本来この事態の責任を負うべきグラード財団総帥の無責任への憤りは憤りとしてである。 星矢と紫龍は、とりあえず、どうすれば氷河にできるだけ冷静にこの事態を受け入れさせることができるのか、その方策を考えなければならなくなった。 が、それは容易な仕事ではない。 『グラードのラボで風邪のウイルスが洩れるというトラブルが生じ、瞬はほとぼりがさめるまでラボに閉じ込められることになった』 という事実を知らされた氷河が、 『ああ、そうか』 と、大人しく現状を受け入れてくれるとは、星矢たちにはどうしても思い難かったのである。 激しやすい氷河のこと、まして瞬絡みの不都合である。 氷河は、後先を考えずに瞬が閉じ込められている場所を襲撃するくらいのことはやりかねない――というのが、星矢と紫龍の一致した見解だった。 しかも、こんな時に限って、怒れる氷河を なだめ静めることのできる唯一の人間である瞬が氷河の側にいないのだから、事態は深刻である。 被害を最小限に抑えるためにはどうしたらよいかを話し合い、星矢と紫龍が考案した方策は、事態の説明を瞬にしてもらおうというものだった。 これは致し方のないことで、静かに耐えなければならない事態なのだということを、氷河を刺激しないように瞬に説明してもらう。 さすがの氷河も、瞬相手に怒りを爆発させることはできないだろうと、二人は考えたのである。 そういう経緯で、氷河は詳しい事情を知らされないまま、グラードのラボに連れていかれ、そこでガラスの向こうにいる瞬から事情説明を受けることになったのだった。 星矢と紫龍の思惑は当たったと言っていいだろう。 なにしろ、瞬によって事情を知らされた氷河には、このけしからぬ事態に憤る時間が与えられなかったのだ。 「氷河、せめて衣類だけはちゃんとしてね。その辺に放っておくのは絶対にやめてね」 瞬は元気そうだった。 二重に密閉された強化ガラスの向こうで、薄緑色の検査着を着せられた瞬は、氷河のズボラな生活の心配ばかりしていた。 おかげで、氷河は、怒りに身を任せる間もなく、瞬の心配を消し去る作業に専念しなければならなくなってしまったのである。 「おまえが一緒でないなら外出する気も起きないし、コートをそこいらに投げておくこともないだろう」 「それだけじゃなくて、普段の着替えとか、あの……下着とかも」 ベッドの真ん中に置かれてあった氷河のパンツの印象が、よほど強烈だったのだろう。 瞬は、未だにその件を忘れられずにいるらしい。 消え入るように小さな声でそう言うと、瞬はぽっと頬を染め、瞼を伏せた。 「わかった。大船に乗ったつもりで安心していろ」 その大船は泥でできているに違いないと、星矢は思ったのである。 だが、氷河は、瞬を安心させるために そんなことを言っているのであるし、ここで、氷河の言は信用ならないと指摘しても誰も何の益も被らない。 だから、星矢たちは、あえて何も言わなかったのである。 氷河に物を散らかすことのない生活を営むことなどできるわけがないと、確信していたにもかかわらず。 氷河のだらしなさを案じる瞬のために。 星矢と紫龍は、これから2週間、自分たちは物置で生活することになるのだろうと、覚悟を決めていた。 それでも、瞬が側にいないことに苛立った氷河が、ラボを倒壊させたり、城戸邸を破壊してしまうよりは はるかにましなのだと、懸命に自分自身に言いきかせていたのである。 だが、瞬のいない城戸邸は、二人が想像していたような状況にはならなかった。 まさか、瞬に『大船に乗ったつもりで安心していろ』と約束したからではないだろうが、その日から氷河は突然、ズボラでだらしない男ではなくなってしまったのだ。 図書室から持ってきた書籍や自室から持ち込んだ小物等は、用が済むときちんと元の場所に戻す。 身につけた衣類を放り出しておくこともない。 星矢たちも さすがに氷河の部屋の中の様子まで確認することはしなかったが、少なくとも、ラウンジに氷河の私物が転がっているような事態が生じることがなくなったのは、厳然たる事実だった。 もちろん、パンツが投げ捨てられていることもない。 それどころか、氷河は、彼が飲んだお茶のカップを自分の手で厨房の流し場まで運ぶことさえ、ごく当たりまえのことのようにしてみせてくれたのである。 「おまえ、ちゃんと整理整頓できるんじゃん。俺よりちゃんとしてるぜ」 「俺をおまえと一緒にするな」 「なに偉そうに言ってんだよ。瞬がラボに閉じ込められる前は、俺よりズボラだったくせに」 「あれはわざとだ」 「わざとー?」 最初、星矢は、実に面白い冗談を聞かせてもらったと思ったのである。 当然のごとく、星矢は氷河の主張を信じることをしなかった。 が、氷河は、真顔で、彼が実はズボラな男ではないという主張を続けてくれたのである。 「言ったろう。マーマに手間をかけさせるわけにはいかなかったから、俺は、その点に関しては、稀に見る いい子だったと。カミュは病的に整理整頓好きだったしな」 「いや、でも、おまえ、あんなに――瞬にいくら怒られても平気で物を散らかして――」 星矢の反論を、氷河が軽い睥睨で遮る。 そうしてから氷河は、彼のズボラが“わざと”為されたものだったことの証左を示してきた。 「俺が散らかしていたのはせいぜいコートや本、ちょっとした小物くらいのものだろう。おまえみたいに、お菓子の食べかすなんか散らかしたことはない。ガキ共と遊んで、泥まみれ埃まみれで室内に入ったこともない」 「そういえば……そうだったかも――」 「片付けるのに、あまり手間のかからないものばかりだな。場所を移動すればいいだけの」 紫龍の指摘に、氷河が頷く。 「俺は常に整理整頓・清潔を旨とした生活を心掛けている。クリーナーやモップが必要になるような汚し方をしたことはない。俺は、いつも、瞬の許容範囲内で物を散らかしているんだ」 「パンツは瞬の許容範囲なのかよ」 「あれは未使用のものだ。瞬を刺激するためにわざと置いた」 「瞬が、オトコのパンツを見て欲情するとは思えないが」 「欲情はしないだろうが、刺激にはなる。あんなものでも、瞬は尋常でなく恥ずかしがるからな」 「……」 氷河の狙いは正鵠を射ていたと言えるだろう。 確かに瞬は、問題の物を異様に意識していた。 「ベッドなんて、俺が特に気を遣っている場所だ。俺のベッドには、未使用のパンツは置いてあっても、髪の毛一本落ちていない。すべて俺が片付けている」 「おまえが片付け? えーっ !? 」 氷河が実は、ところ構わず物を散らかす性癖の持ち主ではなかったということだけでも、彼の仲間たちには驚天動地の事実だったというのに、氷河が清掃行為とは。 星矢にはとてもではないが、そんな場面を想像することができなかった。 が、それは事実であるらしい。 現にその行為をしている者でなければ言及できないような事柄を、氷河は仲間たちに真顔で語り始めたのである。 「例えば、コトの後始末をしたティッシュなんて、部屋のゴミ箱にも入れておかない。瞬に気付かれぬよう直接焼却炉に放り込んでいる。そんな なまなましいものを瞬の目に触れさせるわけにはいかないからな」 「――」 「シーツが乱れているところまではOK。だが、体液のしみが残っていたら、瞬がベッドメークに来る前に、俺が先にシーツを交換しておく。俺と瞬が毎晩実行していることは、あくまでも互いの愛を確かめ合う行為であって、体液を吐き出す行為なんかであってはならないからな」 「――」 氷河が語る彼の清掃行為の内容は、実に現実的なものだった。 そして、確かに、瞬にはさせられない仕事でもあった。 「じゃ……じゃあ、てことは、瞬は、おまえが交換した後のシーツをまた交換してんのか?」 「瞬は綺麗好きだからな」 これは、そういう問題ではないだろう。 そういう問題でないことはわかったのだが、では どういう問題なのかと問われると、答えに窮する。 これは、それくらい珍奇な事態だった。 「瞬の綺麗好き対策は他にもいろいろあるぞ。まず、日々の爪の手入れ。もちろん第一の目的は、 瞬の身体に傷をつけないことだが、これは特に清潔感をアピールするのに効果的だ。風呂も、瞬と寝るようになる前は、シャワー10分で済ませていたところを、必ず湯船につかるようにした。あと、履き物の類は要注意だな。生活臭のあるものはすべて、瞬の目に触れる前に片付けるか捨てるようにしている」 「なんで そんなことしなきゃなんねーんだよ。爪なんて、毎日手入れしなきゃならないほど伸びるもんじゃねーし、風呂なんて汗と埃を流せれれば用は足りるじゃん」 星矢の意見を、氷河はあっさり無視した。 氷河の“綺麗”“清潔”の基準は、あくまでも瞬の基準に準じたものだったのだ。 「無論、言葉遣いにも気を遣っている。『腰が抜けるほど やりまくりたい』と言う代わりに、『朝まで おまえを抱きしめていたい』と言う。言葉の選択は、特に重要だな」 「その二つ、どう違うんだよ」 「全く同じことだ。だが、全く違う。前者は瞬の好みではないが、後者は瞬の好み。『腰が抜けるほど やりまくりたい』なんて瞬に言ったら、瞬は眉をひそめることになるだろうが、『朝まで おまえを抱きしめていたい』なら、瞬は恥じらいつつも うっとりしてくれるんだ」 『でも、おんなじことじゃん』と、星矢は思った。 氷河の説明は星矢には今ひとつ理解しづらいものだった。 が、星矢はその時、先日彼が『シモネタばかり言っていると瞬に嫌われるぞ』と忠告した時、氷河が『大丈夫』と自信満々で答えてきた時のことを思い出すことになったのである。 要するに、シモネタも高尚な(?)言葉を用いて発言すれば、それはロマンティックな愛の囁きになるということなのだろう。 「まあ、“石鹸の匂いのする男”はわざとらしいから、“お陽様の匂いのする男”が、俺の生活目標だな」 「おまえって、ほんとは滅茶苦茶 几帳面なのか?」 それはさすがに信じられないという気持ちを隠しきれずに、星矢は白鳥座の聖闘士に尋ねてみた。 「ズボラになる躾も修行も受けていないことは確かだな」 信じてもらえなくても事実は事実という口調で、氷河が答えてくる。 氷河が向きになって主張してこないことが、逆に、星矢にその事実を認めさせることになったのである。 氷河は緻密な神経と周到な計画・計算によって日々の生活を営んでいる極めて几帳面な男なのだという、驚愕の事実を。 「じゃあ、おまえが毎日だらしなくしてるのは、ほんとにわざとなのかよ」 「瞬は手のかかる男が好きだからな。紫龍みたいに、自分のことをきっちり自分で始末できてしまうような奴は、瞬がいちばん詰まらないと感じるタイプだ。世話のし甲斐がないからな」 『自分のことを自分で始末できる』は立派な褒め言葉だろう。 事実、氷河は、紫龍が“世話のし甲斐がなくて詰まらない”男であることを非難しているふうではなく、むしろ歓迎しているようだった。 つまり、氷河は、“瞬が好きな手のかかる男”は自分ひとりだけでいいと思っているのだ。 であればこそ、氷河は星矢に険しい声で言うことになったのだろう。 「貴様が今度 瞬の目につく場所で物を散らかすようなことをしたら、二度とそんなことができないように、その両手を凍りつかせて壊死させてやるからな」 などという物騒なことを。 無論、星矢は、氷河のその脅迫をただの冗談とは受け取らなかった。 星矢はまだまだ したいことや食べたいものがたくさんあったのだ。 命は大切にしたかった。 そんなこんなで2週間。 その間、氷河は、望む時に瞬の姿を見ることのできない日々にかなり苛立っていた。 彼は、その苛立ちを星矢のだらしのなさを叱責することで晴らそうとしていたところがあり、それは星矢にはとばっちりもいいところの、とんだ災難だったのだが、ともかく氷河は、瞬が懸念していたような日々を過ごすことはなかった。 すなわち、アテナの聖闘士たちの共有の場であるラウンジに私物を放っておくことはなく、その生活空間は快適そのもの、清潔そのもの。 星矢も氷河に怒鳴られ続けて整理整頓を心掛けるようになり、瞬の懸念は完全に杞憂に終わったのである。 |