瞬の忍耐力はどこまで氷河のズボラを容認できるのか。 瞬の堪忍袋の緒は いつまで切れずにいられるのか。 星矢の心配などどこ吹く風で、氷河がその生活態度を改める気配は一向に見えてこなかった。 氷河は、相変わらず、外出から帰るとコートをソファに放り投げ、読み終えた本は決して図書室に戻そうとはしない。 氷河が放り出したものを見付けるたび、瞬は、 「もう、氷河ってば!」 と頬を膨らませて後片づけをする。 幼稚園児でも三度注意されれば、少しは言動を改めるだろう。 しかし、氷河は、三度の百倍 瞬に小言を言われても、あくまでも彼のズボラな態度を保ち続けていた。 そんな ある日、ある時。城戸邸で、氷河と瞬に関わる大事件が勃発してしまったのである。 事件は、星矢の心配事とは全く関わりのないところから出来した。 「瞬を隔離するー !? 」 「隔離するのではなく、隔離したのよ。瞬は、これから2週間はグラードのメディカルラボから出られないので、その間よろしくね」 「よろしくね……って……」 グラード財団総帥にして女神アテナたる女性から、にっこり笑って『よろしく』と言われ、星矢はあっけにとられることになったのである。 確かに星矢は、氷河と瞬の間に いずれ何らかの事件が起きるに違いないと考えて、戦々兢々としていた。 だが、その事件は、氷河のズボラが原因となって起こるものと、星矢は決めつけていたのである。 これではまるで、雨なら中止と決まっている遠足当日、雨が降っていないかと はらはらしながら起床した小学生が にわかに腹痛に襲われてしまったようなものではないか。 「隔離の理由は何なんですか」 天馬座の聖闘士が懸念していたこととは全く別の要因で起こったトラブル。 不測の事態にあっけにとられ 声も出せない状況に陥ってしまった星矢に代わって、紫龍が沙織に事情を尋ねる。 沙織の返答は、瞬が隔離された事自体より更に意想外のものだった。 彼女は至って真面目かつ深刻な口調で、 「風邪よ」 と答えてきたのだ。 「風邪ぇーっ !? 」 想定外の事態に声を失っていた星矢がラウンジに素頓狂な声を響かせたのは、彼が最初の驚きから我にかえって声を出す方法を思い出したからではなかった。 そうではなく――沙織によってもたらされた二つ目の情報が あまりに馬鹿馬鹿しいものに思えたからだった。 「風邪――って、発熱、悪寒、咳、頭痛、喉の痛みだの関節の痛みだの、11の諸症状がある あの風邪か? そんなんで、わざわざ隔離 !? コレラでもペストでも何でもない、ただの風邪で !? 」 星矢が得心できないのも当然のことである。 まずもって、風邪は隔離を義務づけられた法定伝染病ではない、 普通の人間でも、よほど症状が重篤でない限り、平気で街中を歩き、公共の乗り物にも乗る。 まして、瞬はアテナの聖闘士。 その上 星矢は今朝方、氷河が投げ捨てておいたらしい腕時計をラウンジのテーブル下で見付けて、いつも通り元気に氷河を叱っている瞬の姿を見たばかりだったのだ。 「ただの風邪と言えばただの風邪だけど……」 風邪が隔離を要求されるような疾病でないことは、沙織も一応は承知しているらしい。 ほとんど呟きといっていいような声で 前置きを口にしてから、彼女は彼女の聖闘士たちの方に改めて向き直った。 「特効薬を発明すれば、必ずノーベル生理学医学賞を取ることができるという病気が、この世には二つ存在するの」 「あ、それ知ってる。水虫の薬だろ」 「なに馬鹿なこと言ってるの。風邪と癌よ」 どこから仕入れてきたものなのか、星矢の誤った知識を聞いて、沙織は嫌そうに顔をしかめた。 そして、言下に否定する。 「癌はともかく風邪?」 「そうよ。風邪のウイルスというのは、ほぼ2、3年で遺伝子変異が起こるようにできているの。だから、いつも、世界中の至るところで多くの異なる遺伝子を持ったウイルスが ごく短期間で生まれているわけ。それらはすべて新型のウイルスだから、過去の免疫が役に立たず、人は毎年毎年風邪をひく。人間が風邪をひかなくなったら、どれだけ医療費が軽減されるか、風邪で抵抗力が低下した人たちが合併症を引き起こす事態をどれだけ減らせるか。風邪の特効薬の開発によって人類が得られる利益は、試算も不可能なほど膨大なものよ。だから、現在過去未来に存在し得るすべての風邪ウイルスに抵抗できるような風邪薬を開発することができれば、その開発者のノーベル賞は受賞はほぼ確実と言われているの」 「風邪って、それで毎年ひく奴がいんのかー」 感嘆したように、星矢が呻く。 彼の感嘆は、だが、その事実に関して常人が抱く感嘆の念とは 微妙にニュアンスが異なるものだったろう。 なにしろ星矢は、物心ついてから風邪をひいた記憶を ただの一つも有していないという稀有な人間の一人だったのだ。 「それはわかりましたが、それと瞬とどういう関係があるんですか」 星矢同様、風邪をひいた経験を持たない紫龍が、話を本筋に戻す。 瞬に関することだというのに、沙織がこの場に氷河を呼んでいないことが、さきほどから彼に奇異の念を抱かせていた。 紫龍の質問を受けた沙織が、軽く顎をしゃくる。 「まあ、別にノーベル賞が欲しいからではないけど、グラードのメディカルラボでは、人類に裨益すべく、かなりの研究費を投入して風邪薬の研究をしているの。あそこには、開発した薬が どんな変異を起こしたウイルスにも有効なことを確認するために、わざと刺激を与えて遺伝子変異を起こさせたウイルスがたくさんあるのよ。つまり、自然界ではまだ生まれていない風邪のウイルスがね」 「それで?」 「どうしても今日の予算審議委員会に必要な書類があって、今朝、瞬に取ってきてくれるように、ラボへのお使いを頼んだのよ」 「……」 「グラード本社にデータを伝送させられればよかったんだけど、なにしろ、モノが予算関係の資料でしょう。社外のハッカーより、予算獲得に血眼になっている社内の各部署のハッカーのハッキングを防ぐためには、手渡しという原始的な方法がいちばん安全な手段だったの。技術の発展というものは、本当に馬鹿げた弊害をもたらすものだわね」 「……」 紫龍の作る沈黙が 非難のそれであることを、沙織は嫌でも感じ取らないわけにはいかなかっただろう。 「不幸な事故だったのよ」 まるで紫龍の機嫌をとるように、あるいは、自分に全く責任のないところで起こった不幸を嘆く第三者のように、沙織が言う。 「風邪のウイルスが外に洩れたのかよ!」 紫龍がとうの昔に察していたことに、沙織のその言葉で、星矢はやっと気がついたようだった。 同時に、彼女がこの場に氷河を呼んでいない訳も。 沙織は、氷河が怒り狂って暴れ出す事態を恐れていたのだ。 「そんな大きな声で叫ぶようなことじゃないわ。コレラでもペストでもなく、ただの風邪なんだから。命に危険の及ぶ可能性が少ないものだから、少々 危機管理意識に欠けていたことは認めるけど……。瞬はたった今も発症していなくて元気でいるし、発症したとしても軽い発熱程度で済むでしょう。何といってもコレラでもペストでもないんだから」 その事実を直接氷河に告げる度胸は、さすがの沙織にも持ち得ないものだったのだろう。 「風邪の潜伏期間はせいぜい2、3日のものなんだけど、感染した場合のことも考えて、瞬には2週間ほどラボから出ないようにしてもらうことに――」 言えるわけがない。 瞬が、瞬には何の責任もない人為ミスで、2週間もの間 その自由を奪われることになったなどということを、氷河に。 氷河には何の責任もないことで、2週間もの間 二人の別居生活が余儀ないものになったなどということを、氷河に。 もちろん紫龍も、それで凶暴化した氷河のお守りをさせられることは御免被りたかった。 「仮にも医薬品のラボで、その杜撰な管理体制には大きな問題が――」 「ちょうどいいランダム実験ができるというので、ラボ中の人間がみんな喜んで薬を飲んでいるのよ!」 紫龍が口にしかけた非難を、沙織が素早く遮る。 「ほら、こんなことでもない限り、研究者当人といえど、新薬を人体に投薬するには、面倒な手続きを踏まなきゃならないから。ラボの研究員たちは本当に研究熱心で、みんな自分の研究の成果を試したがっていたの。瞬も快く協力を申し出てくれたのよ」 「まだ開発中のものなんでしょう」 「開発中だから実験が必要なのよ。この事態はきっと神の思し召しだと思うわ」 女 星矢と紫龍は、グラードの医薬品ラボの杜撰な管理体制に関しては不問に処すことにした。 だが、この場合、問題なのは、 「俺と紫龍は構わないけど、氷河が……」 ということなのである。 問題は、ラボに閉じ込められてしまった瞬当人ではなく、瞬なしでは夜も日も明けない、某白鳥座の聖闘士の方なのだ。 「いくら氷河でも、たった2週間の独り寝で死んだりもしないでしょ」 「そういうことじゃなくてさー。いや、それもあるけど、瞬がいないってことは、氷河が散らかしたものを片付ける奴がいないってことじゃん」 「この家が物置小屋状態になりますよ」 城戸邸のメイドは、各部屋に掃除機をかけたり、テーブルや窓を拭くことはしても、住人のプライバシーに関するものには触れないという契約で雇われている。 つまり、彼女たちは、氷河が散らかした服や本を片付けることはできないし、また、してはならないことになっているのだ。 そんなことをすれば、それは明白な契約違反になる。 「そんなこと……。散らかるったって、せいぜい氷河の部屋とラウンジくらいのものでしょ。このラウンジを使うのはあなたたちだけだし、2週間後に瞬に片付けてもらえばいいわ」 「隔離病棟から解放早々、氷河の2週間分のズボラの集大成を見せられたら、今度こそ瞬は氷河に愛想を尽かしちまうじゃないか!」 「いくらアテナでも、そこまでの面倒は見きれないわ。私は聖闘士たちのプライベートには口出しをしないことにしているの」 それは単なる無責任というものなのではないか――と、正直、星矢と紫龍は思ったのである。 その上、沙織は、更に無責任なことに、 「じゃ、そのへんのところを、私に代わって、うまく氷河に説明してちょうだい。もし氷河が凶暴化したら、ガラス越しでなら瞬との面会はいつでもできるとか言って なだめてくれればいいわ」 と、そんなことを言って、最も面倒な作業を星矢と紫龍に押しつけることをしてくれたのだった。 |