帝への献上品にもできそうな見事な黒馬。 遠目にも、それは見てとれた。 日が落ちかけた丹波の姫の館の門脇のくぬぎの木に繋がれている馬のたてがみには、解けきれなかった雪がまとわりついている。 黒馬は随分と長いこと、そこに繋がれていたものらしい。 その馬に、瞬は見覚えがあった。 先の大臣が落馬し、とても自分には扱えないと言って、氷河に譲った奥州馬。 まさかそんなことがと不安に囚われながら、瞬は丹波の姫の部屋へと急いだのである。 そこには、瞬が最も恐れていた――だが、想像していた通りの光景があった。 「氷河……」 格子の下ろされた母屋の部屋。 御簾は上げられている。 氷河と丹波の姫が向かい合って座っていた。 二人は向かい合って座っていただけだったのだが、瞬はそれを、当然のごとく貴族の常識に従って理解したのである。 肉親以外の男女が顔を合わせているということは、すなわち二人が親密な仲になったということだと。 「氷河……ひどい……」 瞬は、それだけ言うのが精一杯だった。 立っていることも、涙を押さえることも、瞬にはできなかった。 瞳から涙を零し、そのまま力を失ったようにその場にへたりこむ。 「瞬……!」 慌てて氷河が差しのべた手に、瞬は目をくれようともしなかった。 代わりに、両の拳を握りしめ、涙声で氷河を責める。 「どうしてなの! どうしてこんなことするの! 氷河は何でも持ってるでしょう。美貌も、才も、約束された将来も、貞節で美しい母君とお上の間に望まれて生まれた皇子として、堂々と人前に出ることもできる。なのに、どうして僕から何もかも奪おうとするの! 姫は僕の大切な――」 「瞬ちゃん、誤解よ」 「誤解? 何が誤解なの!」 この場で最も慌てふためいていいはずの丹波の姫は、涙ぐんでしまった瞬に驚いた様子もなく、扇で半分だけ顔を隠し、少々わざとらしい所作で楽しそうに首をかしげてみせた。 「何が……って、多分 何もかもが誤解だと思うわ。彼は、瞬ちゃんがどんなに優しくて綺麗な心の持ち主か、心無い噂にどれほど深く傷付いているかを、私に教えてくれていただけだもの。瞬ちゃんに優しくしてやってくれって頼まれたわ」 「僕に優しく……? 氷河……?」 不思議な話を聞かされた者の目で、瞬は年上の甥を見詰めることになったのである。 これまでの氷河の行状を考えると、それはにわかには信じ難いことだった。 だが、丹波の姫は嘘をつくような姫ではないという思いも、瞬の中にはあったのである。 瞬に名を呼ばれた氷河が、ぷいと横を向く。 「仕方がないだろう。殺しても飽きたりない女だが、おまえが好きだと言うんだから」 『仕方がない』――それは瞬の口癖だった。 その言葉を口にしなければならない自分が忌々しくてならないらしい氷河が、悔しそうに顔を歪める。 涙の残った瞳を見開いている瞬と、悔しそうに唇を引き結んでいる氷河。 そんな二人の間で、丹波の姫だけが楽しそうに にこにこと微笑んでいた。 「もちろん、瞬ちゃんに優しくしてあげることは固く約束したわよ。当然でしょう。瞬ちゃんは、私の義弟になるのだから」 「なにっ !? 」 丹波の姫の衝撃の告白の後、数秒の間をおいてから、部屋の中には氷河の声が木霊することになった。 今日は耳を疑い、目を疑わずにいられないようなことばかりが、氷河の上に次から次へと降りかかってくる。 今日は厄日に違いないと、氷河は心底から思うことになったのである。 「それはどういうことだ!」 「だから、何もかもが誤解だと言ったでしょう。私の殿は瞬ちゃんではなく、瞬ちゃんの兄君の方よ」 「なぜそんな大事なことを言わずに――それを先に言えっ!」 「あら、だって、本当のことを言わない方が面白い話が聞けそうだったんですもの」 悪びれない笑顔でころころと笑う姫に、氷河は尋常でない疲労感を覚えることになったのである。 瞬と同じ顔をして、よくもそんな人を食ったような真似ができるものだと、氷河は胸中で丹波の姫に毒づいた。 瞬が、まだ完全に疑いを消し去れていない様子で、怒りに燃えている氷河を見詰めてくる。 「姫は、兄さんが北の方に迎えようとしている人だよ。今、そのために北対を改修していて、でもその完成を待ちきれずに、兄さんは姫を播磨から呼び寄せてしまったの。京に入ると噂になるし、変な男が寄りつかないように気をつけてくれって、僕、兄さんに頼まれていたのに、こんな不始末――」 “変な男”の代表に、瞬の兄は自分を想定していたに違いないと、根拠もなく氷河は思った。 その絶大な信頼への返礼はいずれするとして、今 問題なのは瞬の方である。 丹波の姫が瞬の姫でないということこそが、今の氷河には大問題だった。 「この姫は本当に おまえの思い人ではないのか」 その質問に瞬が頷くより、瞬の兄の未来の北の方が頷く方が早かった。 首肯に込められている力も、どちらかといえば姫の方が強く明快である。 「瞬ちゃんは、私が寂しがっているだろうって、多忙な一輝の代わりに私の話相手になりにきてくれていただけ。まあ、そうは言っても、瞬ちゃんが話すのは、綺麗な年上の甥っ子の話ばかりだったけど。興味深い話ではあったわね。瞬ちゃんがどんなに その甥っ子のことを好きでいるのか、その甥っ子がどんなに瞬ちゃんを好きなのか、よくわかったわ。あなたの姿を見た時、すぐにわかったわよ。これが瞬ちゃんの可愛い甥っ子だって。でなかったら、貞操堅固なこの私が、一輝以外の人を廂の内に通すわけがないでしょう」 丹波の姫の主張は、それなりに理のあるものだったが、全く理に適っていないものでもあった。 瞬の綺麗な甥っ子だから危険がないという理屈は、どう考えても論理的でない。 彼女はつまり、氷河を、“危険のないひよっ子”と見なしたから、幼い子供を招き入れる気分で、氷河を廂の内に招じ入れてくれたのだ。 彼女にとって氷河は、その程度の相手だったということになる。 「僕自身が通っている姫だと思っていたのなら――氷河は僕の妻の候補にあがった姫を僕から奪うのが趣味なんでしょう。どうして奪わなかったの」 少々自尊心を傷付けられて唇を歪めていた氷河に、瞬が小さな声で尋ねてくる。 不機嫌が消え去りきっていない口調で、氷河は吐き出すように答えた。 「仕方ないだろう。おまえが初めて自分から通うようになった姫だ。おまえの幸せを考えたら、俺は身を引くしかないじゃないか」 「瞬ちゃんはずっと身を引いていたと思うわ。あなたの幸福のために」 「なぜ」 思いがけないことを丹波の姫から聞かされて、氷河が虚を衝かれたような顔になる。 瞬がそんなことをする理由が心底から理解できないというような氷河の声音に、瞬は切なく眉根を寄せることになった。 「なぜ……って、当たりまえでしょう。氷河は僕が男子だってことを本気で忘れてるの。それに――」 「忘れてはいないが――それに、何だ」 決して忘れていたわけではないのだが、氷河がその事実をほとんど意識していなかったのもまた、厳然たる事実だった。 氷河は慌てて場を取り繕い――というより、その件をうやむやにするために、瞬に問い返した。 氷河に続く言葉を促された瞬が唇を噛み、視線を床に落とす。 「それに……僕が不義の子だというのは噂ではなく事実だよ。御所を出て自分の館を構えた時、その報告と挨拶に行って、母から直接聞いた。僕は父にも母にも望まれずに生まれてきた子供で――だから、僕は得意がって氷河の側にいられるような人間じゃないんだよ」 「おまえの母が直接……だと?」 それは、宮中の誰もが知っている公然の秘密だった。 “ただの噂”にしておかなければならない、“ただの事実”。 “噂”ならともかく“事実”を、瞬の前で口にする者はいないだろうと思っていたが、まさか母親が直接それを瞬に告げるとは。 それまで とりたてて意識したことのなかった瞬の実母に、氷河は一刹那、この世に存在するどんな人間に対するものより強い憎しみを覚えたのである。 氷河の瞳の中に生まれた感情を見たくなかったのか、瞬がゆっくりと その顔を伏せる。 「父は、僕が生まれる前から そのことを知っていた。だから、母は僕を産むなり出家した。兄さんは気にするなって言ってくれたけど、でも、他の人は誰も不義の子を見る目で僕を見ていた――氷河以外の人は」 「俺だけじゃないだろう。星矢も紫龍も、亡くなった俺の母だって――」 「うん。星矢たちは分け隔てなく接してくれたよ。みんな、知っているのに知らない振りをしてくれた。でも、氷河だけが、そんなことどうでもいいって――知らない振りをしてくれるんじゃなく、そんなことはどうでもいいことだと心底から思っているようで――。氷河だけは、他の人たちとは何かが違ってた。不義の子を哀れむのじゃなく、触れてはいけないものに触れないようにするのでもなく、ただの僕を見てくれていた」 瞬は、だから、自分が氷河の側にいていい人間ではないことはわかっていたのに、年下の叔父の館を訪ねてくる甥っ子を追い返してしまうことができなかったのだ。 自分を“気の毒な不義の子”としてではなく、“光源氏の末息子”としてでもなく、“ただの瞬”として見てくれるただ一人の人間。 それが、瞬にとっての氷河だったから。 「俺はおまえに惚れてたから」 氷河が、彼らしくない抑揚のない声で、その事実を瞬に告げる。 まるで、この場この時のやりとりに、これからの彼の人生のすべてがかかっているというかのように、氷河は全身を緊張させていた。 「氷河……」 瞬は、そんな氷河の顔を、切なく見あげることになったのである。 同じように切なげな目が――そして、少し苦しげに――瞬を見詰め、見おろしていた。 「この姫は本当に一輝が妻に迎えようとしている姫で、おまえの妻になる人ではないんだな」 「うん」 「おまえには、好きな姫はいないんだな」 氷河が念を押してくる。 瞬は頷かないわけにはいかなかった。 『他に心に決めた姫がいる』と言った方が氷河のためになるだろうという考えはあったのだが、それはすぐにばれてしまう嘘だった。 瞬の答えを確かめた氷河が、二人の間にある距離を詰めてくる。 膝が触れ合うほどのところに自分の居場所を定めると、氷河は真剣な声と目で、俯きかけている瞬に訴えてきた。 「俺が、京の町の姫たちの顔をいちばん多く知っている男だというのは事実だと思う。俺が文を送った姫たちは、俺が訪ねていくと、一人の例外もなく俺を御簾の中に入れてくれたからな。だが、俺は誰とも事には及んでいない。何もしていない。俺は、彼女たちがおまえにふさわしい姫かどうかを確かめていただけで――いや、ふさわしくないことを確かめるために、彼女たちの許に行ったんだ。本当だ。俺は誰にも指一本触れていない。俺が抱きしめたいのは、いつもおまえだけだった」 「……」 氷河の訴えが嘘ではないことを、瞬は知っていた。 瞬の許には、氷河と情を交わしたという噂の立った姫君たちの幾人かから、氷河との間には何もなかったという弁解の文が届けられていたのだ。 おそらく、姫たちと氷河の間には、何もなかったのだろう。 だが、彼女等が氷河に御簾の中に入ることを許したのは事実である。 それは、姫たちが、二人がそういう仕儀になっても構わないと思ったからできたことで、彼女たちは、氷河を部屋に招き入れた時点で、心の内ではもう氷河にすべてを許していたのだ。 「氷河は、事実と違う噂を立てられることになる姫君たちの立場や評判のことを考えていないの……」 「あの姫たちは、おまえにふさわしくない軽率な尻軽だ。その事実が先にあって、評判がその後を追って出てきたにすぎない」 「……」 氷河の言う通りなのかもしれないが――と、瞬は短い吐息を洩らすことになったのである。 氷河の言う通りなのかもしれないが、彼女たちに軽率な振舞いをするように仕向けたのは氷河自身ではないかと。 しかし、氷河には、自分が罪なことをしたという意識がないらしい。 瞬は、もう一度、短く吐息した。 そんな二人のやりとりを面白そうに眺めていた丹波の姫が、ふいに我にかえったように瞬に尋ねてくる。 「私は別室に移動した方がよさそうね」 「あ、そんなことは……」 ここは、瞬の兄が未来の妻のために用意した館である。 館の女主人に席を外させるわけにはいかないと、瞬は常識的に考えて、彼女を引きとめようとしたのだが、そんな瞬を、非常識は氷河が遮った。 「そうしてもらえると助かる」 「氷河……! 義姉君、本当にそんなことはなさらなくても……お願い、ここにいて!」 氷河が驚くほど切羽詰まった様子で、瞬が未来の姉に訴えていく。 いったい何が瞬をこれほど取り乱させているのかと、氷河は訝ることになったのである。 丹波の姫は、その理由を知っていた。 「私が同席していないと、彼にすがっていってしまいそうな自分が恐い?」 「義姉君!」 図星をさされて、瞬が泣きそうな顔になる。 が、瞬の未来の姉は、なかなか厳しい女性らしく、心細そうな目をした未来の弟を見やって、くすくす笑うだけだった。 「そういう趣味を持つ公達がいることは、話に聞いたことがあったけど、本当にいるのね! 本物を見るのは初めてだわ」 『本物』とはどういうものなのかと確認するのもはばかられ、瞬はひたすら楽しそうにしている義姉の前で言葉を詰まらせることになったのである。 そんな瞬とは対照的に、丹波の姫の舌は極めて滑らかだった。 「その恐れは、勇気を出して乗り越えなければならないものよ。か弱い女の私だって、一輝のために乗り越えたわ。瞬ちゃんも頑張ってね」 「そんな……良識があるなら、僕を止めてください!」 「あら、そんな不粋なことができるわけないでしょ。田舎者と馬鹿にされてしまうわ。大丈夫。一輝には内緒にしておいてあげるから、心配しないで」 「義姉君!」 懸命にすがる瞬を振り切って、彼女は淑やかに――というより、颯爽と――屏風の脇をすり抜け、部屋を出ていってしまった。 常識と不粋が過ぎるせいで怯えきっている未来の弟と、非常識を極めた未来の甥を、二人きりで その場に残して。 |