「荒野のキリストも 今の俺たちほど つらい思いはしなかっただろう。パレスチナはここよりずっと南方にあるんだからな」
ぶつぶつ文句を言いながらロバの背から焚き火用の薪を下ろしている氷河を、瞬は申し訳なさでいっぱいの目で見詰めることになった。
氷河は自分のせいで耐えなくてもいい試練にさらされることになったのだと思うと、いたたまれない気持ちになる。

月のない夜。
冬の星座が、宝石のように――あるいは海岸の無数の砂のように――夜の空を埋め尽くしている。
樹木もろくに生えていない荒地で、唯一まともな神の恩寵は、冷たい風をしのぐことのできる大岩がそこここにそびえ立っていることだった。
その岩陰の一つで火を起こすと、氷河はロバの両脇腹にぶら下げられた荷袋から厚手の外套を引っ張り出した。

「ロバというやつは、人が乗るには不便だが、荷物運びにはうってつけの生き物だな。こんなにぶらぶら荷袋をぶら下げられたら、気位の高い馬は臍を曲げて 人間の言うことを聞こうとはしないだろう」
そう言いながら、火の様子を見ていた瞬の身体を引き寄せ、氷河が二人の肩をまとめて外套で覆う。
「今夜は横になるのは諦めろ。そんなことをしたら、土に体温を奪われるだけだ。つらくても、俺に寄りかかって――瞬?」

氷河に肩を抱きしめられた途端、瞬の身体はぶるぶると小刻みに震えだしていた。
それが寒さのせいではないことを、氷河はすぐに察したらしい。
そして、自分が10年来の親友に恐れられているのだということに、彼は気付いてしまったようだった。
氷河が察した“恐れ”と、瞬が実際に感じている“恐れ”は、その内容が全く違っていたのだが。
瞬が恐れているのは氷河ではなく、罪深い自分自身だった。

「不愉快でも我慢しろ。おまえを凍死させるわけにはいかないんだ」
苛立ちをたたえた氷河の声が、言葉にはせず『俺をあんな男と一緒にするな』と憤っている。
「そ……そんなつもりじゃないよ……!」
瞬は慌てて左右に首を振り、氷河の誤解を否定した。
誤解だということを知らせるために、氷河の肩に頬を預ける。
氷河は、それで機嫌を直してくれたようだった。

「……子供の頃、二人で家出をしたことがあったね。僕が氷河のお館に行って、1週間も経ってなかった頃。あれも真冬だった」
心細そうに輝く星のきらめきの音の他には音のない夜。
闇の中の炎には、不思議な感傷を生む力があるのかもしれない。
瞬は、その炎の中に、幼く幸せだった頃の二人の姿を思い起こすことになった。

「おまえも大概つまらないことを憶えているな」
同じように ぶっきらぼうな言葉でも、そう告げる氷河の声には、先刻のそれとは違って怒気が含まれていない。
瞬は、氷河に気取られないように小さく微笑した。
「そりゃあ……びっくりしたもの。天使みたいに綺麗な顔をした若様が、どんでもない意地っ張りの腕白で」
「あれはカミュが悪いんだ。先祖伝来の槍だか何だか知らないが、俺はわざと池に投げ捨てたわけじゃなかったのに、謝れなんて言うから」
「わざと捨てたんじゃなく、不注意で落としちゃっただけだよね。でも、普通の子供は、あんなに仰々しく飾ってあった槍で池の氷を割って遊ぼうなんてことは考えないと思うけど」
「……」
瞬に的確で辛辣な指摘を受けた氷河が、反駁の言葉に詰まる。
確かにあれは“謝らなければならないこと”だった。
だが、当時の氷河には、どうしてもそう思うことができなかったのだ。

「氷河は怒って家出して――でも、僕のために家出をやめてくれた」
「一人で館に帰ろうと思えば帰れるのに、寒さに震えながら、それでも俺についてきてくれる おまえを見て――俺が詰まらぬ意地を張り続けると、人を苦しめることもあるんだってことを、あの時、俺は初めて知ったんだ。俺は、そんなことさえ知らずにいた我儘な子供だった」

あの時の氷河は、火を起こす術も知らない子供だった。
秋蒔き小麦の麦踏みが終わったばかりの麦畑の片隅で、身を寄せ合い抱き合っても瞬の身体は冷えていくばかり。
やがて瞬は意識を失い、気付いたのは、暖炉の火が赤々と燃えている暖かい部屋のベッドの上。
『瞬を助けてくれ』と叔父に頭を下げた氷河は、既に半日近くの間、火のない物置部屋にお仕置きとして閉じ込められているという話だった。
その話を聞いた瞬は、看護婦の目を盗んでベッドを脱け出し、厨房で手に入れたパンを持って、氷河の許に向かった。
そうして、瞬は、夜着のまま、ベランダと出窓伝いに館の外から物置部屋の窓に取りつき、氷河にパンの差し入れをしてのけたのである。

もちろん、瞬のしたことは すぐにカミュの知るところとなり、氷河は、カミュに再度の叱責を受けることになった。
あの時、瞬は、カミュのやりようは理不尽だと思ったのだが、今では瞬にも彼がそうした理由がわかっていた。
カミュにとって氷河は大切な肉親だが、瞬は叱る価値もない使用人の子供だったのだ。
氷河が、いわゆる“いい子”になったのはその日以降。
つまり、カミュの処置は適切で効果的なものだったということになる。

今のこれ・・は、あの時のように無意味な意地と軽率が招いた家出ではないのだろうか――?
焚き火の炎が照らし出す氷河の横顔を見詰めながら、瞬は思い切って氷河に尋ねてみたのである。
彼が、貴族や金持ちの道楽にすぎないと認識している修道生活に入ろうとしている理由を。

「氷河は、どうして修道士になろうなんて考えたの」
「幸せになりたいから」
氷河の答えは、どんな生き方の理由にもなり得る、掴みどころのないものだった。
瞬は、その答えに軽い当惑を覚えたのである。
「神様しか氷河を幸せにできないの? 叔父君や友人や……僕では氷河を幸せにしてあげられないの?」
「……」
氷河はそれには何も答えず、答える代わりに瞬の肩を右の手で抱き寄せた。
そして、もう一度、その言葉を繰り返す。
「幸せになりたいんだ」

幸せになりたい――。
氷河がそのために考え決めたことなら、彼の決意を妨げることはできないと、氷河の胸の中で瞬は思ったのである。
ひどく切ない気持ちで、瞬はそう思った。
氷河を幸せにできるのは神だけだというのなら、氷河のためにできることは瞬には何もないということになる。
瞬は、それが悲しかった。






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