氷河と瞬が身を寄せた至聖三者大修道院は、さすがに国内で最も権威ある修道院と言われるだけあって、その施設は壮麗、敷地も広大なものだった。
そこにいる修道士たちは、王族や大貴族の子弟たち、引退した大物政治家等で占められており、宮廷には縁のない瞬でも名を知っている者が大勢いた。
修道院の敷地内には、彼等が寝泊りする宿舎、壮麗な礼拝堂、図書室、野菜園や果樹園、製粉所や葡萄酒の醸成施設までが揃っている。
修道士たちがくすんだ色の修道服ではなく きらびやかな衣装をまとっていたなら、富裕な貴族の城館といってもいいような場所だった。
当然、女性の姿はなく、一日に二度ある食事も、特別な日でない限りは、パンとほとんど実のないスープのみだったが。

夜中と言っていい時刻に起床し、祈り、働き、祈り、働き、祈り、眠りにつく。
それが修道士の生活だった。
夏場は院内にある野菜園や果樹園の世話が主な労働になるらしいが、真冬の今は 専ら、秋までの収穫を材料に保存食を作ること――ジャム作りや葡萄酒作り、麦挽き、パン焼き、他に、水汲みや掃除、建物の修理等が修道士たちの仕事になっていた。
自給自足を旨としているため、仕事はいくらでもある。
そして、疲れ果てて眠るのは硬く冷たい粗末なベッド。
もちろん、各部屋に暖炉などという洒落たものはなかった。

「僕はもともと貧乏貴族の息子だから、硬いベッドも粗食も平気だし、水汲みや粉挽きなんて仕事も5つの頃からやってて慣れてるけど、氷河は大変でしょう。硬いベッドでなんて眠ったこともないんだから」
一日の大半が祈りと労働で終わる日々。
氷河の表情は安らかな心で神に近付くどころか、時を経るにつれ険しさが増していくばかりだった。
瞬が、そんな氷河に心配そうな顔を向けてくる。
瞬の懸念は的を射ているようで、大きく的を外していた。

氷河は、寒さや力仕事や硬いベッドはどうということもなかったのである。
一日に何度もある祈祷の時間の方が、氷河には耐えることの困難な苦行だった。
その上、ことあるごとに断食をしたがり、危ない趣味でも持っているのではないかと思うほどに我が身を鞭打ちたがり、必要なことさえ口にせず沈黙を良しとする他の修道士たち。
彼等はどこかがイカれているのだとしか、氷河には思えなかったのである。
それが本当に神に近付くための行為なのだとしたら、神は嗜虐趣味の持ち主であるに違いないと、氷河は確信しつつあった。

瞬は、氷河とは逆で、神に祈りを捧げることは苦ではないようだった。
労働も試練と思えるほどのものではないが、ただ寒さはつらいらしい。
「氷河のお屋敷で働くようになってから、楽な仕事ばかりしていたから、身体がなまっちゃったのかな。重いのは平気なんだけど、手がかじかんで、すぐ動かなくなる」
手にしていた水汲み用の桶を うっすらと雪の積もった地面に置いて、瞬は、自由になった指を伸ばし折りしながら、氷河に告げた。

「我儘な俺の相手が楽な仕事だったはずがない」
自分の分の桶を雪の上に置き、氷河が瞬の冷えきった手を自分の手で包む。
瞬の小さな手はすっかり氷河の手の内に収まりきってしまった。
その様に、瞬は、己れの非力を感じることになったのである。
腕力とは違う力の無さ――敢然と試練に立ち向かうための勇気も、確固たる意思をもって すべてを捨てる勇気も持てない自分の優柔不断――。
それが、瞬の心を苛み続けるものだった。
もうずっと以前から。

「水汲みが終わったら、暖炉のない図書室で写本作業だぞ。ペンを持てるのか」
「大丈夫だと思うんだけど――」
瞬は、氷河の手を振り払うことはしなかった。
試練と苦難を求めて ここにいる修道士は、神以外の者から与えられる救いや安らぎを拒まなければならないことは わかっていたのだが。
無言で、二人の手をじっと見詰める。
氷河の手は驚くほど熱かった。
瞬は、それを、ここにいる修道士たちへの憤りのせいなのだろうと察したのである。

「僕、わりとこういう生活に向いてるかもしれない。氷河より神様の側にいたいとは思わないんだけど、ここの生活は思っていたより つらくない」
「つらくない?」
こんなに冷たい手をしているのに――と、氷河は言いたげだった。
だが、瞬は、氷河の青い瞳を見上げ、彼に頷き返したのである。

「富める者が天国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がやさしい――って、聖書にあるでしょう。ここにいる人たちは、自分が天国に行きたいから、本当は働く必要もないのに働いて、あえて自分に過酷な試練を課している。ここにいる人たちは、俗世では富める人たちだったから、だからここでの労働をつらく感じるだけなんだよ。ここの外には、こんな生活を当たりまえのように思ってる人たちがいくらでもいる」
「それが正解だろうな。ここは結局、貴族や金持ちたちの自己満足と道楽のための場所なんだ」

氷河の同意を得て力づけられた瞬は、修道院での生活に入ってから初めて、氷河の説得を試みてみたのである。
ここでの生活で得られるものは何のもないということを、氷河は既に理解しているはずだと期待して。
「それがわかっているなら……。氷河はこんなところで遊んでいるべきじゃないと思うんだ。氷河は、ここの外で、ここの外の世界を良くするために努めるべきだと思う。氷河には、社会を より良い方向に変えることのできる力と才と義務がある。その機会も与えられている。だから、氷河は外の世界に戻った方がいいんだよ。氷河自身のためにも、氷河以外の人のためにも」
「今 修道院の外に出ても、俺は幸福にはなれない」
「え……」

それは、思いがけない答えだった。
氷河の幸福がどういうものであるのかということは氷河自身にしかわからないことであるが、氷河はそれを神によって与えられたいと願う人間ではないということだけは、瞬にもわかっていた。
幸福でも成功でも、自分の手で掴み取るのでなければ意味も価値もないと考えるのが氷河だと、瞬は思っていたのである。
そして、それ以前に、瞬は、氷河が幸福を求めてここに来たのだという事実を知らなかった。

本音を言えば、瞬は、カミュが勝手に自分の未来の細君を捜し求め始めたことに臍を曲げ、叔父を困らせるために、氷河はこんなことを企んだのだろうと思っていたのである。
だが、そうではなかったらしい。
氷河は、彼の幸福を求めて、もっと積極的かつ能動的な思いで、修道士になることを考えた――ものらしい。
その事実は、瞬に、決して軽いものではない驚きをもたらした。

「ここを出ることは、俺より おまえこそが考えるべきことだ。おまえは、俺よりはるかに敬虔で勤勉だが……修道院長は、おまえにはここにいてほしくないようだぞ」
それでなくても思いがけない氷河の答えに戸惑っていた瞬を更に困惑させる言葉を、氷河が瞬に告げてくる。
瞬は氷河の言に驚いて、その瞳を見開くことになった。
「え……? ど……どうして? 僕は戒律を守れているし……確かに僕は、こんな格式の高い修道院に入れるような有力貴族の出ではないけど、一応 貴族ではあるし……」
「神に貞潔の誓いを立てた修道士たちが、おまえを見て そわそわしているからな」
不愉快そうな氷河の声音の訳が、瞬にはわからなかった。






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