夜の外出が許されないのなら、出掛けていくのは昼しかない。
瞬の館に仕える車方の男から丹波の姫の館の場所を聞き出して、氷河が その地に向かったのは、彼が丹波の姫の存在を知ってから僅か二日後。
氷河は牛車ではなく、供回りもつけずに馬で向かったのだが、朝から降り出した雪は、彼の怒りに似た感情を静めるのにあまり役立たなかった。

御所を出て、丹波に着いたのは午後になってから。
丹波の姫が住まう小さな館は、京から離れた山奥にあるせいで家人が油断しているのか、若い姫のいる館だというのに、意外なほど警護が手薄だった。
おかげで氷河は、小柴垣越しに 館の内にいる丹波の姫の様子を存分に観察することができたのである。

お付きの女房は席を外しているのか、丹波の姫は、格子が半分下ろされた部屋に一人きりでいた。
まるで瞬のように、文机で熱心に書を読んでいる。
都の内に住まいがないのなら、さほど有力な貴族の姫というわけではないのだろう。
おそらく身に着けている衣装も、瞬が選んで贈ったもの。
丹波の姫は、雪を山桜の白花に見立てたような、趣味の良い桜の重をまとっていた。

問題の姫は、顔の造作だけなら、確かに瞬のそれによく似ていた。
『花のような』という噂は、ゆえに根拠のない流言飛語ではなかったことになる。
この姫と瞬が二人並んだなら、人はその様子を二輪の花に例えるに違いない。
それでも、氷河には、彼女を『美しい』と感じることはできなかった。
氷河にとって、彼女はただの“見知らぬ花”でしかなかった。
氷河にとっては、瞬だけが“美しい花”だったのだ。

だが、自分には『美しい』と感じられない この姫を、自分が瞬を『美しい』と感じるのと同じような気持ちで『美しい』と感じる人間がいるだろうことは、氷河にもわかった。――たとえば瞬が。
そして、おそらく二人は似合いの二人なのだ――。
そう思いはしたのだが、思うほどに氷河の胸はきりきりと痛んだ。
痛む胸の内で、瞬を自分以外の誰かのものにはしないという決意が、いよいよ強く激しい思いに変化していく。

『瞬を俺以外の誰かのものにはしない』
意思の力では抑えきれない その思いに突き動かされて、氷河は丹波の姫と彼の間を隔てていた小柴垣の向こうに足を踏み入れた。


彼葉の上にうっすらと積もった雪を踏みしめる音に気付くと、丹波の姫は、京の貴族の姫であれば考えられないほどの素早さで立ち上がり、庭に面した格子を下ろそうとした。
「瞬の使いできた」
丹波の姫が格子を下ろし終える前に 氷河がそう告げると、彼女は更に、京の貴族の姫であれば決してしないことをしてのけた。
彼女は、格子を下ろしかけていた手を止め、扇で顔を隠すこともせず、堂々と簀子縁(すのこえん)の上から氷河を見おろしてきたのである。

あまり長い間を置かず、
「もしかして氷河――瞬ちゃんの甥御さん?」
氷河が無言で頷くと、途端に彼女はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
彼女は、若い男に全く警戒心を抱いていないようだった。

「瞬ちゃんが、あなたを私のところによこすとは思えないけど――寒いのが得意のあなたでも、そんなところに突っ立っているのはきまりが悪いでしょう。どうぞ、中に入って」
「……」
彼女のその言葉に、氷河は己れの耳を疑ったのである。
下流の庶民の娘というのならともかく、仮にも貴族の姫が、初めて会った男をこれほど気軽に(ひさし)の内側に招き入れるのは、軽率を通り越して非常識というものである。
貴族の姫は、肉親や夫以外の男に姿を見られるだけでも不身持と噂されかねないというのに。
都から離れて、なかなか人目の届かない(ひな)でのこととはいえ、それはあまりに分別のない振舞いだった。
思いがけない招待(?)に、氷河はすぐにはその場から動くことができなかったのである。

「都の高貴な姫君を落としまくっているあなたが何を遠慮しているの。あなたを しわぶき病みにでもしてしまったら、私が瞬ちゃんに叱られてしまうわ。あなたがしわぶき病みに罹ったなんてことを瞬ちゃんが信じたとしての話だけど」
瞬より少し年上らしい丹波の姫は、異様に元気で、姫というより歳のいった世話好きの女房のように口数が多かった。
貴族の姫のたしなみなどあったものではない。

こんな姫を、あの瞬が好むだろうか――? と、氷河は疑うことになったのである。
だが、すぐに、生気に満ちた こんな姫だからこそ、瞬の心をとらえることができたのかもしれないという考えが生まれてくる。
他の姫たちと対峙した時には抱きもしなかった考え――『いくら姫当人に招じられたのだとしても、この場は遠慮すべきだ』という考えが、氷河の意識の隅には湧いてきていた。
この姫は、どこか普通ではなく――特別な姫だという思いが、氷河の胸中には生じてきていた。

だから、氷河は、廂の内には入らず庭先から、彼女に尋ねたのである。
「あなたは瞬を好きなのか」
と。
「ええ、もちろん」
氷河の許には、いかなる迷いも含まれていない明快な返事が即座に届けられた。
「瞬が、自分から通う初めての姫だ。瞬もあなたを好きなのだろうと思う」
「それはとても嬉しいことだわ」
丹波の姫が、言葉通りに嬉しそうに弾んだ声で答えてくる。

いったい この姫は、瞬なしではいられない男の前で何を嬉しそうにしているのかと、氷河は思ったのである――そう思わずにはすられなかった。
瞬に愛され、愛されることの幸福に輝いている姫。
どれほど愛しても自分には手に入れることのできない幸福を手にしている姫。
氷河は、彼女が憎かった。
殺しても飽きたりないほどの憎しみと嫉妬を、氷河は彼女に感じていた。






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