだった。 同じ屋根の下で、元恋人同士が生活を共にする事態だけは避けたいと、星矢はそれだけを願っていたのである。 そんなことになったら、破局した当人たちはもちろん、他の同居人たちも息苦しく気まずい日々を送ることになるだろう。 くっついてしまったものは仕方がない。 氷河のパンツの謎や、汚れなき乙女のような瞬の感性の謎は解けなくても構わないから、ともかく、二人が決裂する事態だけは避けてほしい――というのが、星矢が氷河と瞬に望む唯一の事柄だったのだ。 だから、星矢は、わざわざ氷河に忠告する労をとったのである。 それは他人が口出しするようなことではないし、彼自身 そんな口出しはしたくはなかったというのに。 |