恋宴






いづれの御時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふありけり――。


一条天皇の宮中で、妃である定子と中宮彰子が その寵を競い、二人の女性の華麗な争いの副産物として生まれ、一世を風靡した源氏物語。
一条帝から数代後の帝の宮中で、その源氏物語の世界をなぞったような状況が現実の世界に現出していた。
とはいえ、光源氏に当たる男は既に亡く、現在繰り広げられているのは宇治十帖の世界だったが。

まるで、源氏物語が今の世を予言する書だったように、現在の御所には匂の宮と右大将薫の君がいた。
すなわち、位人臣を極め、多くの女性と浮名を流し、かの光源氏に例えられた男の孫と、彼がその最晩年に儲けた末息子が。


「まさか、源氏物語なぞ読んでいるわけではないだろうな」
案内も乞わずに瞬の館の庭に入り込んだ氷河は、そのまま東対の階に(くつ)を脱ぎ捨て、格子も下ろしていない部屋で書を読んでいた瞬の脇にどかどかと上がり込んだ。
「残念ながら、これは氷河のお祖父様の物語じゃないよ。清凉寺の聖人様からお借りした法華経」
瞬の返事を聞いた氷河が、嫌そうに顔をしかめる。
「おまえの父親の物語を読んでいる方が まだましだ。法華経だと。抹香くさい」
言いながら、氷河は、身に着けていた練絹の直衣(のうし)を引き剥ぐように脱いで瞬の肩に掛けた。

「この寒いのに、格子も下ろさずにいるのはわざとか? おまえは苦行を商売にしている僧侶じゃないんだから、わざわざ母屋の中に冷たい風を誘い入れることもあるまい」
その冷たい風の入り込む場所で、(ひとえ)だけの格好になってしまった氷河の姿に苦笑して、瞬は自分の肩を覆っているものを氷河に返そうとした。
「氷河、いくら何でも、その格好はくつろぎすぎだよ。どうして こんなに素早く直衣を脱いでしまえるの。神業だね」
「着るのに手間がかかるものだから、さっさと脱いでしまえば追い返される心配がなくなるんだ」
「どこの館の姫君も? 僕は氷河を追い返したりしないから、安心して着ていていいよ」
「おまえが着ていろ。俺は寒いのは平気だ」

濃色の直衣にかかった瞬の手を押さえ、氷河が瞬の読んでいたものを覗き込む。
それが瞬の言った通りのものだということを確かめて、彼は眉根を寄せた。
「まあ、源氏物語よりは法華経の方がまだましかもしれんな。あんな好色男の話は、おまえには似合わない」
「氷河のお祖父様になぞらえられることもある人だよ、光源氏は。好色男だなんて」
「ふん、その光源氏もどきの末息子が、孫の俺より年下なんだから、あの(じじい)がどれほどの色好みだったかわかるというものだ。老いてますます盛ん。おまえもこんな修行僧の真似事はやめて、おまえの父親を見習ったらどうだ」
光源氏になぞらえられることもある、氷河の祖父にして瞬の父。
彼は一門の現在の繁栄の基礎を築いた偉大な(偉大と評されている)人物でもある。
しかし、氷河が彼を語る口振りは、到底 偉大な祖父を尊敬している孫のそれではなかった。

氷河の祖父にして、瞬の父に当たる人物は、光源氏のように帝の息子ではなかったが、当時の帝の弟の子で、光源氏同様、母の身分が低かったために、皇族ではなく臣籍に下された人物だった。
その男が、16で最初の娘を儲け、その娘が入内、次代の帝との間に18歳の時に儲けた息子が氷河で、氷河の現在の年齢が18。
瞬は、その男が54歳の時に生まれた末息子で、氷河より1歳年少の17。
瞬は氷河より年下の叔父であり、氷河は瞬より年上の甥。
歳が近く、共に才に恵まれ、それぞれに美しい二人は、何かと比べられることが多かった。
源氏物語の薫の大将と匂の宮が、源氏物語の中で その評判を争っていたのと同じように。

「氷河は、氷河のお祖父様を見習ってそんなふうなの?」
「そんなふう? そんなふうとはどんなふうだ」
瞬は微笑んで答えない。
氷河は、その捉えどころのない笑みを、また鼻で笑ってのけた。

「おまえの妻にと名のあがる姫君に片端からちょっかいを出してるから、あのくだらない物語の匂の宮のように、俺はおまえに対抗心を抱いていると思われているらしい。どう思う?」
「氷河が対抗心を抱いているのは、僕ではなく、氷河のお祖父様でしょう。光輝くような美男だったそうだから、同じように華やかで美しい氷河が対抗心を持ったとしても、あまり不自然なこととは思わないけど」
「ふん。大袈裟な。本当に光輝いていたのなら、奴はハゲだったんだろう」
偉大な祖父を『奴』呼ばわりする氷河をたしなめることもできず、瞬は瞼を伏せた。

『あなたも素晴らしく美しいけど、あなたのお祖父様のお若い頃には遠く及ばない』と、歳の降った女官たちに言われ続けている氷河が、彼の祖父に好意を抱いていなかったとしても、それは致し方のないこと。
氷河は40過ぎてからの祖父の記憶しかないのだから なおさら――と考えて、氷河の近親者たちは、祖父に対する氷河の毒舌を改めさせることを ほとんど諦めているようだった。
そして、氷河が彼の祖父を嫌う本当の理由を知っている瞬としても、彼の口の悪さを強く非難することはできなかったのである。
氷河が嫌っているのは、彼の祖父ではなく、瞬の父なのだ。
瞬の父は、瞬に対してひどく冷たい男だった。

「死んでしまった男に対抗心を抱いても何にもなるまい」
「……」
「あの男の血縁の中で最も美しいと言われているのはおまえだし、俺がおまえに対抗心を抱くことになっても、さほど不自然なことではないだろう。現に、俺はおまえと比べられるのは不快だからな。どいつもこいつも、俺の顔を見ると、おまえの歳不相応な落ち着き振りを見習えと言ってくる」
「僕の父はあの人ではないという噂もあるよ。僕は母の不義の子だと。僕は父に似ていないようだし。あの人が僕に冷たかったとしても、それはあの人のせいじゃない。氷河があの人を嫌うことはないんだよ」
「ただの噂だ!」

言下に否定してから、苛立たしげに、氷河は言葉を継いだ。
「宮中の女共は、俺たちを源氏物語の登場人物になぞらえたがっているだけだ。そんな馬鹿げた遊戯におまえが振り回されることはない」
「そうだったらいいけど……振り回されているつもりはないんだけど……」
沈んだ声で そう告げる瞬は、だが、いつも微笑している。
それが諦観と厭世の微笑だということが、そんな瞬の様子が、いつも氷河を苛立たせるのだった。
「万一、その噂が事実だったとしても、おまえの母はあの光源氏もどきの実の姪だ。おまえは、あの光源氏もどきと全く血が繋がっていないわけじゃない」

だというのに、“光源氏もどき”は、瞬に冷たかった。
確実に我が子と確信できる瞬の同母兄には、事あるごとに目をかけていたというのに。
父に愛されない子供に、せめて母親が父の分も愛情を注いでくれていたなら、まだ救いがあったのかもしれないが、瞬は母の愛にも恵まれなかった。
親に愛された記憶を持たない子供が自分に自信を持つことができず、歳不相応に控えめな人間に育ってしまうのは仕様のないこと――自然なこと――なのかもしれない。
その仕様のないことが、だが、氷河は不快でならなかったのである。
瞬がすべてを諦め、受け入れてしまっているように見えることが、氷河には我慢ならないことだった。

「氷河のお母様は美しくて、聡明で、しかも貞節。帝の寵愛も深かった。僕の母は、事実かどうかはさておくとしても、不義の子を産んだと噂されるような軽率な人だ。いずれにしても、僕と氷河では比べようもないよ」
「親なんか関係ない。俺が対抗心を持っているのは、おまえ個人だ。おまえ個人と俺個人、どちらが優れているのかということが問題なんだ」
「氷河だよ」
一瞬のためらいもなく、瞬はそう答えてくる。
せめて 叔父に対してそんな対抗心を抱く甥に不快の念を抱いてくれないものかと、そんなことを願っている氷河に向かって、瞬は簡単に自分を負けを認めてしまうのだ。
しかし、氷河は、“瞬の負け”など、何があっても認めたくはなかったのである。

「簡単にそう言ってしまうのが気に入らない。本心では、そう思っていないんだろう。年上のくせに詰まらぬ意地を張ってと、おまえは俺の稚気に呆れているんだ」
「氷河は覇気があって、颯爽としていて、いつも生き生きしてて、とても羨ましいと思っているよ」
そう告げる瞬の声音は穏やかで抑揚がなく、確かに覇気にあふれているとは言い難いものだった。
何を言っても、どう挑発しても、負けん気を起こしてくれない叔父に、氷河の方が根負けしてしまいそうになる。
氷河は、そんな自分に活を入れるように、左右に首を振った。

「おまえ、俺に次から次に女を取られて悔しくないのか」
「氷河に気の利いた歌を送られて、甘い言葉を囁かれたら、誰も抵抗できないでしょう。仕方がないよ」
「もどきとはいえ 光源氏の子が、女の一人もものにできない情けない奴と噂されているんだぞ」
「事実だから仕方がないよ」

「仕方がない、仕方がない、仕方がない。おまえはいつもそればかりだ。辛気臭くて、見ているといらいらする」
瞬が父に愛されていなかったのは、紛う方なき事実だった。
彼の多くの子供たちの中で最も美しく才に恵まれていた末息子を、瞬の父は愛さなかった。
だが、だからどうだというのだ。
それで瞬の美しさが損なわれるものではないし、瞬の才が否定されるわけでもないではないか。

子供にとって、親の愛情とはそれほど重要な意味を持つものなのだろうかと、氷河は思う。
氷河だけでなく、実母兄、異母の兄弟姉妹、従兄弟たち――瞬の周囲には瞬に好意を抱いている者が数多くいる。
両親以外のすべての人間が瞬を愛しているといってもいいほどだった。
だというのに、彼等の愛情は瞬には何の価値も力もないものなのか――。
両親の愛に恵まれてしまったことで、瞬の立場や瞬の心を実感することができない自分に、氷河は憤りをさえ覚えていたのである。

「でも、それは――」
言いかけた言葉を、瞬は飲み込んだ。
氷河が、そんな瞬に下目使いに ちらりと視線を投げ、むっとしたように口許を引き結ぶ。
「『仕方がない』と言おうとしたろう、今」
「……うん」
その事実を認めることが 更に氷河の苛立ちを増すことになるとわかっていても、覇気のない叔父を気遣ってくれる甥に嘘をつくことは、瞬にはできなかったらしい。
瞬は正直に、そして申し訳なさそうに、氷河に頷き返してきた。
氷河は溜め息をついて、青ざめているような瞬の頬に右の手で触れることをしたのである。

「おまえの父母が誰であっても、おまえはおまえだろう。いいか、京の貴族の姫君たちの顔を誰よりも多く知っているこの俺が断言するが、おまえは京の姫君の誰よりも美しいし、心根も優しい。詰まらぬ噂を気にすることはないんだ」
身分の高い公家の姫は御簾の奥に姿を隠ているのが常、他家の男性に軽々しく顔を見せる行為は 固く慎むべき軽挙ということになっている。
そういった姫君たちが他家の若い公達に姿を見せるということは、その心と裸身をさらしたも同じこと。
氷河が貴族の姫たちの顔を多く見知っていると断言することは、彼が多くの姫と情を交わしたと言っているのと同じことである。

氷河がそんなことを言うのは決して自慢ではなく、ただひたすらに覇気のない叔父を励ますことが目的なのだということはわかってくれているようで、瞬は彼の甥の行き過ぎた不身持ちを責めるようなことはしなかった。
そうする代わりに、
「氷河は優しいね」
と言って、微笑む。

「……」
瞬の覇気のない微笑に、氷河の苛立ちは更に増すことになったのである。
少しは身を慎めと、氷河は本当は瞬に叱ってもらいたかったのだ。
が、この大人しい叔父に、感情を露わにさせることは――それが怒りでも喜びでも悲しみでも――至難のわざであるようだった。

歳不相応に落ち着いていると評される瞬も、子供の頃はこんなではなかったのである。
瞬を産むなり、瞬の母は出家した。
生まれたばかりの瞬は氷河の母の許に引き取られ、宮中で、氷河と共に育った。
叔父と甥というより、兄弟のように。

二人の子供はいつも一緒だった。
学問は言うに及ばず、絵も楽器も歌も蹴鞠も香も、貴族の子弟として身につけなければならないことすべてを一緒に学び覚え楽しんだ。
どんな時にも一緒だった二人は、宮中の者たちに あらゆることで比べられてきたが、氷河はそれを不快と思ったことはなかった。
瞬に劣ると言われるのは愉快なことではなかったが、瞬が優れていると言われるのは、氷河にとっては喜ばしいことだったのだ。
まるで自分が褒められているように嬉しかった。

氷河と共に氷河の母の許にいた頃、父母に顧みられることがなくても、瞬は屈託なく笑うことを知っている子供だった。
少女めいて可愛らしい顔立ちの瞬は、宮中の誰からも愛され可愛がられていた。
帝の女御たちの中で最も美しいと言われていた氷河の母よりも美しい姫になるかもしれないと、戯れにでも言われる瞬が、いつも自分のあとを追いかけてくることを、氷河は得意にさえ感じていたのだ。

女たちの中で暮らすことが許されない歳になると、瞬は御所を出て、都の内に自分の館を持つことになった。
父がまだ存命中だったのに、瞬の館の造営に手を尽くしたのは、既に独立していた瞬の同母兄と、瞬の母の父――出家していた先の帝だった。
瞬は、その時初めて、自分が父に愛されていないことを知ったのかもしれない。
御所を出て独立してから、瞬の表情は目に見えて暗いものへと変化していった。
瞬と離れて暮らすようになってから二日と置かずに瞬の館を訪ねていた氷河は、春の陽射しのように明るかった瞬の笑顔が、日ごとに沈鬱に沈んでいくのを目の当たりにすることになったのである。

とはいえ、瞬が若く美しく才のある高貴な公達であることに変わりはない。
独立して自分の館を持つようになった瞬の許には、多方面から、年頃の姫たちの情報がもたらされることになった。
そして、堅苦しい宮中にいることを嫌って瞬の館に入り浸るようになっていた氷河は、そういった姫君たちを次々に篭絡することを始めたのである。

最初のうちはそういうこともあるだろうと苦笑いをしていた周囲の者たちは、その数が5人6人7人と増えていくに従って、奇異の念を抱くようになり、やがて、かの匂の宮のように氷河は瞬に対して対抗心を抱いているのだという噂が立つようになったのだった。
氷河は、自分は自分が為すべきことを為しているのだという意識しか抱いていなかったので、そんな噂など歯牙にもかけずにいたが。

氷河がそんな不品行を重ねるようになっても、それで二人の間に波風が立つことはなかった。
しばしば館を訪ねてくる氷河を追い返すようなことはせず、瞬はいつも快く不身持な甥を館の内に迎え入れていた。
世間では、二人が仲がいいのか悪いのかを理解しかねているようだった。

瞬が、覇気と明るさを失い、特段の用がない限り 館から出ようとしなくなったのは、自分が不義の子だという噂を聞いてしまったからなのだろうと、氷河は察していた。
本音を言えば、たとえそれが事実だったとしても、それがどれほどのものかと、氷河は思っていたのである。
瞬の母は先の帝の娘。瞬の父親が誰であろうと、高貴の血が瞬の身体に流れているのは事実なのだ。
氷河は、どうにかして、幼馴染みにして年下の叔父に、元の明るい笑みを取り戻させてやりたいと、それだけを願っていた。






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