瞬が京の西にある辺鄙な寒村に通っているという噂が氷河の耳に入ってきたのは、京の都の通りに積もる雪が解けて消えることがなくなった季節だった。 瞬が通っているのは、薫大将が通った宇治ではなく丹波ということだったが、寝耳に水の話に、氷河は顔を引きつらせることになったのである。 御所の内にある氷河の宮にその情報をもたらしたのは瞬の異母兄たち――必然的に氷河の叔父になる――星矢と紫龍だった。 母親の身分が低いので、瞬の同母兄ほどには優遇されていなかったが、都の内にそれぞれの館を構えて気楽な宮仕えをしている叔父たちである。 「瞬が、三日と置かずに丹波に通っているだと? 丹波に何があるというんだ」 そんなことがあるはずがないと、その話を聞かされた氷河は、まず思ったのである。 なにしろ、氷河は、それこそ二日と置かずに瞬の館を訪ねていたのだ。 瞬にそんな遠出をする時間はないはずだし、氷河は瞬の館の中で そんな様子を見聞きしたこともなかったから。 すぐに、瞬が丹波に通っているのが夜なのであれば、それは可能なことと思い至ったのだが。 「野暮なこと訊くなよ。おまえらしくない」 「……瞬がどこぞの姫の許に通っているというのか」 眉を吊り上げている氷河に恐れを為した様子もなく、星矢は軽く頷いた。 「これまでの――年寄り共が瞬に押しつけようとしていた姫たちとは様相が違うぞ。瞬は自分から公務の間を縫って熱心に通ってるらしい。奥手で引っ込み思案の瞬にも、やっと春が来たってことだ」 「今は冬だ!」 喜ばしいことであるはずの報告に、氷河は怒声で答えることになった。 星矢と紫龍が、互いに意味ありげな目配せをして、両の肩をすくめる。 「瞬が自分から通っている姫だと……」 そんな叔父たちの前で、氷河は低い呻き声を洩らすことになった。 京にいるどんな貴族の姫よりも美しい瞬が、よもや女に興味を持つことがあるなどとは。 それは氷河にとって、全く想定外の事態だったのだ。 すぐに排斥しなければと、氷河は思ったのである。 自分たち二人の間に他の誰かが入り込むことがあってはならないと、氷河は強く思った。 叶うことなら今すぐにでも その姫の許へ乗り込んで行きたかったのだが、あいにく氷河は今 それができない状況下にあった。 舌打ちをして、彼は両の拳を握りしめることになったのである。 「不行状が過ぎたらしくて、俺は今、お上に夜間の外出を禁じられているんだ。牛車も馬も出せないし、何より、宮中の者たちが皆 俺を見張っていて、俺は今 身動きがとれない。おまえたち、俺の代わりに瞬のあとを追って、問題の姫がどんな女か見てきてくれ」 「わざわざ見にいかなくても、情報はたっぷりあるぞ。女房たちの噂では、瞬そっくりの姫だって話」 「なに?」 「花のように美しい姫君だと、問題の姫君に仕えている女房から、瞬の供をした小者が聞き出したとか。まあ、それも噂でしかないけどな」 その噂を誰も瞬の甥の耳に入れようとしなかった理由を考えろと、星矢は暗に氷河に忠告したつもりだった。 それで瞬の恋路が氷河によって妨げられることがあってはならないと、誰もが考え、用心してのことなのだ、この事態は。 言葉にしない星矢の忠告は、だが、氷河の心の耳には届かなかったらしい。 氷河は、女房たちの噂を鼻で笑ってのけた。 「人前に顔を出さない姫たちに関する評判ほど当てにならないものはない。実際に近くで見ると、どれもこれも饅頭に目鼻が埋没しているような姫ばかりだった」 「俺としてはさ、おまえの母君や瞬に比べられる姫君たちに心から同情するね」 「しかし、丹波の姫はどうか わからんぞ。なにしろ瞬が、自分から足繁く通っているほどの姫だ」 そう言ってしまってから、言ってはならないことを言ってしまった自分に、紫龍は気付いたのである。 『だから、そっとしておいてやれ』という彼の真意は氷河に伝わらず、紫龍は、 「また、手を出す気か」 と、氷河に尋ねる羽目に陥ってしまったのだった。 自身の失言に渋面を作った紫龍の脇から、眉根を寄せた星矢が口を挟んでくる。 「なびくのは姫君たちの勝手だから、文句は言わないけどさ。今度だけはやめとけって。これまでの姫たちとは違って、瞬が自分から通ってる姫なんだから。瞬もこれまでみたいに、おまえの横槍を笑って許してはくれないぞ」 「俺はただ、年下の可愛い叔父君が恋した姫君を見てみたいだけだ」 「……」 『可愛い』が『姫君』ではなく、『叔父君』に係っているところが末期的だと、星矢と紫龍は思ったのである。 言わずに済ませることができるなら言わずに済ませたかったことを、星矢は言葉にせざるを得なくなった。 「おまえ、ほんとはわかってるんだろ。おまえは瞬に対抗心持ってるんじゃなく、瞬が好きなんだよ」 「……」 問題の核心に言及されてしまった氷河が、きつく唇を噛みしめる。 できるだけ意識しないようにしていたこと、誰にも――瞬にも――知られないように用心していたこと――。 だが、それは隠し通せるようなことではなかったらしい。 「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は――というわけだ」 先年、平兼盛が詠んだという歌を、氷河は口の中で呟くことになった。 氷河にとって、瞬は、氷河の母と共に、彼の幼少期を美しく彩ってくれた大切な存在だった。 瞬がいてくれたから、氷河のこれまでの人生は美しいものであり続けることができたのだ。 瞬はいつも、どんな花より美しく優しかった。 母が亡くなった時も、瞬が慰め抱きしめてくれたから、氷河はあの悲しみに耐えることができた。 瞬が通っている姫がどれほど美しい姫であっても、噂通りに瞬に似ているのだとしても、氷河には、自分の目には瞬しか美しく見えないだろうという確信があった。 「俺は――」 この叔父たちには、どう言い繕っても事実を隠しきることはできないだろう。 そう考えて、氷河は、彼等の前で大きく息を吸い、そして吐き出した。 「俺は、瞬を俺のものにできるとは思っていない。だが、瞬を俺以外の誰かのものには絶対にしない。丹波の姫がどんな姫なのかは知らないが、俺の瞬と並んで見劣りしない姫などいるわけがない」 すっかり開き直ってしまったように断言する氷河に、星矢と紫龍は我知らず瞑目してしまったのである。 彼等は、無駄と知りつつ、氷河の説得を試みた。 「瞬は、その姫の許に香だの絵だのを持っていって、姫の無聊を慰めてやっているらしい。つまり、そんな気配りをするほど、瞬はその姫を大切に思ってるってことだ」 「おまえもそろそろ腹をくくった方がいい。おまえのそれは邪恋だぞ。瞬には、おまえとは関わりのないところで幸せになる権利があるんだ」 無駄と知りつつ試みた星矢と紫龍の説得は、もちろん徒労に終わった。 「そんなことは許さん」 氷河は、それ以上 瞬の異母兄たちの常識的な意見に耳を貸す気配を見せなかった。 |