3年生がほとんど授業に出なくなった木枯らしの季節。
A高校のグラウンドには生徒の影がただの一つもなかった。
日曜日とはいえ、自由に使える運動場なのだから、幾人かはスポーツに興じる生徒がいてもいいようなものなのだが、生徒たちは皆、各々の部屋か図書館で勉学にいそしんでいるらしい。
3年生には受験が、1、2年生たちにも、次年度のクラス編成を決める最後の定期考査や実力試験が待ち受けている。
この時期に、寒風吹きすさぶ中で汗を流し風邪を引くのは、誰もが避けたいことだったのだろう。

星矢が、そんな人気のないグラウンドの真ん中を、友人たちとの待ち合わせの場所に指定したのは、彼がまだ中等部の生徒で、彼が呼び出しをかけた友人たちが高等部の生徒たちだからだった。
中高一貫教育によってT大合格者を輩出してきたA校の、中等部の校舎と高等部の校舎のちょうど中間地点がそこだったのだ。
合理的と言えば そうとも言えたが、寒風吹きすさぶグラウンドのど真ん中という場所は、状況を総合的に判断して導き出された適切な待ち合わせ場所とも言い難い。
もっとも、星矢自身は、彼がそこで落ち合うことになっている友人たちは 木枯らしに吹かれたくらいで風邪をひくような輩ではないという確信を持っていたからこそ、その場所を待ち合わせの場所に指定したのだが。

その約束の場所に約束の時刻より20分も早く現われた氷河に、星矢は目を丸くすることになったのである。
氷河は寒いのが得意という奇矯な男ではあったし、約束の時刻を守らない男でもなかったのだが、決して約束の時刻の20分も前にやってきて待ち合わせ相手を待つような殊勝な心掛けの持ち主ではなかったのだ。
「やたら早いじゃん。おまえの進路面談、3時からじゃなかったか?」
そう聞いていたからこそ、星矢は待ち合わせの時刻を3時半に設定したのである。
氷河が進路面談を終えて登場するまでサッカーボールでも蹴っていようと、星矢は考えていたのだ。

時計塔にある時計の針は3時10分を指していた。
進路相談室からグラウンドまでの移動に5分かかったとして、氷河は彼の人生を左右することになる(かもしれない)進路面談を僅か5分で終えてきたということになる。
いくら何でも それはお手軽すぎるだろうと、『楽天』『楽観』『考えるより当たって砕け』をモットーにしている星矢でも思った。
が、当の氷河は、必要なことは決めてきたのだから何も問題はないという考えでいるらしい。
彼は、いかにも気のなさそうな顔と態度で、彼の進路面談の内容を星矢に報告してきた。

「今年の受験結果が出て、偏差値がいちばん高いところに行くと言ってきた。指導官もそれでいいとさ」
「未来への展望が全くない進路だな。てことは理三か文一?」
「さあ。どこかは知らん」
規定の手順を踏めば入学後の転部は可能だろうが、だからといって、そんないい加減な進路の決め方があるものだろうか。
そう思いはしたのだが、星矢はあえて その件に言及することはしなかった。
氷河の投げやりな態度は、彼の目的がT大に合格することであり、T大に入学することではないからだということを、星矢は よく知っていたのである。

「まあ、医者がエリートだったのは昔の話で、今は『きつい』『帰れない』『給料が安い』の、立派な3K職だからな。官僚なんてのも、昔ほどおいしい職業ではなくなってきている。将来の展望なんてものは、その時々の世の中の情勢を見て、臨機応変に考えればいいさ」
氷河の早めの登場のおかげで星矢のボール蹴りに付き合う必要のなくなった紫龍が、脇から口を挟んでくる。
「T大を受験するつもりではいるし、合格もするだろうが、合格したら入学しなければならないというものでもないだろう。どこでもいいんだ。俺は自分に課せられた義務を果たすだけだ」
紫龍の言を受けて、氷河は軽く首肯した。

「責任感が強いのはいいことだけどさー」
友人たちの、実に現実的かつ夢も希望もない将来の展望を聞かされて、星矢は口をへの字に曲げることになったのである。
なにしろ、星矢は、氷河たちとは違って、はっきりした将来の夢を持っていたのだ。
すなわち、日本初のT大出身プロフットボーラーになるという夢を。
星矢は、夢のない友人二人を詰まらなそうに眺めることになった。

「紫龍の進路面談は昨日だったんだっけ?」
「俺は無難なところで、理科二類」
「やっぱ、合格はするけど入学はしないのか」
「来年考える。ま、この学校は俺を5年間タダで養ってくれたんだ。そして、あと1年、タダで養ってくれる。その恩は返すさ」
「しっ。壁に耳あり、障子に目ありだぜ」
紫龍が人に知られてはならぬことを口にするのを聞いて、星矢が友人の不注意を指摘する。
寒風吹きすさぶグラウンドの真ん中で、氷河は星矢の過ぎる慎重をからかうことになった。

「どこに壁や障子があるというんだ」
「壁や障子はないけどさ、この寒いのにどういう物好きだって目で俺たちを見てる奴等はいっぱいいるぜ。さっきから、校舎の廊下を通ってる奴等が、動物園のペンギンか白クマでも見るみたいに俺たちをチラ見してる」
「読唇術をマスターしている奴がいない限り、俺たちが話している内容まではわからんだろう」
星矢の懸念は、もちろん杞憂にすぎない。
星矢はただ、紫龍や氷河より、ある意味で義理堅いだけだった。
「でもさ、一応、俺たちが費用全部を ここの学校持ちで生徒やってることは極秘事項なんだから。絶対誰にも喋るなって、入学する時、念書を書かされただろ」

両親を早くに亡くし、経済的にも恵まれているとは言い難い彼等がこの学園に在籍していられるのは、公にできない、ある仕組みのおかげだった。
彼等は、このA校の歴とした在校生だが、学校には入学金はおろか授業料も寮費も納めていない。
それどころか、学食や購買部での支払いも、彼等 及び彼等の親の懐からは1円たりとも支払われていなかった。
キャッシュカードを兼ねたIDカードの清算は、すべて学校側が行なってくれている。
なにしろ彼等は彼等の出費した金額を親に払ってもらうことはできなかったのだ。
肝心の親がなかったから。

彼等は、授業料を払える普通の受験生たちとは別枠で入学試験を受け、その試験に合格して、公立に比べればはるかに金のかかる私立校に入学した。
試験自体は一般の受験生と同じ日に、同じ内容のものを受けたのだが、彼等にとって その試験は、トップの成績を取らなければ合格にならない試験だったのである。
入学後も、彼等は、校内の定期考査で総合5位より成績が下がったら即退学――自主退学の体裁はとるが――という厳しい在籍規定をクリアし続けてきた。
彼等はその規定をクリアし続けて、極秘特待生として ここにいる生徒たちだったのである。
彼等は授業料を払って教育を受けさせてもらう生徒ではなく、T大合格者を増やすために学校に雇われている労働者のようなもの。
もちろん、そういう制度があることは、一般の生徒やその父兄には知られておらず、まして学外の人間には絶対に洩れてはならない秘匿事項ということになっている。

「せいぜい、ガキの頃から教育費をつぎ込んでもらった金持ちのぼんぼんの振りをしてやるさ。親も金も家もない みなしごだってことがばれないように」
いわゆる孤児である彼等に それができるのはA校が全寮制を採用しているからだった。
そのため、彼等は学校生活に家庭の匂いを持ち込まずに済む。
月々の使用に限度額は設定されていたが、最低限の体裁を整えるための費用は、学校側が負担してくれていた。

万一 T大に現役合格できなかったとしても、負債返済の義務は生じない。
それは、この闇ルートの口止め料として、そして6年間特待生の立場を守り抜いた報奨金として、彼等に与えられることになっていた。
が、T大に無事合格すれば、更に大学の入学金と1年分の授業料に相当する額を学校側が提供してくれることになっているので、“親も金も家もない みなしご”は、受験合格のその時まで気が抜けない。
彼等は、そういうシステムの中に身を置く生徒たちだった。






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