相変わらず少女めいた瞬の顔を、久し振りに正面から見て、カミュは我知らず溜め息を洩らすことになった。 少女の持ち物であったなら、この可愛らしい顔はどれほどの幸運をこの少年にもたらすことになるのかと思わずにはいられない。 花嫁の持参金に頼る必要のない大貴族たちが こぞってこの 貴族でありながら爵位を持たず、伯爵家の家臣の更に家令として仕える瞬の家に、“公爵夫人となった瞬”は莫大な恩恵をもたらすに違いないのだ。 瞬が少女であったならば。 瞬は氷河より年下で、激しやすく意思的で攻撃的で目から鼻に抜けるように頭の回転が速い氷河とは対照的に、大人しく柔軟で温和、物事を深く静かに考える少年だった。 氷河が伯爵家の“心配の種”から“希望の星”に変わることになる少し前、家臣の推挙で氷河に仕えるようになった少年。 あまりに感情的で攻撃的な氷河を案じたカミュから相談を受けた家臣が、それならと言って連れてきた家令の息子――貴族の身分は有しているが貧しい家の次男坊ということだった。 『若様と同じように激しやすく好戦的なあの子の兄を筆頭に、誰もがこの子の前では優しく穏やかな人間に変貌してしまうのです』というのが、瞬を推挙した家臣の弁。 『あの子は、何か人の心を和ませる空気を持った子なのです』と、彼は言っていた。 当時まだ6、7歳だった瞬を最初に見た時、カミュは本気で瞬を少女と見誤ったのである。 『人の心を和ませる』というのも、瞬が特殊な力を持っているのではなく、たとえば無心に野に咲く花を目にとめた人間が、その健気な姿に我知らず目を細めるような、自然の作用にすぎないのだろうと、カミュは思った。 おそらく瞬を推挙した家臣に与えられたのであろう真新しい服を着て カミュの前に現われた子供は、野の花にたとえられるにふさわしい可愛らしい様子をしていた。 そして、その姿を認めたカミュは 実際に心和んだ気分になっている自分に気付くことになったのである。 大人しく行儀もよさそうな その子供を、カミュは、半信半疑で、1ヶ月だけ試しに氷河につけてみることにした。 氷河が天啓を受けたように真面目で礼儀正しい少年に変貌を遂げたのは、その直後。 氷河に天啓をもたらしたのが 人懐こい目をした小さな子どもだったとは思い難いところがあったのだが、瞬が氷河に悪い影響をもたらすような子供でないことは確かだったので、カミュは、試用期間がすぎても そのまま氷河の側に留め置くことにしたのである。 同じように“子供”だった二人は、それからずっと何をするのも一緒だった。 貧しい家の次男坊にすぎないが、一応は貴族。 氷河が正式に爵位を継ぎ、伯爵家の人事にも彼の意思を通すことが可能になったなら、氷河は、瞬を騎士に叙任することを最初の仕事にするに違いないと、カミュは思っていた。 二人はそれほどに近しい――主人と家僕というより親友同士だったのだ。 その瞬にも、氷河の決意は寝耳に水だったらしい。 「そんな……どうして……」 瞳を見開いて驚く瞬の様子を見やり、カミュは微かではあったが希望の光を見い出した思いがしたのである。 瞬が氷河の決意を知らないということは、瞬はまだ氷河を止めていないということなのだ。 10年来の親友に、理と情の二方面から諭されたなら、氷河の決意が揺らぐこともあるかもしれないではないか。 「ふん。若い男が俗世に絶望する理由など、せいぜい女に振られてヤケになっているとか、そんなところだろう。若い頃にはありがちなことだ」 だから 氷河の決意も軽率なもので、いずれ氷河を後悔させるだけのものなのだと、カミュは考えていた。 問題は、一度こうと決めたら決して引こうとしない氷河の性格なのである。 それは理詰めの説得でどうにかできるものではない。 であればこそ、理だけではない瞬の力でこの事態をどうにかできないものかと、カミュは氷河の幼馴染みに期待していたのである。 だが、瞬は、カミュの見解に遠慮がちに異議を唱えてきた。 「氷河はとても真面目でお硬くて――女性に袖にされる以前に、女の人に目を向けたことも……」 「子供というものは、親の目の届かないところで、いつのまにか大人になっているものだ」 「叔父君の目は盗めても、氷河が僕の目を盗むことは難しいと思うのです」 「む……」 それは、瞬の言う通りだった。 起床した時から就寝の時まで、氷河はいつも瞬と一緒にいるのである。 日常のごまごまとした些事の世話はもちろんのこと、瞬は氷河の学友としての務めから剣術の稽古の相手までこなしていた。 氷河が瞬を自分の側から片時も離そうとしないので、瞬が家に用が生じた時も、瞬の家の方で瞬に用が生じた時も、瞬が家に戻るのではなく、瞬の家の者が伯爵家の館を訪ねてくるのが慣例になっているほどだったのだ。 「氷河が誰かに恋をしていたのなら、僕が気付いていたはずです」 その瞬がきっぱりと断言する。 おかげでカミュは、氷河の馬鹿げた決意の理由が皆目わからなくなってしまったのである。 「だが、では、女以外の何が原因なのだ! 氷河の人生は順風満帆だぞ。氷河は、財も地位も名誉も才も有している。その未来に翳りの要素など何ひとつない。今更、亡くなった両親のために祈り三昧の人生を歩むことを思いついたなどということもあるまい」 「それは……世の無常を感じたとか……」 そう告げる瞬の口調は、いかにも自信がなさそうだった。 それはそうだろうと、カミュは思ったのである。 カミュが知る限り、氷河は、そんな形而上学的なことに囚われるような男ではなかった。 氷河は、誰よりも絶望に縁遠く、誰よりも(俗世の)地に足をつけ、誰よりも生きていることを謳歌している男だった。 両親を失った時の病的な反応が芝居だったのではないかと思えるほど、今の氷河は毎日を明るく楽しげに笑って過ごしていた。 あるいは、 いい意味でも悪い意味でも、氷河は、喜怒哀楽が激しく、それゆえに生気に輝いている人間だったのだ。 だからこそ、カミュには、氷河の突然の決意の理由がわからなかったのである。 「ともかく、氷河が正式な修道誓願を許されるまでの見習い期間のうちに、氷河を俗世に連れ戻すのが、おまえの役目だ。とりあえず、付き人として、都の至聖三者大修道院まで氷河についていってくれ」 「それは――氷河と一緒にいられるのなら、それは僕には願ってもないことですが、見習いの修道士に付き人なんて許されるものでしょうか。氷河も、今回ばかりは僕についてこいと言ってくれるかどうか……」 瞬が心配そうに、彼の主人の後見人に尋ねてくる。 確かに修道士に――それも、見習い修道士に――付き人がついているなどという話は聞いたことがない。 修道院に入るということは、神に貞節・清貧・従順を誓い、俗世のすべてを捨てるということ。 修道士になる者が捨てなければならないものの中には、財や身分はもちろん、家族――俗世での人間関係――も含まれているのだ。 「そこは、まだ見習い期間なのだし、伯爵家の事務に関して引継ぎ事項があるとか何とか理由をつけて――ああ、いっそ おまえも修道士志願だということにしてしまおう。氷河が知ったら癇癪を起こすに違いないから、氷河には知られぬように、修道院に向かう氷河の後を追え。修道院の院長には、私がその旨 手紙を書く。とにかく、どんな手を使ってもいいから、氷河を俗世に連れ戻すのだ。万一 連れ戻せなかったら、おまえもそのまま修道士になってしまえ。氷河と一緒でなかったら、この館に帰ってくるな!」 「仰せの通りに」 厳しい命令に緊張しているとは言い難い表情で――むしろ嬉しそうに――瞬がカミュに頷く。 氷河を――主人と親友を兼ねている氷河を――修道院まででも追いかけていけという命令は、瞬には『これまで通りの奉公を続けろ』程度の命令でしかないのかもしれないと、カミュは思った。 氷河の馬鹿げた決意は、これほどの忠臣を見捨てるという行為なのだ。 氷河の無情が、カミュには理解できなかった。 「そのうち、国王陛下が、氷河の妻にふさわしい姫をご推挙くださるだろう。俗世には、信仰の世界では手に入れることのできない幸福や喜びがある。神の御胸に抱かれる喜びよりも、恋人の胸に抱かれていた方がずっといいと、氷河に考え直させるんだ」 「そうできるように努めます」 瞬の瞳に、微かに憂いの色が浮かぶ。 少女の持ち物であったなら、この可愛らしい顔はどれほどの幸運をこの少年にもたらすことになるのか。 カミュの胸中に、再びその思いが浮かんでくる。 それが、憂いを含んだような瞬の表情を 恋を知ってしまった少女のそれのようだと感じたせいだったことに、カミュは その時には気付かなかった。 |