修道院は、己れの魂の救済を求める者が俗世のすべてを捨てて入る場所である。 つまりは現世での幸福より、死後の幸福に重きを置く者たちが集う場所。 そこにいる修道士たちは、そうすることで神の御許に近付けると信じ、己れに過酷な試練を与える日々を過ごしている。 彼等は、生まれながらにして自分のものだった富を捨て、身分を捨て、欲を捨て、あえて つらい試練と労働を自らに課し、我が身を傷付けることをさえする。 だが、人が自ら望んで得る試練を、神は、その人間が乗り越えるべき試練と見なすだろうか。 試練とは、神によって与えられるもの、それこそが人が乗り越えるべき試練なのではないだろうか。 神の御許に近付きたいというのは、そもそも彼等が捨てたはずの“欲”ではないのか。 もしそうなのだとしたら、自分が生まれた時に与えられた環境で幸福になるために努めることこそが、最も神の意に適った生き方であるに違いない――。 この修道院に来て、瞬はそう考えるようになっていた。 であれば、氷河が神の御許に近付く最短の道は、彼が生まれた時、神が彼に課した義務を果たすべく努めることなのだ――と。 氷河には、そのための力と才と機会が与えられているのだ。 この修道院の仕組みは、むしろ自分にこそ適切なものなのではないか――瞬は、そう思いもした。 氷河は、彼に与えられた試練を乗り越えるために 外の世界に帰り、自分は自分に与えられた試練を乗り越えるために ここに残る。 それが氷河の幸せであり、自分の幸せ――つまりは氷河の幸せ――を希求することなのだ――と。 神の意によって瞬に与えられた境遇は、“氷河に出会い、氷河に恋をすること”だった。 それは当然 神の教えに背く愛であるから、瞬は己れを氷河から遠ざけなければならない。 それが、神が瞬に与えた試練である。 その試練を乗り越えるための場所として、俗世から閉ざされた修道院という この場所は、それこそ神が瞬に与えた恩寵のように よくできた場所だったのだ。 「そのために、あなたは僕をここに呼び寄せたのですか」 夜の冷たい礼拝堂で、瞬は、祭壇の奥にそびえ立つ十字架上のイエス像に尋ねたのである。 「だとしたら、神の教えに背く思いをこの胸に抱いている僕が ここで氷河の幸福を願うことを、あなたはお許しくださいますか」 と。 答えが返ってこないことは、瞬には わかっていた。 神は、人が自ら苦しみ、悩み、考え、正しい答えに辿り着くことを期待する存在なのだ。 冷たい石の床が、そこに跪いている瞬の身体から熱を奪っていく。 この場にいても、体力を失うだけで、救いも答えも得られない。 そう考えて、瞬は自分の部屋に戻ろうとしたのである。 その瞬の肩を、背後から鷲掴みに掴む者があった。 「だれっ」 瞬はまず最初に、これは氷河の手ではないと思ったのである。 次に、これはまともな修道士ではないと思った。 戒律を守る修道士は、滅多に他人に触れようとはしない。 まして、こんな乱暴な所作では。 瞬の推察は外れていた。 そして、当たっていた。 瞬の肩を掴みあげた男は修道服を身にまとった修道士だったが、心は修道士の心を持っていなかったのだ。 瞬は、その男に見覚えがあった。 瞬たちに先立つ半年前に この修道院に放り込まれた、さる公爵家の三男坊。 毎日の祈りはおろか、日々の労働さえ怠りがちで、『奴がいるおかげで、俺の不熱心が目立たなくて助かる』と、氷河に感謝されていた男だった。 「こんな別嬪がいるのなら、娑婆より ここの方が天国に近い場所だという話は事実のようだな」 「あ……」 彼はいったい何を言っているのか。 神の像が人界を見詰め見おろしている この場所でまさか――と、瞬は思ったのである。 だが、彼は、その『まさか』を、よりにもよって礼拝堂で為そうとしているようだった。 瞬の肩を石の床に押しつけ、彼は、瞬の修道士の長衣の裾をたくしあげてきたのだ。 「女より綺麗な脚だ。おまえ、ここに来る前は何をしていたんだ? さぞかし、多くの男たちを堕落させていたんだろう」 薄い修道服を通して石の床の冷たさが瞬の背中に広がり、露わにされた瞬の脚に外気がまとわりつく。 礼拝堂の空気は石の床ほどには冷たくないことを、瞬はその時初めて知った。 男の異様に熱い手が、瞬の脚を撫でてくる。 瞬は、その手の持つ熱にぞっとしてしまったのである。 氷河の手も熱かったのに。 同じように熱い手だというのに――。 こんなところで、こんな男に汚されてしまうわけにはいかない。 瞬は、彼が自分の脚に気をとられているうちに、何とか彼の手から逃れようとしたのである。 相手は大男だったが、幸い武芸の類をたしなんだことはないらしく隙だらけだった。 瞬の肩を床に押しつけている手から力が抜けた時、彼の手を捕え、逆に捩じあげることは容易にできる――と瞬は考え、その時を待った。 瞬の脚を撫でている彼の右手には、瞬を押さえつけようという意思は働いていなかった。 男の隙を衝いて逃げることは苦もない仕事だと、瞬は踏んでいたのである。 礼拝堂の壁画に描かれている聖アントニウスの冷酷なほど虚ろな眼差しに気付くまでは。 その目は、瞬の罪を無言で糾弾しているようだった。 氷河への恋、彼の妻になる人への嫉妬、いっそ二人で修道士になってしまえば氷河を誰かに奪われることはないと考えてしまった一瞬。 自分が犯した数々の罪。 だから、これは神の与える罰、これは神が罪深い人間に与える試練なのかもしれないと、瞬は思ってしまったのである。 途端に、男が瞬の上にのしかかってきた。 身体を押し潰されそうになり、男の重みが吐きたくなるほど不快で、瞬は思わず固く目を閉じてしまったのである。 もう逃げられない――絶望的な気分で瞬がそう思った時、 「この下種野郎! 瞬に触るなっ」 修道士のものとは思えない言葉と声が礼拝堂に響き渡り、次の瞬間、瞬の上にいた男の身体は礼拝堂の壁に叩きつけられていた。 「馬鹿! なぜ逃げようとしない! あんな腕力しかない隙だらけの奴、おまえならいくらでも――」 氷河の手が、瞬の上体を石の床から勢いをつけて引き離し、氷河の声が、覚悟を決めて固く閉じていた目を恐る恐る開けた瞬の上に降ってくる。 瞬は身体を縮こまらせて、微かに首を横に振った。 「こ……恐くて……」 「……」 神の真意はどこにあるのか。 なぜ神は、ここに氷河をお遣わしになったのか。 神は“瞬”という人間がどうなればいいと考えているのか。 神の心が見えないことが、瞬の心を怯えさせ、瞬の身体を恐れで震わせていた。 「そうか……そうだな。怒鳴って悪かった」 小刻みに身体を震わせている瞬の前に、氷河が片膝をつく。 「だが、大丈夫。もう大丈夫だ」 小さな子供をあやすような声音で『大丈夫』を繰り返しながら、氷河は瞬の身体を強く抱きしめてきた。 瞬は こらえきれず、彼の胸の中で泣き出してしまったのである。 その涙の訳を――本当の訳を――氷河に知られるわけにはいかない。 その思いが、いつまでも瞬の嗚咽を止ませてくれなかった。 |