氷河が 戒律の厳しいことで有名なフランシスコ会の修道院に入ると言ってきた時、彼の後見人であるカミュは自分の耳を疑った。 カミュは生まれた時から氷河を知っていたし、彼の後見人としての務めを果たすようになってからはずっと同じ館で日々の生活を共にしてきた。 その間、カミュは、一瞬たりとも、氷河が己れの人生を神に捧げようとするほど神を畏れ敬っていると感じたことはなかったのだ。 もしこの世に神の定めた運命というものがあるのなら、あくまでもそれに抗い、己れの生きたい道を己れの力で切り開き、貫き通そうとする我の強さを心底に潜ませている人間。 カミュは彼の甥をそういう人間だと思っていたのである。 カミュは、氷河が修道士になることを望むなど、何の冗談かと思わないわけにはいかなかった。 よしんば、信仰への帰依を望む氷河の心が真実のものであったとしても、である。 氷河が修道士になるということは、彼をC伯爵家の跡継ぎにふさわしい人物に育てるべく苦労してきたカミュの これまでの年月が全く無意味なものになるということと同義。 カミュにはそれは耐え難いことだった。 それは、カミュにとっては、それこそ神の定めた運命に逆らってでも阻止しなければならない事態だったのである。 7歳だった氷河が、病で、ほぼ同時に両親をなくしてから10余年。 両親を失った時、氷河は、両親と共に言葉や感情まで失ってしまったかのように、泣くこともせず部屋の中に閉じこもり、誰が呼んでも その部屋から出てこようとはしなかった。 悲しみのあまり若様は気がふれてしまったのだと、館中の誰もが考え、みなしごになってしまった子供が正気に戻ることはないだろうと思った。 形式的に爵位を継ぐことさえ不可能なのではないかと、それどころか 彼はこのまま両親のあとを追おうとしているのではないかと、誰もが案じたものだった。 閉じこもっていた部屋から力づくで引っ張り出し、無理矢理氷河に食事をとらせたのは、兄夫婦の訃報を聞いて館に駆けつけたカミュだった。 そんなふうにして生きることを余儀なくされると、氷河は今度は、親を失った空虚や悲しみに抵抗するかのように、あるいは 神の定めた運命に逆らおうとするかのように、感情的で激しやすく攻撃的な子供になった。 こんな子供が伯爵領を統治するようになったら、彼はとんでもない暴君になり、やがては王の機嫌を損ねて廃嫡されてしまうのではないかと、誰もがその将来を案じるような少年になってしまったのである。 氷河が欲しているのは“力”であるようだった。 それが神でも人間でも、他者に自分の運命を変えられることが、氷河には我慢ならないことであるらしい。 氷河は、剣術や格闘技の習得には熱心だった――そういったことにのみ熱心だった。 学問芸術方面には全く興味を示さず、これでは彼は、腕力だけを備えた 知性や人間らしい情緒や徳のない野蛮人になってしまうのではないかと、また伯爵家の者たちは彼の将来を案じることになったのである。 それが10を過ぎた頃、突然、まるで神の啓示でも受け、自らの義務に目覚めたかのように、氷河は学問、芸術、作法、社交等、伯爵家の当主が身につけるべきあらゆることの習得に熱心な子供に変貌した。 もともと才があったのか、あるいは本当に神の恩寵が下されたのか、氷河の知識の吸収は早かった。 立ち居振舞いも歳不相応と思えるほど立派なものになり、13、4になった頃には氷河は、自ら、領地経営・領民統治の実務の習得をカミュに希望するような少年になっていたのである。 13、4歳といえば、普通の子供なら反抗期の真っ只中。 目上の者に逆らい遊んでいたい盛りである。 だが、氷河はその歳には自分の足で領地をまわり、領民たちに不便や不満はないかと尋ねてまわるような、“出来すぎ”の少年になっていた。 氷河が正式に伯爵位を継ぎ、領民を直接統治するようになったなら伯爵家の繁栄は間違いなしと、誰もが安堵するようになったのが5年前のこと。 その氷河の成人の時も間近、いよいよ自分も後見人のお役御免と、カミュは自らの義務を果たし終えた満足感に浸っていた。 そんな時に、氷河は、カミュにとっては青天の霹靂とも言うべき決意を表明してくれたのだ。 カミュには、氷河の決意は到底受け入れられるものではなかった。 氷河にその意思を告げられた時、カミュは一瞬、氷河は12年前 彼に生きることを強いた叔父への復讐を図って そんなことを言い出したのではないかと疑いさえしたのである。 出来すぎの跡継ぎとして過ごしてきた氷河の5年間は、その準備期間にすぎなかったのではないかと。 そういう疑いが生まれるのが不自然ではないほど、氷河は我の強い子供――今では青年といっていいが――だったのだ。 「な……何を馬鹿なことを言い出したのだ! 伯爵家はどうする!」 「叔父上がいるだろう」 「私は、おまえの両親から一時的にこの家を預かって、領地経営の実務を代行していたにすぎない。形式的には、おまえは既に12年前に爵位を継いでいるんだぞ!」 「叔父上も男なら 野心というものを持ったらどうだ。未熟な甥を追い落として、自分が爵位を手に入れようとするくらいのことを考えてもバチは当たるまい」 「正統の後継者がいるのに野心など持ったら、反逆者ではないか!」 「その正統の後継者は、主君を 王から神に鞍替えしたんだ。遠慮はいらない。王も、神の 叔父にして後見人でもあるカミュの前で、何を考えているのか読み取りにくい薄ら笑いを、氷河が その顔に浮かべる。 カミュは我知らず、氷河をなだめ機嫌を取るような口振りになってしまっていた。 「いったい、何がおまえにそんな馬鹿げた決意をさせたのだ? まさか、自分が領主になることに不安を覚えているわけではあるまい? 領主としてやっていく自信がないとでも? もうそうならば、そんな不安は不要で無用だぞ。おまえには、そのために必要な素養がある。知識も判断力も十分に備えている。なにしろ、私が指導したのだからな。おまえに欠けているのは妻くらいのものだ。それも、当伯爵家にふさわしい若く美しい姫はいないかと、先週 国王陛下にお伺いを立てたばかりだ。おそらく陛下が、まもなく おまえにふさわしい姫君をご紹介くださるだろう」 叔父の言葉に、氷河は僅かに顔を歪めた。 それに気付かず――もとい、気付いてはいたが、さして深い意味があるとは思わず――カミュが言葉を続ける。 「その姫と結婚し、子を成すのがそなたの務め。その子が今のおまえの歳になって、伯爵家の安泰を確信できるようになってからなら、修道院にでも尼僧院にでも行って構わん。だが、それまでは――」 自分の決めたことに口出しされるのが嫌いな氷河が、右の手を振って、叔父の言葉を遮る。 それから彼は、わざとらしい仕草で胸に十字を切ってみせた。 「結婚? そんな罪深いことができるか。俺は清貧・貞潔・従順の誓いを立てて、生涯神に仕えることを決意したんだ」 「だから、それは30年後でも遅くはないと言っているのだ!」 「俺はもう決めたんだ。至聖三者大修道院の修道院長に、俺の修道誓願を受け入れてくれるよう依頼した書面も送った。明日にも修道院に向け出立しようと思う」 「後見人に断りもなく勝手なことをするなーっ!」 カミュが わめいても騒いでも、すべては後の祭りだった。 氷河が修道誓願を希望した至聖三者大修道院は、建国の王が立てたもので、王室直轄。 国内の修道院の中でも最上の格を有する修道院だった。 現在の修道院長は先々代の王の第二王子、つまり現国王の叔父に当たる。 一度 修道誓願の希望を出してしまったら、『単なる気の迷いでした』と容易に取り消すことはできないほど権威のある修道院だったのだ。 せめてもう少し融通の利く修道院だったならと、カミュは氷河の選択を呪ってしまったのである。 絶望的な気分になり、氷河を責める言葉を発することができなくなったカミュを その場に残して、氷河は意気揚々と叔父の執務室を出ていってしまった。 「あの馬鹿たれが」 彼の他には誰もいなくなった部屋の中で、やっと言葉と声を取り戻すことのできたカミュが呟いたのは、呟いても何の解決策ももたらさない、泣き言めいた呪詛の言葉だった。 が、泣き言や呪詛を繰り返していても事態は好転しない。 カミュは、降って湧いたようなこの苦難を、どうあっても打破しなければならなかった。 だから、彼はそのための方策を考えたのである。 そもそも修道士というものは、なりたいと望めば誰もが容易になれるというようなものではない。 修道生活に入る決意をした者は、希望した修道院で、1年間は見習い修道士として暮らさなければならないのだ。 その見習い期間の様子を見て、修道院長が『適性あり』と判断した時、希望者は初めて正式に修道誓願を立てることができる。 『あの依頼は単なる手違いでした』では済まないとなったら、残された道はただ一つ。 氷河は修道士には向いていないと修道院長に判断させ、氷河が修道院から放逐されることを期待するしかなかった。 道は一つしかなかったが、それは決して希望のない道ではない。 氷河は、どう見ても俗世向きの男なのだ。 希望はまだ失われていない。 そう考えて、カミュは、彼の執務室の扉の外にいる家令に、 「瞬を呼べ!」 と、命じたのだった。 |